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今年の「#文学」
battle-of-okinawa.hatenablog.com
その時 歴史が動いた さとうきび畑の村の戦争~新史料が明かす沖縄戦の悲劇~ NHKティーチャーズ・ライブラリー 沖縄戦では県民の四人に一人、十数万人もが犠牲となった。2003年にアメリカで発見された日本軍の作戦文書から、男性住民が根こそぎ防衛隊員に動員されたこと、日本軍が住民に偽装して米軍を攻撃する計画を立てていたことなどが、多くの犠牲者が出た一因であることが分かった。番組は、犠牲率が47%と県内最大の西原村(現・西原町)を舞台に、村人が戦争に巻き込まれていった過程を検証する。 2004年3月31日放送 西原村(現在は西原町)は沖縄戦当時、日本軍の飛行場があったうえ、司令部が置かれた首里攻防をかけた激戦の地であったため、住民の47%が死亡するなど多くの被害を出した。 沖縄県西原町|西原の塔 これは町がまとめた世帯別被災者記録。翁長地区の欄には「一家全滅」と記された場所が目立ちます。翁長地区
久米島の日本軍 6月15日 - 鹿山文書 久米島海軍通信隊 (鹿山隊) の虐殺事件 6月27日、久米島郵便局員 安里正次郎の殺害 6月29日、区長や警防班長および宮城一家、九人の虐殺 8月18日、久米島の恩人、仲村渠明勇一家三人の斬殺 8月20日、谷川昇一家、無実の朝鮮人系家族5人の虐殺 9月7日 - 鹿山隊の降伏 27年後のスクープ 1972年4月2日『サンデー毎日』スクープ「沖縄のソンミ事件」より 1972年5月28日『琉球新報』より その後の報道 中野学校「上原敏夫」と久米島のスパイリスト 久米島の日本軍 Hyperwar/USMC 久米島は那覇市の西方100 km の東シナ海に浮かぶ周囲48 km、人口約一万数千人の島で、 沖縄戦では米軍の作戦計画 (アイスバーグ作戦) の攻撃目標からもはずされ、日本軍の守備部隊も配置されない孤立した島であったから、本来は戦争の惨劇とは程遠い平和の
政府が批判されれば、とたんに紙吹雪のようにデマが飛散し、それに乗じて政府が優位な立場で相手を潰す。今、菅政権が日本学術会議に対してやっていることは、さんざん沖縄に対してやってきたことである。 さて今日は、辺野古の代表的デマの一つ。キャンプ・シュワブは地元が誘致したというデマと、そのデマ元とを検証し、どのようにシュワブが作られたのかを確認していきたい。 辺野古区編纂委員会編集「ひぬく誌」を読む 辺野古キャンプ・シュワブ基地は「地元が誘致」のデマ ニュースサイト「ビューポイント」とは? ウィキペディアが劣悪 「新しい憲法をつくる国民会議」のウソ拡散 歴史をちゃんと知ることの大切さ 辺野古区編纂委員会編集「ひぬく誌」を読む 辺野古区編纂委員会編集『辺野古誌』辺野古区事務所 (1998年4月) < p. 631 > 第一節 軍用地 一、収容予告 一九四五年、米軍進攻後に長崎原と思原一帯に処置された
① 沖縄の戦争 「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 南部摩文仁 沖縄最後の激戦地 師範学校の鉄血勤皇隊は386人。 そのうち226人が戦死した。 慰霊碑に刻む 学友らの記憶 琉球処分 沖縄に基地を作れば沖縄が戦場になる 以下2014年7月号掲載「Days Japan」記事から ① 沖縄の戦争 「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 南部摩文仁 沖縄最後の激戦地 沖縄本島最南端に位置する糸満市・摩文仁(まぶに)。海岸沿いに広がる沖縄戦跡国定公園から望む海は、かつてここが沖縄最後の激戦地となったとは思えないほど、穏やかな波を立てていた。「ここから海を見ると、海上に敵の軍艦が真っ黒になるくらいに見えたんです」 大田昌秀元沖縄県知事は、14〜17歳の中等学校生徒らによって結成された 「鉄血勤皇隊」の隊員としてこの戦場に送り込まれた。 今はうっそうと生える木々も当時は1本もなく、敗残兵や住民らか
