「行動経済学」友野典男(光文社新書)
- 作者: 友野典男
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/05/17
- メディア: 新書
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概要
近年急速な発展を遂げ、今なお進展中の「行動経済学」という学問領域の基礎的な紹介。
現在の標準的経済学はその理論のミクロ的基礎となる人間行動のモデルにかなり強い仮定を置いている。それはいわゆる「経済人」と呼ばれる極めて合理的で利己的な人間のモデルである。「経済人」は自らの嗜好を明確に理解し、複数の嗜好間には矛盾がなく、さらにこの嗜好は常に不変である。そして、その嗜好に基づいて、いついかなるときでも自分の効用が最も大きくなるような選択肢を選ぶことが出来るとされる。また「経済人」は極めて合理的であると同時に完全に利己的であり、自己の物質的利益を常に最大化するよう行動する。
しかしながら「経済人」モデルは実際の人間行動と整合的とは言えない。特に認知心理学の明らかにした各種の認知バイアスは人間が常に合理的に行動できる訳ではないことを強く示している。例えば囚人のジレンマやモンティ・ホール・ジレンマ、ベイズ定理などの条件付き確率の解釈やフレーム問題、ヒューリスティックスや各種の認知バイアスなど認知科学に興味ある読者からすればなじみ深い概念が本書には多く出てくるが、これら認知科学の成果が描き出す人間像は全知全能のごとき「経済人」モデルとは到底相容れないものである。
行動経済学はこのような認知科学の成果をもとにして経済学の新たなモデル構築に貢献しようと言う、その意味では従来の経済学の修正にとどまる試みである。
行動経済学の成果は極めて多岐に渡るがその代表的なものとして「プロスペクト理論」というものがある。これは標準的経済学における「期待効用理論」に代替理論として考案されたものであり、標準的経済学の効用関数に対応する「価値関数」と、確率の解釈に関する「確率加重関数」によって成り立っている。
「価値関数」の主な特徴としては以下の三つが挙げられる。すなわち「参照点依存性」、「感応度逓減性」、「損失回避性」である。
「参照点依存性」とは人間が何かの価値の評価をする場合に、価値そのものを絶対的に評価するわけではなく、基準となる点からの変化分を評価することを言う。例えば資産運用に置いて元本3000万円が2000万円に変化した場合と、元本500万円が1000万円に変化した場合、どちらが効用が高いと言えるだろうか。効用を最終的な富の水準で計る従来的な効用理論では前者だが、プロスペクト理論においては後者の方を高いと見る。
価値関数の二番目の性質、「感応度逓減性」とは利得も損失もそれが小さいうちは変化に敏感に反応するが、価値が大きくなるにつれその変化に鈍感になっていくというものである。例としては年収一千万の人が一千五百万円に昇給する場合と、年収三百万の人間が八百万円に昇給する場合が分かりやすいだろう。この場合増加分は両者とも五百万であるにも関わらずプロスペクト理論においては後者の方が高い価値を持つと見る。
価値関数の三番目の性質は「損失回避性」である。これは人が価値の評価において利得よりも損失を強く評価するということを示している。例えば50%の確率で1000円貰えるが、50%の確率で1000円失うというくじがある場合、大抵の人はそのくじを引くことを拒否するだろう。1000円を貰う確率と失う確率が五分五分だとしても、人は損失の方を強く評価するため、くじにより得られる期待値をマイナスと評価するからだ。
価値関数と並んでプロスペクト理論の核となるのが「確率加重関数」である。従来の効用理論では結果の効用と、その結果が得られる確率が掛け合わされることによって期待効用が表される。その際確率は0.5なら0.5のまま評価される。例えば0.5の確率で1000の効用が得られるとすると期待効用は500である。しかし確率加重関数においては確率がそのままの値で評価されるわけではない。つまり三分の一の確率であれば、それがそのまま三分の一と受け取られずに違った値として解釈されるということである。実証的には約0.35をしきい値としてそれより低い確率は実際より過大に評価され、それより大きい確率は過小に評価されることがわかっている。具体例としては人が交通事故よりも飛行機事故や殺人のリスクを相対的に大きく評価することが上げられるだろう。
また、価値関数と同じく、確率加重関数にも感応度逓減性が働くため、確率が0から0.1になったり0.9が1.0になったりした場合、0.3が0.4になる場合や0.6が0.7になる場合よりずっと大きな心理的影響を及ぼす。
以上は行動経済学のもたらした成果の一端であるが、行動経済学はいまなお多くの試みが続けられている新しい学問領域であり、進化心理学や神経経済学などの隣接分野と相互に影響を与えあい今後更なる発展が期待されている。
