はてなキーワード: ファーストとは
数日前のこと、Youtubeで音楽を聞いていた。誰か特定の歌手が目当てだったわけではない。
適当に音楽の動画を開いて聞き、曲が終わったら右の動画リンクに表示されている音楽動画をクリックして聞く。そんなことを繰り返していた。
そうして十曲ぐらい聞いた後だったと思うが、気がつくとnobodyknowsの「ココロオドル」の公式MVを開いていた。
ENJOY 音楽は鳴り続ける IT'S JOIN 届けたい 胸の鼓動 ココロオドル アンコール わかす Dance Dance Dance(READY GO!)
いつ聞いてもノリがよくて楽しい曲だ。そしていつ見てもnobodyknows より女達のほうが映っている時間の長いMV映像は意味不明だ。
思えばこの曲との付き合いは長い。もう20年近く聞いている。ただ「ココロオドル」という曲は馴染みが深いがnobodyknowsというグループには特に思入れがない。
自分にとってこの曲はニコニコ動画の思い出と不可分に結びついているため、あまりnobodyknowsの曲であるという感覚がない。
いや、正直に言えば「ココロオドル」は好きだが、nobodyknowsは好きではなかった。
別に何かはっきりと嫌いになるような理由があったわけではない。自分は彼らのライブに行ったこともなく、人間性も知らない。
じゃあなぜ毛嫌いしていたか、理由は単純で彼らがヤンキーだったからだ。といっても、彼らが本当に不良だったのかどうかは知らない。たぶん違うだろう。
彼らはヤンキーといっても、反社会的勢力とかではなくて、今でいうところのマイルドヤンキーの若者版という感じだった。当時はマイルドヤンキーという言葉はなくて、こういう若者のことをB系と呼んでいた気がする。
nobodyknowsだけじゃなくて、当時のHIPHOP界隈はほぼ全員このB系だったと思う。はっきり言うと自分は彼らのことを嫌っていた。見下していた。自分の人生とは関係がない人たちとみなして関わらないようにしていた。
自分がヤンキー嫌いであることを差し引いて考えても、彼らはみんな同じような格好して、同じような歌詞ばかり書いて、同じようなツレと女と車の話ばかりしていて、HIPだHOPだと言ってるくせに、自分たちが一番型にはまっているのがダサいと思っていた。
まあ、それはともかく、「ココロオドル」はいい曲である。Nobodyknowsにあまりいいイメージをもっていない自分がずっと好きなんだから、逆説的にそれだけ曲がすごいとも言える。
それで「ココロオドル」を聞きながら、何の気なしに動画のコメント欄を見ると、やたらと「THE FIRST TAKE」に関するコメントが多いことに気づいた。
どうやらnobodyknows+が「THE FIRST TAKE」に出演したらしい。しかも、非常に評判がよい。THE FIRST TAKEを見て「感動した」だの「泣いた」だのそんなコメントであふれていた。
(知らない人のために説明すると「THE FIRST TAKE」というのはYoutubeにチャンネルを持っている音楽番組のことだ。特徴としては一発撮りであるということ。つまり、歌の途中で間違ったり、発声がいまいちだったりしても、リテイクはなしで、そのまま動画にして公開する。そういう番組である。もっとも、自分も星街すいせいが出演したときにニュースになっていたな、ぐらいの知識しかないので、あまり偉そうなことはいえない)
自分にはそのコメントは理解不能だった。ココロオドルはいい曲だが、彼らのTHE FIRST TAKEを見て何を泣くことがある。
画面右を見るとリコメンド動画の一番上に、その「THE FIRST TAKE ココロオドル」回の動画があった。だから、せっかくだから見ておいてやるかぐらいの気持ちでクリックした。
動画が始まると、画面中にゆるい恰好をしたおっさん達がぞろぞろと出てきた。このおっさん達が20年ほど歳を重ねたnobodyknowsだった。かつてのB系ボーイはおっさんになっていた。おっさん達はマイクテストをやり始めたが、声も20年分歳をとっていた。
これ大丈夫かな、とちょっと心配になったところで、もう何度聞いたかわからないあの歌がアカペラで始まった。
ENJOY 音楽は鳴り続ける IT'S JOIN 届けたい 胸の鼓動
そしてどうなったか。
やばいくらい感動したね。
動画が終わるころには涙が流れてたもん。
なんなんだろうこの涙は。いい年したおっさんが、なにを泣くことがある(よく考えると自分もおっさんになってたわ)。
いやあ、言葉ではうまく言い表せないが、信じられないぐらいかっこよかったね。
聞いてるうちに自分の脳内で、20年分の日々がフラッシュバックを起こしていた。といってもあまりいい思い出はない。悪い思い出もあんまりない。とりたててどうこういうことのない20年だったが、とにかく自分はフラッシュバックの海の中で泣いていた。
