はてなキーワード: Readerとは
僕が自分の頭で考えてダイレクトに「あなたの課題に対して色んな考えの切り口を提示」をすると、僕の自分の意見になっちゃうんだよね。それが意見が偏ってしまって嫌だから僕はカードを引いてもらってる。
タロットカードは世の中の色んなキーワードを実用的なものも非実用的なものもいい感じに散りばめてくれてるもの。歴史に淘汰されて生き残ってるものだから、色んな人が使いやすくなってる。ぶっちゃけいい単語帳とか辞書があれば、それをランダムに引くのでもいいと思うよ。
アドバイスされるのが苦手な人が結構いるけど、自分で引いたカードの意味をただ読み解いてるだけだから、アドバイスされてるより自分で考えてる感覚が強いみたい。僕は読む手伝いをしてるだけ。タロットカードの意味はある程度ちゃんと勉強しないとわからないので、素人だと自分で読めない。だから、僕は自分のことをreader(読み手)だよって言ってる。
・「指輪物語」(1950年代)以前にコナン(1930年代)などのヒロイック・ファンタジーがあった。
→「ソード&ソーサリー」という言葉は60年代に生まれた。
・「指輪物語」の米国での出版(1965)以後、“トールキン的なファンタジー”が広まった。
→当時「トールキンはソード&ソーサリーと呼べるか」論争があった。
→D&D(1974)など冒険者がパーティを組むゲームを通じて、人間型種族やモンスター側種族、ゴブリン、オーク、トロルやハーフリング(ホ○ット)がメジャーになった。
【Amazonプライムのドラマ版】※予想含む
・冥王サウロン(潜伏中)が関わってくる?
・映画版「LotR」冒頭の、サウロンの指が切り取られ、一つの指輪が失われるのが第二紀の終わり
・Amazonプライム版のキャラクター名がエルフっぽいので、第二紀前半のエルフの指輪鍛造のころか?
・若きガラドリエル(別キャスト)やエルロンドの青春時代、闇の森のスランドゥイル(レゴラスの父)も登場か?
森瀬「トールキンがそもそも描こうとしたのが現実の北方人種(北欧系)の世界だから……映画「ホビット」三部作になると人間側の人種バリエーションも広がっている」
【初級課題】
・「シルマリルの物語」「終わらざりし物語」も読んでおくとなお良し。
・これから「指輪物語」「ホビット」を読むならどの翻訳で読むか?
→Apple books(電子版)「指輪物語」固有名詞も良い。
【中級課題】
・The Lord of the Rings: A Reader's Companion という英語の注釈書もある。
・土地勘を養うなら「シャドウ・オブ・モルドール」や「Lord of the Rings Online」。
・The History of Middle-earth(12巻、Kindle版あり)通読ではなく索引的に使う。
・エルフ語学習 映画を見たときにエルフ語パートがわかる喜び。
→「A Gateway to Sindarin」映画の監修者によるエルフ語(シンダール語)解説書。
【おまけ(番組外)】
・“エルフ語”対応のAI翻訳サービス 「指輪物語」パロディーだけではなかった本当の目的 - ITmedia NEWS
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/14/news112.html
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
自分も同じような感じで英語がわかるようになったので、BLに限らず英語で二次創作(fanfiction)を読みたいと思っている人向けに書く。
ちなみにShipperは性別関係なく単純に特定のキャラクター同士をくっつけて楽しむ人のことを指すよ。特に男性×男性のカップリングを楽しむ人はSlasherっていうよ。
英語圏で最もメジャーな二次創作投稿サイト。二次創作メインだけど一次創作(original work)を投稿する人もいて、形式も小説に限らずイラスト・ビデオ・オーディオなんでもある。英語以外の言語で投稿している人もいる(ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロシア語・アラビア語・中国語・韓国語・タイ語など)。
ほとんどの作品はユーザー登録なしでも閲覧できるけど、ナマモノ(RPF: Real Person Fiction)とかは作者が登録ユーザー限定公開で書いている場合が多いので登録がおすすめ。あと登録するとブックマークとかサブスク機能が利用できるので便利。形式選択して電子書籍としてダウンロードもできる。
AO3が出てくる前にメジャーだった二次創作投稿サイト。AO3の開設が2009年なので、それ以前に流行った作品の二次創作がAO3にないときにここで探すとあったりする。転載防止のために範囲選択ができないので単語を調べるとき少し面倒。
あきらめるのはまだ早い。Quotev, WattPad, Tumbler, DeviantArt(メインはイラストだけど小説を投稿する人もいる), LiveJournalのサイト内の検索バーでキャラクター名やカップリング名で検索すると見つかることがある。
基本は A x B (xはアルファベットXの小文字)またはA / Bで表記で、上のPrivatterのリンク先にも書かれてるけど表記の順番に受け攻めは関係ない。すでに特定のカップリング名がついているものもある(Johnlockとか)。
作者がアカウントを消去したとかで見れない場合はInternet ArchiveのWayback Machine(魚拓サービス)で作品のリンクアドレスを検索すると過去に保存されたページを見れたりする。
夢主はReaderまたはOFC(Original Female Character)/OMC(Original Male Character)で表記されることが多いので、上にあげたサイトの検索窓で「キャラクター名 Reader」「キャラクター名 OFC(男性主人公の場合はOMC)」とかで検索するとヒットする。
名前変換はGoogleの拡張機能できるらしい(使ったことない)。Chrome ウェブストアで"InteractiveFics"と検索したら出てくる。
海外の二次創作ファンの間では自分が良いと思った作品のリストを作ってシェアする文化(?)があるので、手っ取り早く楽しみたい人はGoogleで「カップリング名 fic rec list」で検索すると作品を探す手間が省ける。
iOSの場合は内蔵辞書。Androidは良い辞書アプリがなかったからあきらめてブラウザで毎回英単語を検索してた。Chromeの拡張機能のWeblioポップアップ英和辞典は便利。スラングはUrban Dictionary。最初はいちいち単語引くの面倒だけど読めば読むほど単語引く回数も少なくなっていくよ。
辞書を使わないで読めるようになったら洋書に挑戦するのもいい。Project Gutenberg(著作権の切れた作品を無料公開しているサイト)やAmazon Classicsなら英語の古典が無料で読める。