覚書
二重プロセス理論:人間の情報処理は直感的なシステムと分析的なシステムに分かれているとする理論。前者をシステムI、後者をシステムIIと呼称する。これらは様々な行動において複合的に利用され人間の認知処理において時と場合に応じて利用されている。システムIはおおむね日常的な処理や、迅速な判断を必要とするときに利用され、システムIIは慎重な判断を必要とするときに利用される。これらの処理は固定的なものではなく、熟練によってもどちらを使用するかが変化する。例えば車の運転がそうであるように誰でも初めての間は様々な要素をいちいち考慮してから行動するが、熟練するに従って多くの動作が無意識、自動的に行われるようになる。こういった事例が二重プロセス理論によって上手く説明される。
保有効果:人があるものや状態*1を、それを持っていない場合に比べて、持っている場合に高く評価すること。価値関数における損失回避性から導かれる。例えば1950年代に1本5ドルで買ったワインが今では100ドルの値段がついているにもかかわらず、それを手放そうとせず、同じワインを手に入れるにしても35ドル以上は払おうとしない事例が存在する。これは利得よりも損失を強く評価するため、ワインを手放したり35ドル以上の金額を払ったりすることを、100ドル手に入れたり100ドルの価値あるワインを手に入れることよりも大きな損失として評価するからである。人の持つ所有物への執着はここからうまく説明できる。
また保有効果は人があるものを手放す代償として受け取ることを望む最小の値である受取意思額(WTA)と、それを手に入れるために支払っても良いと考える最大の値である支払意思額(WTP)が乖離することを意味する。このことの経済学的含意は大きい。それは例えば標準的経済理論の核心にある二つの無差別曲線は決して交わらないという性質に重大な疑問を投げかけるからである。またWTAとWTPの乖離はいわゆる「コースの定理」の前提をも揺るがすため社会全体の厚生改善の問題や社会正義の問題にも重要な示唆を与えるだろう。
現状維持バイアス:人が現在の状態から移動することを回避する傾向を持つこと。現状からの変化は、良くなる可能性と悪くなる可能性を含むが、損失回避性によって人は悪くなる結果を強く評価するので、現状維持指向が強くなるのである。
人の協力行動には「処罰」の可能性が大きく影響を及ぼすことが実験によって確かめられている。公共財ゲームと呼ばれる、ゲームの参加者が任意に与えられた手持ちの金額を任意に拠出してその見返りが全員に分配される実験がある。そこでは人の協力行動は条件付きであり、回数を経るに従ってフリーライダーが増えることによって衰退することが知られている。しかし、ここにゲームの参加者がフリーライダーを処罰することが出来るルールを設定すると、協力行動は劇的に増加することがフェールとゲヒターの実験によって示された。
p272-
マーウェルとエイムスの研究によれば「経済学を学ぶと利己的になる」ことが示されている。マーウェルとエイムスは経済学専攻の学生とその他の専攻の学生に公共財ゲームを行った。その結果、経済学専攻者の平均貢献率は初期額の20%であるのに対し、その他の専攻者は平均49%であった。この結果に対してフランクが様々な観点から「経済学を学ぶと利己的になる」のかについて検討したが、経済学専攻者は多く利己的な行動を選択した。
pp318-321
感情の働きは大きい。感情が物質と同様に快をもたらすゆえに、人は行動するのである。グリムチャーとドリスは、人間は、生理的な意味での効用最大化を目指しているのではないかと言う。標準的経済学における効用最大化とは異なり、物質的満足だけではなく、感情がもたらす快を含めたいわば総効用を最大にしようとしているというのが、生理的効用最大化である。おそらくそれは人間進化によって獲得した性質であると考えられる。しかし、生理的効用最大化がなされているという確証はまだ得られていない。
p379
興味深い。ある物や現象がアプリオリに客観的な価値をもっている訳ではない以上、事象の価値はそれを認識する主体との関係によって決定されるわけで、そういう観点から見れば物事そのものに影響されるのではなく、その物事によって快があたえられるように形成された情動が行動のインセンティブになるよう生命は進化したと考えることが出来る。
雑感
戦後から現代に至り研究の進む認知科学を基盤として、人間を科学する様々な学問領域が生まれつつある。標準的経済学に対しては伝統的にその前提の非合理性を攻撃する「反経済学」の流れがあるわけだが、オルタナティブとなる理論を掲示できるわけではなかった。行動経済学はそのような状況を生産的な形で乗り越え、標準的経済学の代替理論を提供できるポテンシャルを備えているように見える。まだまだ発展途上の段階だが社会科学全般の科学性向上にむけて行動経済学の役割は大きなものとなりそうだ。
*1:財だけでなく地位や意見などを含む