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今年の「#文学」
norishiro7.hatenablog.com
小説を書くために必ずしも取材をする必要はないと思うが、世界があんまりよろしいもので、風景が話の犠牲になるのに罪悪感を抱くようになり、最近は実際に取材して目にした風景しか小説に書かないようにしている。 取材といっても、ここを舞台にしようと決めるのではなく、どこを舞台にしようかなと歩いている方が近く、もっと言うと好きだから歩いているのであって、取材のためという感じでもない。だから、ビジネスライクに考えると捨て取材と言えるようなものも山ほどある。この世のいいところをできるだけ多く見たい知りたい、それを書きたいという気持ちで、一応そんなことになっている。 おもしろいもので、目にした風景に登場人物を立ち会わせようとして話をつくると、罪悪感は全くないのだった。私はひとりの人間として、自然の風景をつくることはできないけれど、誰かをそこに連れて来ることはできるのだから、考えたら当たり前だ。 私が好んで歩く
(結果はともかく予約投稿されるようになっておりま した) 現代の日本の小説で複数人の会話が描かれることは驚くほど少ない。ほとんどが二人、時に三人で話している。四人はあまりなく、五人以上はまず見ない。ましてや長くは続かない。あとは、四人か五人いるらしいところでも、話し始めると一対一がペアを替えながら行われているだけというのもある。 文学の界隈では「人間が書けている」みたいなことを言われるが、人間について書くなら複数人で話す場面など沢山あって然るべきなのにそんな風なのはなぜかと言えば、結局のところ主な理由は、四人以上になると言動を追うのが大変だからである。話題や流れを作り上げるのはもちろん、口調や語彙や性格の違いも考慮しないといけないし、そもそも何か言ったりやったりするたびに誰の言動か示す必要がある。恐ろしいほどテンポが崩れ、異常に重複する「言った」「見た」とかの語には絶えず工夫が求められる。
ちかちゃんのはじめてだらけ (シリーズ本のチカラ) 作者:薫 くみこ 日本標準 Amazon 『旅する練習』で第37回坪田譲治文学賞をいただいた。 すごくうれしいのは、自分にとって昔から馴染み深く、理念に共感できる賞だからだが、それはおいおい受賞の関連でどこかに書くことになるかも知れないので、ここには書かない。 締切つきのやるべきことと一緒に送られてくるスケジュールや何かには、贈呈式と一緒に西本鶏介さんとの対談が予定されているとある。自分の名ではなく「受賞者」と書いてあったが、チラシもできているらしい。 西本鶏介さんは、児童文学作家であり児童文学評論家である。というのはウィキペディアにだって書いてあるのでいいとして、自分にとっては『上手に童話を書くための本』の著者というのが一番最初に出てくる。 こんなタイトルだけれど、ハウツー本として読んだわけではない。そもそも、小説家になるためにハウツー
ローベルト・ヴァルザーとの散策 作者:カール・ゼーリヒ 白水社 Amazon 「今日ローベルト・ヴァルザーが忘れられた作家のひとりに数えられていないのは、まずもって、カール・ゼーリヒがヴァルザーを気にかけた、という事実のおかげである」 (W・G・ゼーバルト『鄙の宿』p.118) ゼーバルトはそう書いた上で、その功績として真っ先に「ヴァルザーとの散歩の報告」を挙げている。それは、精神病院で暮らしていたヴァルザーと接触し後見人となったゼーリヒが、二人で何度もした散歩について記録したもので、すなわち本書を指す。刊行は一九五七年だから、六十年以上経っての日本語訳ということになる。 2020年、本書の訳者である新本史斉さんによるヴァルザー論なども出て、ようやく一般読者もヴァルザーの人となりについて触れられるようになったという昨今である。 ちなみに、新本史斉さんと書くのは、自分がヴァルザーについて書い