動画もいい。カップリング名をYouTubeで検索するとどこかの誰かがそのカップリングのキャラだけが出ているシーンを再編集した動画を投稿していたりする。
本当はリンク全部貼りたかったけどスパム認定されて投稿できなかったから自分でググってください。
最初から気合い入れると疲れるので飽きたら途中でやめてまた気が向いたらやるみたいな感じで大丈夫。ネイティブも単語のスペルや文法を間違えることがあるので、調べてもわからない箇所は読み飛ばしてOK。自分のペースでコツコツやってたらわかるようになるのでがんばってください。
抽象に依存するってことなんだよね。発想が抽象的でむずかしい。
以下に示すbeforeコードの欠点は、IOに関係する部分とビジネスロジック(誇張)が密結合していることで、このメソッドを変更する理由が複数存在している点である。(単一責任の原則に違反)
変更理由は、IOにnullが入ってくることを考慮するとか、暗号化アルゴリズムを変更するあたりがぱっと浮かんだ。
afterのコードは、readerとwriterを引数から受け取れるようになっていて、インターフェースに依存するようになって、単一責任の原則を守るようになった。
```
# before
def encrypt
end
end
# after
end
end
```
まとめ
https://georgebest1969.typepad.jp/blog/2020/03/事実に誠意を.html
これが原文です。
外国から問い合わせが来ているけれども時間がなくて訳せないということで、DeepLの性能確認ついでにやってみました。
この私訳と岩田健太郎先生は無関係なのでよろしくお願いします。
訳された文章を原文と見比べ、翻訳で文章がおかしくなったところや慣用句は「必ず日本語側の文章をいじることで」できるだけ解消しました。
よって改変した文章だけをこちらに載せ、改変する必要がなかったところは段落番号しか載せていません。元文章は元ブログを当たってください。
英語に詳しいパーソンが精査していただけると幸いです。
1 Most of what I'm about to write is no different from what I've said and done in the past. However, I have been asked the same question repeatedly, so I would like to reiterate it. We have received many inquiries from overseas as well, so we should have prepared the same content in English, but due to time constraints, I'm afraid I'll have to skip it. This article is designed to be read without basic knowledge of infectious diseases and jargon, but it is rather difficult to understand. Please forgive me for that.
感想:「Chromeかなにかでそれぞれ母国語に訳してお読みいただけると幸いです。」がきれいさっぱり消えている。DeepLの自負心だろう。
2 The fact that the number of COVID-19 reports in Japan is very low compared to other countries is attracting attention from home and abroad. Is it true? It has been pointed out that the number of tests is so small that we may be misreading the actual number of infected people.
3 However, this point is wrong at various layers. In the first place, Japan does not aim to capture all the numbers of COVID-19. Whether it's administrative testing or insured care, the state basically has a testing strategy in mind to diagnose, hospitalize, and isolate critically ill patients who need to be hospitalized. It is natural that they "haven't figured it out" and they don't intend to. That's not a bad thing.In fact, the situation is the same in every country, large or small, and no country, whether in the United States, Europe, or Asia, is aiming to "capture the whole number.
感想:最後の文はなぜか他の文と一緒に入力すると訳してくれなかった。この文一つだけ入力すると訳してくれた。
よく考えると「多かれ少なかれ」は通じないだろうから直した方がよかった。なぜかDeepLに繋がらなくなったのでもう直せない。
WHOもそんなことは求めていない。もっとも、そのわりに日本は帰国者無症状者にPCRをやってみたり、無症状な検査陽性者を入院隔離させてみたり(軽症者は自宅じゃなかったの?)、プリンシプルにおいて首尾一貫していない。だから、「彼らがなにがやりたいか私たちはよくわからない」ので、人々は不安になる。リスコミにおける失敗と言えよう。
The WHO is not asking for such a thing. But instead, Japan gives PCR to asymptomatic returnees and isolates asymptomatic test-positive people in hospital (wasn't it home for people with minor illnesses?). It has not been coherent in its principles. So, people get anxious because "we're not sure what they want to do". It's a failure in the press.
