第十回の課題
文章術さんは「一文を短く書け」という。
そこで、「文を短くする」の実践として、以下の文を「センテンスを分けて、読みやすくしてみよう」というのが
第十回の課題だった。
お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。
みんなのバラエティ豊かな楽しい回答は、
第十回のコメントやトラックバック、もしくは
第十一回の紹介からご覧いただきたい。
元の文章は、何を伝えたかったのか?
上記の課題文は、
太宰治『女生徒』の中盤に出てくる文章である。
『女生徒』を読むと、語り手の気持ちや情意を伝える文章であることがわかる。これは「料理レシピ」を伝えるための文章ではない。
「ひとつひとつに、それぞれに、気まぐれに、いろとりどりに、美しく配合されている(しかし、それはデタラメで空疎にも見える)」のは、料理ではなく、語り手の女生徒そのものじゃないか。語り方そのものじゃないか。『女生徒』という短編を読むと、そう感じられる。
課題文は、「料理レシピ」としては、分かりにくく、だらだらと長く、あちこちに意味が飛び、不要なことを云っている。だけど、
太宰治の『女生徒』は、気まぐれで、独善的で、飛躍した発想で、思い込みが激しいけど、突然まったく違うことを考え、気持ちの振幅が激しい女生徒に萌えるテキストなのだ。*1
文章術さんの「一文を短く」というアドバイスは、そういった語り手の気持ちを漂白してしまい、ただの「料理レシピ」にしてしまう。
表層の意味が分かりやすくなっても、もともと伝えたかった気持ちは相手に伝わらない。
分かりにくい部分も含めて、分かってもらいたい。なのに分かりやすくしてどうする。それじゃ、結局は、分かってもらえない。
だから、文章術さんの云う「センテンスを短くすると伝わる文になる」は、ときに間違いである。
そんな文章を書き続けていると、自分の気持ちが自分でも分からなくなっちゃうぞッ(人差し指でおでこをツン)。
気持ちや情意を伝える文章では「センテンスを短くしろ」などという単純な技巧は、通用しない。
*1:この頃(『女生徒』は昭和十四年に発表された)の太宰は、奥さんに口述筆記させていたらしいので、この文章を喋っているのが太宰治だと思うと、ちょっと萎える。そんな太宰にも萌えられるように精進したいと思います。って書いたら、昔のセーラー服を着て気分を出して詠んでいる太宰を想像してちょっと萌えた。って、その後、調べてみたら『女生徒』は口述筆記じゃなく、太宰の熱烈な読者の有明淑(ありあけしづ)という女生徒から送られてきた日記をもとにしたモノらしい。有明淑萌え。
語るより感じさせろ
「いや、もう、すげぇよ、まじ、まじ、すげぇから、すんんんんんんごいダーク、観た後、最悪 ━━━━って感じで、白い手袋の青年2人が、幸せな家族を監禁してさ、ミステリな伏線とか、ホラーな驚かせるところ全然なくて、映画らしい展開がことごとく成立しなくて、もうひたすら万力でギリギリギリギリな執拗さで、いたぶるさまが、もうね、鬱━━━━━━って感じでさ、でも、それでいてエンタテインしてる俺がいて、憤死寸前ですよ、憤死憤死、事前情報なしで観たほうがいいよ、すぐ観ろよ、観て憤死しようよ、お願い」と興奮しながら映画について語る友達。
語っている内容は支離滅裂で意味もよくわからないのだが、支離滅裂になるほど興奮している友達を見て、「その映画、凄そう」と思った経験があるだろう。
文章にするとき、そういった興奮を文体に込められれば、そのほうがいい。一文を短くして、すっきりと整理し、読みやすくして、文章そのものから興奮を消す必要はない。
「ぼくは興奮した」と書くよりも、文章そのものの興奮のほうが、遙かに伝染する。
太宰治『女生徒』の中から、ダラダラと長い文を引用しよう。書き出しの部分だ。
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。
最初の一文は短い。が、次の文は、長い長い。270文字もある。この文章を、すっきりと整理し、短いセンテンスにしてしまうと、この感じは、消えてしまうだろう。
書いている情報だけを伝える文章なら、「一文を短くしろ」でいいのだろう。だが、
文章の書き方そのもので、伝えられることがある。それを、捨てる必要はない。
読みやすい文章になっても、伝わらない文章になっては意味がない。分かりやすそうな文章になっても、けっきょく分かってもらえない文章になってはしょうがない。
何を伝えたいのか? それを考えて、文の長さを変えていかなければならない。
文章術さんは、一文を短くしろって言うけどさ、
文章/ぼくは、そんなに単純じゃないから。
ってところで、次回!