今日を歩く (IKKI COMIX) 作者:いがらし みきお 発売日: 2015/03/13 メディア: コミック いがらしみきおは、15年以上、雨の日も風の日も雪の日も、毎日、家の周囲の決まったコースを歩き続けたという。今も続くものかわからないが、2014年から2015年にかけて、その習慣が漫画として描かれた。 この『今日を歩く』は、散歩を描いた漫画ですが、私は私小説というか、私漫画を描くつもりでした。しかし、それを描けたかというと疑問です。苦しまぎれに、ただのエッセイ漫画や実録漫画に逃げてしまったところもあります。 (あとがき より) ただのエッセイマンガや実録漫画とは、私漫画とはなんだろうか。そのヒントは、同じくあとがきに書かれたこんな部分にあるように思われる。 私も遠からず死ぬことを感じます。生きている瞬間と死ぬ瞬間の境目がどんな按配なのか、よく考える。あんな感じ、こんな感じと、何
保坂和志さんと対談した。何が話せたわけではないけれど、保坂さんの「群像」の連載に自分のことが書いてあったので書きたくなった。 その連載の第六回のタイトルは「鉄の胡蝶は歳月に夢は記憶の彫るか」となっており、単語が固定されないで水に浮かんでるみたいに変わってきている。そこに書かれた「乗代雄介との対談補遺」は、自分には良くわかる話でありながら、同時に自分ならそんな言葉は使わない使えないという言葉で書かれていたので活力になった。 その書かれた言葉が少し前かだいぶ前かにその言葉や文になろうとしていた際、つまり書くという行為の最中に保坂さんが考えていたことは、自分が考えていたことと同じなんだと、けっこう心から思えてしまう。最終的にああして誌面に固まった言葉が、自分の思いようや書きようとは当たり前だが異なるからこそ、書こうとしていることが同じであると信じられるというか、異なる同心円から同じ中心に働きかけ
あたしはこの学校に越してきた小2の時からずっと夜岡のことを気になっていた。ちょっと長すぎる前髪も、長すぎるから良いと思っていた。 だから夜岡の誕生日会に呼ばれたアオイちゃんから夜岡の誕生日会にいっしょに行こうって誘われたときは「別にいいけど」なんて言ったけど、正直めちゃくちゃ嬉しくて、その日の日記はとても長くなり、あることないこと色々書いてしまった。 夜岡の誕生日はちょうど週末の日曜日で、パーティーが始まるのは1時から。招待状があたしの家のポストにも直接届いて、その軽さにドキドキした。 あたしは何を着ていくか迷いに迷ったけど、いつもと同じように、緑のニットに黒いスカートで出かけていくことにした。 「こういう時ぐらい、もうちょっと女の子らしいスカートで行こうって思わないの?」 お母さんが玄関まで出てきて、嘆き節であたしを見送る。自分が買ってきたくせに。お母さんは何もわかっていない。でも、わか
「おじいちゃんの七つのカス」という自由研究が大問題になったぼくは、いよいよ教育委員会から呼び出しを喰らってしまった。いったいどうなってしまうのだろうか。 「大丈夫だ、クニヤス。先生がついてるぞ。お前の自由研究はいいものだった。自信を持つんだ。まとめサイトにさらされたからってなんだってんだ。どーんとかまえてりゃいいんだよ! ジュース飲むか!?」 尾形先生は電車で、でかい声でぼくを励ました。こういうところがいやなんだ。周りの人がチラチラ見てはスマホを手に取り忙しそうに指を動かす。それに、ぼくの自由研究を最初にSNSでさらし上げたのはあこがれの坂田さんだ。 「マンゴーラッシー」 これが飲まずにいられるか。「教育委員会上」駅で下り、改札を出ると直でエレベーターのドアだった。恐る恐るエレベーターに乗ると、自動的にドアが閉まり、スカイツリーエレベーターのスピードで、どんどん地下へ降りていった。 「本当