「ギズモ」とよばれた仕掛け 4月1日、読谷・嘉手納で米軍が「桜花」を接収 バカ爆弾の仕組み 1945年3月21日、第1回神雷桜花特攻隊、戦果なし。 1945年4月1日、第2回神雷桜花特攻隊。戦果なし アメリカ公文書館の写真から 兵器研究のために本国に送られた。 日本の降伏後にも大量の大型バカを発見 桜花作戦の「戦果」 宗教者も一体となって若者を送りだした 「ギズモ」とよばれた仕掛け かつて、若者に死を強制し、大人がそれを賞賛し強制する国があった。 そしてその国ではいまだに、特攻や玉砕が美しいという大人たちがいる。美しい死、という神話と、それを政治装置として利用する政治家と、その神殿としての靖国神社や護国神社。ー 特攻の構造とは何だったのか。 その国の国民が、万が一にでも、いまだに特攻の構造から目をそらし、特攻や玉砕を美しいとする言説に惑わされているとしたら、その狂気の深淵を、歴史学から宗教
Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊) (from wikipedia commons) なぜ日本の大学の研究者たちは「悪魔の研究」に手を出してしまったのか。研究者たちは「一線を越えた」どころか、むしろ気がついたら、取り返しのつかないところまで暴走していた。そしてそれを後押ししたのは世論としての、蔓延する日本特有の外国人憎悪 (ゼノフォビア)。研究者たちは、「匪賊」を「材料」と呼び「丸太」と呼んだ。日本民族は優秀な民族なんだと。背後にそうした教育が徹底していた。 1936年、細菌兵器は国際条約で使用が禁止されていたが、軍医 石井四郎は、防衛目的の研究はできるとして開発を進めた。戦争と軍事中心主義の時代にあって、731部隊には、今の金額で昭和15年度だけでも
学徒動員者数および戦死者数が「不明」のままの私立開南中学 2018年の記事、「不明」のままの数字、同窓生の悲願の願い 資料は 2017年まで厚生省が保有、その後、国立公文書館に移管 学徒動員者数および戦死者数が「不明」のままの私立開南中学 これは、素晴らしい歴史上の発見の知らせであるとと同時に、暗く理不尽な沖縄戦資料の「発見」の物語である。 学徒兵として戦場に送られた旧制中学の子どもたち。 地獄の戦場のど真ん中に戦力として送り込まれ、 無残に命を奪われたものたちの中には、わずか13歳の子もいた。 公式には「不明」のままにされた開南中学学徒兵の墓前に、この資料の存在をもっと早く届けてあげれたら、どんなによかったことだろう。 あの沖縄戦で失われた中学の一つに、私立開南中学校がある。開校したのは、志喜屋孝信。彼は、戦後アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事、そして琉球大学の
《AIによるカラー処理》A young Okinawan girl waits to receive medical treatment. The military government's doctors are treating a number of such cases at Gushikhan.【訳】傷の手当を待つ少女。具志頭では軍医によるこのような治療が多く行われた。(1945年 6月21日撮影) 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 1945年6月21日、具志頭での一枚の写真 1945年6月21日。 米軍は一枚の写真を記録している。 青ざめ、呆然として診療所で傷の手当てを待つ1人の少女、後に「うつろな目の少女」として知られるようになった写真である。 大城盛俊さんの証言 - 黒砂糖をよこせと暴行を受けた そしてこれも後に証言されたことによると、この少女は、実は少年であり、ま
[ AI によってカラー化しています。] 【原文】 Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls. 【和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。 撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 沖縄県公文書館 ここに一枚の写真がある。 米軍が "e
