考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

養老孟司と藤原正彦の似ているところ

2005å¹´05月31æ—¥ | é¤Šè€å­Ÿå¸
 大それたタイトルだなぁ。。。

 養老先生はこの頃「身体を動かせ」「参勤交代しろ」「自然を見ろ」ってなことしか言ってない気がするけれど、昔書かれた本を読むと、「日本は明治時代は和魂洋才だったが、戦後は和魂を失った」ってなことを書いていたと思う。教育勅語はどんな本を探しても載っていないし、(これ、経験した。ある時、教育勅語ってどんなんだったんだろうと思って百科事典や何やらかんやらをを捜したけど、どこにも見つからなかったのだ。)宗教・哲学がこの国の教育にない、ということも書いておられる。養老先生は、自分が受けた宗教教育(養老先生はカトリックの中学高校に通った)は、当時は反発したが今では良かったと言っている。

 藤原正彦先生は、武士道の精神が大事だと思っている。それでまた、日本人に必要なのは、情緒力だと言っている。武士道は、藤原さんが士族の出だからのようだが、彼は、お祖父さんから漢文の素読をさせられたり、また、親からも卑怯を憎む精神で育てられたりしている。

 それで、思ったんだけれど、養老先生の宗教哲学教育も、藤原先生の情緒力も、同じようなことじゃないのかなって。お二方とも、人間が生きていく上でのバックボーンになる部分の重要性を述べていると思う。宗教、哲学、情緒、武士道というと、4つが4つとも、全く違うものではある。(だから、4つの異なる言葉が存在してるのだが。)しかし、この間私が纏めた(?)知的作業能力と意味を探索する能力のような分け方をすると、宗教も哲学も、情緒も武士道も、全て、意味を探索する能力に類すると思う。

 養老先生が、身体を動かせ、自然を見ろ、などというのは、知的作業能力に属する類になる。身体を使った入出力が増え、人間が生まれ、生き、やがて老い、死んでいく過程での自然の成り行きは、全てが知的作業能力に大きく関わる。
 しかし、それだけで人間は十分に生きることはできないものだ。知的作業能力をどのように使うか、どの方向に、何のために用いるかが本当のところはもの凄く重大なのだ。ここで出番が来るのが、意味探索能力になる宗教哲学だったりするのではないかと思う。藤原先生は宗教がお嫌いらしいが、藤原先生も、物事の判断の基準になるのが(←言葉は違っていると思うけど)日本人の場合は情緒力だとおっしゃる。だから、この4つの言葉に関する定義は異なっても、お二人は、本当は似たようなことをおっしゃりたいのだ。お二方の人間の見方に対する考え方の枠組み、骨格は、私は同じものだと思う。

 私は学校でいろんなことを生徒に話していると、授業をしても、題材のついでの雑談でも、たとえば、信仰や宗教に関わることは非常に触れにくい。私はもちろん特定の宗教の信者ではないし、大晦日は除夜の鐘を聞き、年が明けたら初詣に出かけ、クリスマスにはケーキを買うふつーの日本人でしかないが、学校で、宗教・哲学に関わることが話しにくいというのは非常に具合が悪いことではないか。(ところで、なぜ話しにくいかというと、誤解を招くと困ることになりやしまいかと心配するからだ。)生徒の様子、考え方を見ると、彼らがより良く、より人間らしく生きていくのに必要なのは、同じ「生きる力」とは言ってもテクニックのようなものだけではなく、そういった生きる意味での根本精神ではないかと、私はもの凄く感じるのだ。今の若者は精神面での根無し草になっている。宗教も哲学も、日本人としての情緒力は、そこを補ってくれるに違いないと感じる。でも、今の学校のシステムでは、どうしようもないのが現状だ。それでまたついでに付け加えると、学校の先生で、こんなことを言う人は誰もいない。教員の誰もが、そういったものの必要性を全く感じていないというのが、これまた精神の貧困に関わる気がするのだ。


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