僕が当時漠として抱えていた「不快」は、この一点に存していたのかもしれません。 つまり、なぜこんな風に書くことしかできないのか。それが認められてしまうのか。 おそらく僕をいちばん苦しめていたのは、先生に引用と模倣と隠蔽だらけの文章を見抜く力がなかったとかそういうことではなく、それを見抜く術自体が、はっきり言って「ない」ということかもしれません。誰も、他我をわかることなどできないのです。 全ての影響を隠蔽すればいくらでも可能だということ。影響に気づきもせず、まかり通って、それが「個性」と呼ばれるこの社会が、どうにも居心地が悪かったのです。 自分が受けた影響を細部まで自覚するかしないか、それをわからせるようにするかしないかは、人それぞれの倫理のみに寄りかかっているといえるのではないでしょうか。 そして、倫理だからこそ、自覚しなきゃ罪というものでもないのです。 そして2014年師走の僕は、これまで
「熱帯魚見せて」「マンガ見せて」の乱れうちによって、サークルの飲み会おわりで芋川さんの一人暮らしの家に招かれた俺。熱帯魚はみんな死んでたし、たくさん持ってると言っていたマンガは俺の持ってる1000分の1しかなかった。というか『ダイの大冒険』しかなかった。俺はそれでよかった。 2時間、俺は一言たりとも、いや、最初に「ダイの大冒険で誰がいちばん――」「ザボエラ」と答えた以外は一言も喋らなかった。気まずすぎる。慣れていないからだ。加湿器だけがひそひそ話みたいな音を立てていた。 しびれを切らせたのは芋川さんだった。 「お腹すいてない? ラーメンか何か作ろうか?」 「ザボエラ」 突然話しかけれたからまたザボエラと言ってしまったし、俺は女の子の部屋に初めて入ったというのに2時間、妖魔士団長の名前しか言わない体たらくだが、どういうわけか芋川さんには伝わったらしい。 「ちょっと待っててね」 彼女がキッチン
武男は郊外のアウトレットに向かって、高速道路を北へ快調に飛ばしていた。昨年、武男が所有するミニバンは、優秀なミニバンに贈られる賞のひとつをみごと獲得している。その車内、助手席の妻はスマートフォンで目当てのワンピースに関する情報を根気よく検索しつづけ、後部座席の娘は、うつぶせと横むきの中間、ちょうどお姫様のような体勢でねむっていた。 わざわざ休日、車を出してまでアウトレットに向かうのは、妻と娘に背中を押されたからである。武男は家族を心から愛していた。これといった趣味もなく、NPO団体の幹部職員として年収600万円を稼ぎ出す武男のこと、器量にめぐまれた妻が品よく着かざって近所の目にふれることや、五年生になった娘が小学校の一学年や一クラス、そんな取るに足らないせまい世界とはいえ、大人びた服飾によってある程度の地位を万全にすることにやぶさかではない。 武男の哲学によれば、自信とは、成功体験をくり返
「丸山、きょうの放課後、校長室に来い」 壇ノ浦先生からそう言われたオレだったが、校長室の場所がわからず、掃除のおばさんに聞くことになった。おばさんが何も言わずに歩き出したのでついて行くと、図書室を通る最短ルートで校長室に着いた。 ノックして中に入ると、掃除のおばさんもついてきたのでびっくりした。そこに野村先生と校長先生と掃除のおばさんがいたので、びっくりした。校長室にもともといた方の掃除のおばさんは出て行き、掃除のおばさんが入れかわったということを確認した後、自分に向かって落ち着けと言った。 重厚感のあるテーブルをはさんで向かい合ったふかふかソファに2対2で腰かけたが、掃除のおばさんは一つだけある一人用ふかふかソファに移動してしまった。オレの真正面に座った壇ノ浦先生は、プリントに目を落としながら、険しい顔つきで言った。 「丸山、こんどの職業体験だけどな」 「はい」 「希望先がタンパベイ・デ
ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫) 作者:シャーウッド・アンダソン 発売日: 1997/06/10 メディア: 文庫 大江健三郎が綿矢りさに贈ったとかいう大野晋の『古典基礎語事典』「ながむ」の項にこうある。 ながむ 長い時間じっとひと所に目をやっている意。庭などを関心をもって凝視するのではなく、長時間にわたって一方向に視線を放ったままで、実際にはそのとき視野にない人や物事を思い浮かべるところから、場合によっては、視覚的な要素はまったくなく、直接にもの思いする意を表した。 実際にはそのとき視野にない人や物事を思い浮かべる時は、長時間にわたって一方向に視線を放ったままであることから、物思いにふけるという意を表すようになったというのは、なんだか実にいい感じではないでしょか。 物思いにふけるということはみんなやっていて人間観察や妄想ぐらい誰もがやっている。情けないとは思わないのか、と誰に
ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックス・エクストラ もっと!) 作者:阿部共実 発売日: 2014/05/08 メディア: Kindle版 ベンヤミンは友人のショーレムに宛てた手紙のなかで、カフカ作品の登場人物についてこう書いている。 第一に、人は、他人を助けるためには、愚か者でなければならない。第二に、愚か者の助けのみが真に助けである。 ちーちゃんの人間関係の中で、ちーちゃんのことを「ちーちゃん」と呼ぶのはナツだけであるという事実が、『ちーちゃんはちょっと足りない』と思っているのがナツだということを物語っている。 ナツはちーちゃんと自分のことをさして「私たちは恵まれていない」とたびたび考え、二人は足りない仲間として運命共同体であるのだが、そのナツからしても「ちーちゃんはちょっと足りない」のだ。 ナツはちーちゃんとともに「恵まれなさ」を自前の免罪符にして3000円事件
2014-04-29 『なし水』で文学フリマに出ます 文学フリマに参加します。詳細は以下をご覧下さい。 ほかのいろんな記事も見た方がいいよ。爪さんのもだよ。 http://ketuge300.blog.fc2.com/blog-entry-21.html http://maruta.be/kodama/324 http://tsumekirio.exblog.jp/ 去年のクリスマスの日、たかさんから文学フリマに参加しないかと訊ねられた。 僕が前に文学フリマに参加していた時に途中で帰ってたので頼みにくかったと言っていて、本当にいつもいつも気を遣わせて申し訳ない。 たかさんは僕が人間関係を休んでいる中でも3ヶ月にいっぺんぐらい話しかけてくれる、ローソンのバイトをやめてローソンのバイトをして住民税を見たことないぐらい分割払いしている人(役所ってけっこう融通きくんだなと思った)なのだが、僕がけ
2014-01-16 出席番号4番 木下裕貴 出席番号3番 木嶋陽介 - ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ 名前を呼ばれて期待と不安に満ちたクラスメイトたちの間をぬって十二町先生の前へ着くと、トンネルを抜けたような感じがした。 老眼の入った先生が目から遠ざけて見ていたテストをのぞきこむと、50点満点中の46点、自己採点と同じだ。 「よく勉強しています」 少しでも長くその場にいたくて先生の目の前で自分の間違いをチェックしていると、先生は、助動詞の文法で単純なミスがありましたと笑い、照れた僕の心を見透かすように、今日やりますか、と言った。 「神代さんにも言っておきましたから」 「はい、大丈夫です。お願いします」 「彼女は、47点でしたよ」そこで先生は大きく息を吸い、前を向いて、「近藤さん」と次の名前を呼んだ。 1点負けた。負けたことはくやしくもない。むしろ、何とも言えない喜びがこみ上
出席番号2番 宇野道夫 宇野がいなくなって何日か経った。あれこれ噂が立っているらしいが、特に何が変わるということもなく期末テストが始まった。 俺はテストが好きだ。その時だけ出席番号順に変わる席が好きだ。教室に入ってすぐ、机の間を縫うことなく自分の席に座れるし、横は壁で、ついついそちらに寄りかかりがちになる。 「おかしいだろ杜山ぁ」 どこに座っても、教室のほとんど反対側にかたまった端田や丸のでかい声がよく聞こえる。電波のつながりやすい携帯電話会社みたいな通りのいい声。 「期末、中止するよう親父に言ってくれよー」 「うるせーな、勉強しろよ勉強。頼むからさ、ちょっとはうちの学園の合格実績を上げてくんない? 栄えある一期生だろ?」 会話に加わっているかいないかわからない周りの奴らがにやにやする音が聞こえるような気がする。そのせいで、端田と丸のボリュームが半分上がるのがわかった。 「どうにもなんねえ