オリジナルでは不明瞭な写真を AI でカラー化、色調補正で、さらにより細やかな表情に。歴史の影に埋もれた一人の女性の表情をこうして可視化することができる。 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 伊江島にあった慰安所が問うもの – QAB NEWS Headline 日本軍は、その島に、東洋一と飛行場の建設を建設した *1。その要塞化された島で、いったん戦争が起こると、この島の住民の半数の住民が命を落とした。 伊江島の戦い、である。 それに先立ち、日本軍はこの島に二軒の慰安所をつくった。 (出典は『軍隊は女性を守らない-沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』2012年12月 WAM アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館) 1944年5月24日、「陣中日誌」には、日本軍が伊江島に慰安所を新設したと記録されている。日本軍の「東洋一の飛行場」の基地建設は、同時に「慰安所」の開設も含んでい
( 1 ) 多元的デジタルアーカイブスとは? ( 2 ) 「記憶の解凍」ニューラルネットワークとは ? ( 3 ) 進化し続けるデジタルアーカイブスの可能性 ( 4 ) 一方、沖縄のアーカイブは・・・ ( 5 ) 沖縄戦の歴史は、県民の命の歴史である 沖縄平和研究アーカイブを県や企業がクローズで運営するのではなく、オープンな運営で さて、 いつのまにか沖縄県が運用を停止していたという、沖縄県の、あの「沖縄平和学習アーカイブ」の件だが。 battle-of-okinawa.hatenablog.com 幸いにも、多くの反響が寄せられ、二紙や沖縄テレビもとりあげるなかで、データをサルベージしてくださっている東京大学大学院教授・渡邊英徳氏に、県側からやっとの返答があったという。 先程,沖縄県庁の担当者から電話にて「可能な限り早期に,再運用できるように進めていく」とのご報告が。「新しいバージョンを
驚いています。 沖縄県が運営するサイト、沖縄平和学習デジタルアーカイブがアクセスできなくなっています。 沖縄戦から73年の年月を経て、沖縄戦の証言を生で聞くことも年々困難になり、昨年のチビチリガマ破壊事件にもみられるように、沖縄戦の歴史継承の難しさが課題となっている。 誰もが今、老いも若きも懸命に沖縄の歴史を伝える方法を模索しているなか、 沖縄県が公式事業として予算 (五千万) をくみ、東京大学大学院・先端表現情報学の渡邉英徳教授 (現在) の総合監修のもと、一つのプロジェクトが進められた。 ビッグデータをつかって沖縄戦を生きた人々のフロー (流動的動き) をマッピングし、証言と写真をくみあわせ、多元的デジタルアーカイブズを作るというものだ。 沖縄平和学習デジタルアーカイブ。それは、これから沖縄戦を学ぶたくさんの若者たちのためのプロジェクトだった。まさに百年先をみすえた戦史学習の未来だ。
公文書管理法が施行されて六年。 しかし南スーダン自衛隊の「日報」が「破棄」されたとか、働き方改革のデータが改ざんされていたとか、森友学園スキャンダルの文書が改ざんされたとか、最近殊にそうした公文書隠蔽事象が連続してまかりとおっている。 www.huffingtonpost.jp 実は なにもそれは今始まったことではない。 敗戦後、日本軍と政府は膨大な記録を焼却した。 そして、従軍慰安婦にしろ朝鮮人軍夫にしろ、 あるいは特攻隊などの学徒動員の現場記録すら、 膨大な数の資料が歴史から消しさられていった。 証拠隠滅したうえで、 しらっと、なかったとか言いはじめる。 実際にはそんなひどいことはしてないない、 などと言いだすわけだ。 記録は大切である。 戦争したがる奴らは、常に記録を消したがる。 だから記録にはバックアップが必要だ。 今回ご紹介するのは 朝鮮人軍夫としてキム・ギョンデさん。 家畜のよ
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