感想:「なにがやりたいかよくわからない」に主語を付与する必要があった。リスコミがpressになった。よくわかったな。
「〜は自宅じゃなかったの?)、」の、が.になっているのがよくわからない。なぜかDeepLに繋がらなくなったのでもう直せない。
4 The difference between Korea and Japan is the "result" and not the "purpose". In South Korea, where the number of infected people had surged in one place, we had to focus on inspections in and around the area. If such a phenomenon (let's call it an overshoot) occurs in Japan, the number of inspections will increase. When the situation is different, arguing only on the basis of the number of tests without observing the situation is like trying to say, "That team made 50 sliding tackles while this team made only one," without watching a football game. In games where you don't have to slide (e.g., when you're in possession the whole time), even 0 times isn't a "mistake," and of course 50 times isn't a mistake.
5 全数把握ができていない疾患など山のようにある。日本ではインフルエンザの「全数」把握はしておらず、定点観測である。疫学上、感染対策上、それで十分な情報が得られているからだ。日本で毎年風邪が何例発生しているか、正確に把握したデータはない。レセプトデータを見ればわかるじゃないか、というのも間違いで、なぜなら多くの風邪患者は(ぼくのように)受診せずに自然に治るまで待っている。医療に限らず、経済学でも政治学でもデータはサンプリングから母数を推定するのがほとんどで、「全数」は非効率的な状態把握法なのだ。
There are many diseases for which the total number of patients is not known. In Japan, we do not have a "total" number of influenza cases, but only a fixed-point observation. Because that's enough information, both epidemiologically and in terms of infection control. There is no accurate data on how many cases of the common cold occur each year in Japan. It's also a mistake to say that you can tell by looking at the receipt data, because many cold patients (like me) don't see a doctor and wait until they are cured naturally. Not only in medicine, but also in economics and political science, data are mostly based on sampling to estimate population numbers, and "whole numbers" is an inefficient way of grasping the situation.
感想:ちょこちょこ変えてある。日本語の文章が多少おかしくなっているのは勘弁してほしい。接続詞を適切に入れると格段に翻訳が正確になる。
6 We have not seen the devastation in Japan as in Italy, Spain or New York City. There is no medical collapse in a critically ill patient, no use of the operating room as an ICU, no piling up of bodies on a skating rink with no place to put them. Even if the "numbers" are not known, it is a fact that the current situation in Japan (including Tokyo) is much better controlled than in other countries.
7 Even so, you may be interested in "Well, what about the actual situation? There are estimates. For example, Dr. Hiroshi Nishiura and his group estimate that the number of mild illnesses in Japan may be twice the reported number. The catch rate is 0.44, with a 95% confidence interval of 0.37-0.50.
8 Although the study was based on data from China, there is no guarantee that the Chinese COVID-19 demographic is the same as the Japanese one. Also, since the original study did not include asymptomatic patients or those with minor illnesses that did not require hospitalization, the number of infected patients estimated on that basis would inevitably be an underestimate. If you are more paranoid, it's not unreasonable to believe that "the Japanese and Chinese viruses are different because of the mutation" (although I don't think so).
9 This does not diminish the value of the paper itself. The model must always use existing parameters, and it is often impossible to prove the external validity of these parameters. If the underlying parameters are not reasonable, the predictions will not be correct. A model assumes a simplified world insofar as it is a model. A model without simplification, which is an adjectival contradiction.
数理モデルのこうした「前提」にイチャモンを付けるのは、例えばAという疾患を対象にランダム化比較試験をしたときに、「Bという疾患については説明できないじゃないか」と文句を言うようなもので、業界の仁義に反する意味のない揚げ足取りである。
To complain about these "assumptions" of the mathematical model is like complaining, for example, "You can't explain disease B," when a randomized controlled trial is conducted for disease A. This is a meaningless tirade against the honor of the industry.
感想;「分からない」を「説明できない」に変えた。多分これでいいと思う。思いたい。
However, it is different for the reader of the paper.
A mathematical model that assumes a certain hypothesis should have internal academic validity, but it is the responsibility of the reader, as a resident of the real world, to appraise it in the real world.
Aという疾患を対象にしたRCTの知見をBという疾患に使ってはならないように、数理モデルの制限を理解し、現実世界にアプライするときに十分注意するのは当然だ。
Just as the RCT findings for disease A should not be used for disease B, it is natural to understand the limitations of the mathematical model and to be careful when applying it to the real world. For example, it would be wrong to read the paper and conclude that the total number of infected people in Tokyo is about 500 as of March 26.
感想;「読み手は別である」を「読み手にとっては別である」に変更し、「制限や限界」は「limitations and limitations」になったので片方削った。
11 People make mistakes. The models are also wrong. Being wrong is not a big deal. The problem is to notice your mistakes and make corrections. Already, a group at Imperial College London has admitted that its original estimate that the peak of the infection should be moderated was "wrong" and has revised its prediction that the ICU will soon fail if it does not fight the virus fairly aggressively.