オッス、俺の名前は、芝キサブロウ! 大学2年の遊び盛り! 今日も今日とて悪ノリ写真の毎日毎日サークルかけ持ちクリパに宅飲み連日連夜の合コン街コン、友達100人できちゃってワロタヤバすぎ、どーすりゃいいのよキャンパスライフ! そんなわけで、人間関係、新規開拓、奇妙奇天烈、摩訶不思議の毎日に新しい風を吹き込むぜ! 奇妙奇天烈。摩訶不思議。これらが四字熟語でないという衝撃の事実のヤバさに驚きながら(3日かけて友達全員に自慢しよう)、俺は俺とて今、2,3個同じ授業を取ってる、トオルの家にトオルと向かってる。俺はいつもどこかに向かってるな、ヤバいな、そう思ってる。 「しかし、ちゃんと知り合って3ヶ月ぐらい経つけど、トオルの家に行くの初めてだな!」 「そうだね」 トオルは、名字が「本気名倉(まじなぐら)」というヤバいこともあり、ミステリアスな雰囲気を備えている。授業はいつも一番前の端っこで受けていてヤ
「いいか吾郎、今日は早く寝るんだぞ」 歯みがきの時間、お兄ちゃんが口を泡だらけにして言った。かなり念入りに歯みがきをしている。 「うん、何時に起きる?」 「4時。そんで4時半出発。」 まだ9時にもなっていないから、7時間はねむれる。 「うん、わかった。目覚まし時計をセットしなくちゃね」 「父さんのでっかいのを借りてあるよ。簡単にとめられないように、床に置いておくんだ」 「わ、いいね」 「吾郎がとめろよ?」 「え?」 「オレがとめたら、吾郎が起きないかもしれないからな」 「そっか、まかせて。明日さ、海まで行けるかな」 「オレの計算だと、ぎりぎりいけるな」 ぼくは知っている。 「海、見たいなぁ」 「見れるって」 ぼくは兄ちゃんが、バレーボール選手をベッドに連れ込んでいるのを知っている。 「ほら、先に口ゆすいじゃえ」 そう言ってリステリンをスタンバイする兄ちゃんは、夜な夜な、ぼくが上に寝てる二段
http://picup.omocoro.jp/?eid=1714#sequel このあいだ、どろりさんの「海」を読んでいた。この作品は、主人公に気持ちが寄り添うようにできている。それで最後に、その甲斐なくという言い方になってしまうが、此の世の無情みたいなものに触れることになるのである。 欲というのは絶対に他人のためにならないのだが、それは欲というのが動物的なものだからであって、動物は、欲深くない限り生きていられないから欲深くあるだけである。 ところが、動物的なところから精神世界を得た人間的な世界では、恥とセットになって欲を抑えることが美徳に成り得るので、恥ずかしさや向上心から律儀に欲をセーブしようとがんばれる気持ちになる。 しかし、欲をセーブする美徳を得なかった人たちから、動物的にバカにされる。バカにされないまでも、動物的に引け目を感じる。そんな時ばかりは、精神世界が雲散霧消して動物に過
まず、僕は何かの感想として、極、極、個人的な感想というものが書きたいと思いました。 誰にとっても同じ意味にならないよう、それ以上ゆるぎない言葉でもって固定しないように気をつけたいと思いました。 批評でもあるまいし、作品の感想というのは、酷です。赤面します。 そうでなければ、張り子の虎でしょう。 そんな人は、ババぬきをしなければいけないのに、七並べをしているのです。 決して書きたくない「何か」から逃げながら書くとしても、何はともあれ逃げおおすために、途中でそれが覗いてしまうこともあるかと思います。 無論そんなのいやですけれど、七並べを見せるよりはましでしょう。 まず、僕が「風立ちぬ」上映10分前にシアター7のK-12に腰を落ち着けた後、必死こいて無印ノートに一部書き始めた歌詞の、その後こぎつけた完成形を見ていただきます。 東京都北区悩ましく胸の騒ぎはドッキリか!? 恋の要はRelax されど
