エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
12月7日のこのブログの続き 文久3年(1863)5月朔日(5月1日) ・立神彦兵衛を召し捕る為、... 12月7日のこのブログの続き 文久3年(1863)5月朔日(5月1日) ・立神彦兵衛を召し捕る為、厚狭毛利家士分2名足軽3名を今夜四つ時(夜10時頃)長府まで行かせた。(出張者の人名が付記される) 5月2日 ・立神彦兵衛を召し捕る為昨日人数を送り込んだが彼の地(長府)の興善庄蔵(長府藩士)方へ隠れているとの知らせがあったので早速別の4名を派遣した。(人名が付記) また同件について町会所(まちかいしょ・町役人の詰所)へ掛け合いを行った。 5月3日 ・長府藩・三吉内蔵介方へご挨拶として伊藤惣右衛門(厚狭毛利家家臣)を派遣した。またこの際、立神彦兵衛の件について併せて申し入れ挨拶した。 <注記> ・三吉内蔵介(みよしくらのすけ)は長州藩の支藩・長府藩の家老職で維新史の表舞台で活躍、維新後は各県の県令等を歴任した。 ・立神彦兵衛という名が戦時体制のなか罪人として突然日記に記録されているが、その後バ