赤ら顔のお父さんがニコニコしながらスト2のバイソンを買ってきた金曜日の夜。その半年前にパナポは死んでしまいました。私のことが大好きだと言って死んでしまいました。ハムスターはしゃべれないけれど、きっとそうだと思います。 酔っ払ったときのお父さんは、誰のこともきめ細やかに考えられなくなるから、ぶしつけな愛情だけを家族に与えます。もう寝ていた私は、下の階から響くお父さんの声に無理やり起こされて、パナポがきたときと同じ、ケーキの容れ物に似た小さな箱を渡されました。 中でパンチを撃つ音が聞こえます。私は一応、横に何個か空いている穴をのぞきこもうとしました。パナポが小さな鼻をひくひく動かして、すばらしく小さな前歯をのぞかせていたのと同じ小さな丸い穴です。 そこに押しつけられて盛り上がった赤いボクシンググローブの照りついた面を見て、私はたまらず、その箱をお父さんに投げつけました。お父さんに当たっても、箱
森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの亡骸を発見したのは、つらいことに当の母ダヌキでした。帽子はかぶっておりません。 森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキは、まるまる太った土手っ腹に一発撃たれたあと、這って這って、巣穴の近くまでやってきて、そこでベロを出して力尽きていました。母ダヌキと奥多摩に行った時にひろったという近鉄バファローズの帽子は、倒れた拍子につばを押されたのでしょう、やっとこ頭に乗っかっているばかりでした。母ダヌキが帽子をしっかりかぶせてやるところを、頭に障害のあるイボイノシシが見ていたそうです。 森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの巣穴へ行くと、一面にばらして並べられた1995年のスポーツ報知の中央に、当の死ダヌキが腹ばいで寝そべっていました。使い古して放っておかれた粘土のように周囲の空気をまとってひっそり硬直しています。 片
夏のある日のマクドナルド、隣の中学生の女の人たちは二人とも話すことがなくなってしまって、テーブルに突っ伏して捧げるように両手で持った携帯をいじってはハイヒールで歩くみたいな音を立て始めている。そんな姿を見ていたら、この先に横たわる毎日を退屈に思うのは当たり前だ。 その奥で、OBドラゴンがいらなくなったトレイを片付け終えてこちらを振り向いた。両方の壁際にまばらに並んだ、誰もが自分のために丸めている色とりどりの背中。その間を抜けて、やってくる。OBドラゴンがやってくる。 「保くん、これで拭くんだ」 気づけば、だいぶ軽くなった僕のコーラは汗をかいてはしたなくテーブルを濡らしていた。まして僕の肘はそれを吸ってだらしなく湿って冷たい。 「うん、ありがとう……」 渡された紙ナプキンで散らばった水滴を拭くと、すぐに指先がしめって不愉快だ。OBドラゴンのホットコーヒーは買った時と変わらず、おかわり自由なの
ただ、恋人と腕を組んで歩いている、というそれだけの理由で、おちつきはらってあたりを見回していた少女。 フランツ・カフカ 自信を持つのは良いことだ。いつかパパがお風呂で言った。湯船の中、私はパパと同じ方を向いて足の間に収まり、その言葉を聞いていた。どうしてそんな話になったのか、何を思ったかは覚えていない。ただ、双子の島のように浮いたパパの両膝の上に腕をのせて、私はひどく落ち着いた気分でちょっとのけぞり、今と同じく肩ほどまでの髪をお湯の中に浸してのさばらせていた。優しくぬくい温度が硬い骨に守られた考え事を包み込み、毛穴を開いて忍び込む。きっとそこで頭の中がとろけてしまい、悪いことから順番に、耳の穴から抜けていく。そんなふうに感じていた。 だから私はいやなことがあると、同じように重たく鈍い頭を浸した。誰かに意地悪された日も、先生に怒られた時も、ミリが白血病で死んだ日も。そんなことしてすぐにけろり
もう一つは、独創と模倣の関係についてのものである。人間が一切がっさい自分で創作したものよりも、他人から借りたものを用いて創作したものの方に遙かに優れた独創性がみられるということである。もしこれが正しいとすれば、模倣の容易さから、一流よりも二流の作家や芸術家の方が独創性を刺激する可能性が明らかに大きい。 エリック・ホッファー『波止場日記』 ぼく脳さんが褒められる時、「狂ってる」「カオス」「キチガイ」果ては「シュール」などという言葉がよく使われるのは、ホッファーのこの荒削りな思索と無関係ではないでしょう。 物珍しいものが芸術だとは言いませんが、稀少性が一つの魅力となりうることは間違いがありません。そうしたものたちがなぜ稀少なままでいるかと言えば、模倣が難しいからです。そして「模倣の難しさ」こそが一流の条件だという考えがホッファーの前提にはある。これが独創性です。 一流の創作者の技術は、精神に根
僕の笑いを目指した創作物に関する観念を言葉にするなら「物語の中で脈絡のないものにリアリティを感じられるか」というものです。笑いに限らずなんでもそうかも知れませんけど。 みんな知らない世界を見たがっているけど、知らない世界でもメチャクチャすぎると世界としてのリアリティが感じられないから面白くない。リアリティを保ちながらどれだけ脈絡のない世界を作れるか、ということになります。 そのリアリティは、皆さんそれぞれが今まで得てきた知識そのものです。 一時期、「トレンディドラマあるある」みたいなものが流行りましたが、あのそれぞれの「あるある」がリアリティなのです。ドラマだったらこうするよね、という感覚が、自ずと次に起こることを予想させる。その、人によって予期されるそれぞれが、リアリティです。だから人によって違う。 僕が本来のリアリティの意味である「現実感」と区別するのは、もう既に日常生活がフィクション
「冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードのマーカーが出なくなったの。ペンに磁石がくっついてるやつ。あんた買ってきてちょうだい。どうせヒマでしょう。頼んだわよ。磁石がくっついてなかったらいらないから」 ちょっとちょっとお母さん! せっかくの日曜日に、まったく人を奴隷みたいにコキ使って、と鼻の穴をふくらませる僕は、そんなこと言いながらも玄関でクロックスをはいて振り返り、 「ほかに買ってくるモノは!?」 と、なぜかノリノリ立ちこぎ30分、自転車をかっ飛ばして、NHKニュースで紹介されたことのある超巨大ホームセンターへ向かった。 さっさとマグネットのついたマグネット付きマーカーの会計をすませて、お気に入りの渋い緑色のズボンの膝の横についたポケットにそいつをつめこんで、ホームセンターを見てまわる。そんな日曜日って、まだ午前中だし、 「最高だな!!」 実に色々な物がそろっているメガロポリスぶり、文明社会のお
ドトールでジョン・ウォーターズ『悪趣味映画作法』を読了。面白かった。各章の冒頭の文章が気合い入っててカッコイイ。やはり、つめこんだ知識やらは己の人間性に参照した上で、己にも理解できないものとして出さないといけないのではないか。それがただの排泄行為にしか見えないとしても…。人は得たものを消化することで何かをわきまえ、それを作品にするのではないのかもしれない。きっと得られなかったものだけが作品になるのだ。得たものとは食べたものと同じく、その活動を止めないための栄養でしかない。今は栄養だけを並び替えたサプリメントのようなコラージュ、わかるものを雑多にないまぜにした「なるべくわかりにくいパロディ作品」ばかりではないか……。もちろん、全ての作品がそういうものであるという誹りは免れないにしても、ますます傾向は強くなっていく。 つまり作り手の見た目には、二つのタイプがあると思う。得たもので作ろうとする者
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