考えるとこれは少し不思議なことだ。というのも、自分は先ほど若いころの彼らが歌うココロオドルを聞いていたのだ。その時はこんなふうに歳月を思い泣くことはなかった。なんなら薄ら笑いを浮かべながら、ベビースター食ってたぐらいだ。
仮に若いころの彼らがファーストテイクに出ていたとしたら、自分は特に何も思わなかっただろう。
中年となった彼らの歌うココロオドルだからこそ、より強い喚起力を持っていた。彼らが超えてきた20年の歳月が歌といっしょに押し寄せてきたかのようだ。
ただのおっさんのノスタルジーじゃねえかと言われると、否定はできない。
ただ、この良さはちょっと、そういうノスタルジーみたいなもんだけでは片づけられないと思うのだ。
そういう懐かしさとは別に、誰が見ても感動できるような、普遍的な良さがこの動画にはあると思う。
この動画のnobodyknowsは魅力的である。余裕があるというか色気がるというか、いい感じに丸くなっている。若いころのギラギラした感じがなくなっている。
それはある意味では、恐れ知らずの若者がマイルドヤンキーになってしまったともいえるわけで、人によってはこれを老化・退廃とみるかもしれない。
だが、自分には好ましいものとして映った。昔に比べたら、当然、容姿は衰えているというか、年相応に老けているんだけど、逆に魅力が増していると感じた。
こんなふうに思ったのは自分だけではないようで、ファーストテイクのコメント欄を見ると若いと思われる人から、「大人もいいもんだと思った」とか「大人になっても面白いことはあると思えた」というコメントが多くついている。
それにしても、かっこいい大人を見たのなんていつ以来だ。ちょっと見ないぞ。少なくともここ10年は見ていない気がする。もっとかもしれん。
もちろん、彼らはシンガーとしての実力と経験があるからかっこいいわけで、普通のおっさんが普通に立っているだけでかっこいいわけではない。
よくよく考えてみれば、彼らも急に20年分年をとったわけじゃなくて、この20年歌ったり、仕事したりなんやかや喜怒哀楽を刻んできたわけだ。
客をわかせて、自分たちも楽しんで、そんなことを続けていたのだろうということが動画からも伝わってくる。まさに呼応する心響き続けるだ。
動画を見て、少し悔しいとも思った。
ヤンキーと見下していた彼らのほうが、はるかにかっこいい大人になっているじゃないか。それに比べて、自分はこの20年、何をやっていたんだ。
かっこいい大人になること。本当はそれはテメーが自分でやりたかったことじゃなかったか。
動画を見ていてそういう悔しさも滲んできた。
ただ、勘違いしてほしくないが、動画を見て流した涙は別に悔し涙ではない。
純粋に感動の涙だ。
なんていうか、この動画のnobodyknowsって見ててすごく楽しそうなのよ。
素人が偉そうなこと言うようだが、音楽を楽しんでいる感じとでもいうのだろうか。
特に中盤、歌詞を間違えてから、みんなが笑顔になって、そこから一気にあげていくのが、本当にかっこいい。
元々のココロオドル自体が聞いていると楽しくなる曲ではあるのけど、彼らが心底楽しそうに歌っていると、なんの関係もない自分もなにか嬉しくなってくる。
自分は初めてココロオドルという曲が心で理解できたように思う。きっとそれには20年の月日が必要だったのだ。
20年前この曲を作ってくれた、nobodyknowsに感謝。20年歌い続けてくれた彼らに感謝。そして20年後にかっこいい大人の姿を見せてくれたnobodyknowsにも感謝である。
というわけで、かつて若者だった現おっさんや現おばさんはTHE FIRST TAKE「ココロオドル」を一度、見てほしい。いずれ、おっさんやおばさんになる現若い人にも見てほしい。もちろん、それ以外の年よりやガキも見て損はない。
ガンダム関連の新作・新企画が発表されるたびに、古参系のガンオタから「こんなのガンダムじゃない!」的な鳴き声が上がるのが恒例行事となっているが、増田の感覚では2000年以後の新作に「ガンダムではない」と感じたことは一度もない。
実際、TVシリーズ最新作である水星の魔女は、女性主人公、学園ものなど、新機軸を多数取り入れた野心的な内容ではあったが、それでも「ガンダムじゃない」とまでは言えなかった。最終的にはお約束の宇宙要塞なんかも出てきて、全体としてはふつうにガンダムの範囲内という印象だ。
79年の初代から既に45周年までにもなるガンダムシリーズ。その中では本編シリーズだけでも様々な挑戦がなされてきた。
デザイン面ではターンエー。
と、それぞれ「 アニメ ガンダムじゃない」の極北と言えるガンダムが既に存在しており、この壁を打ち破ることは容易ではないだろう。
過去シリーズの膨大な蓄積がある現在のこの状況から「ガンダム」の外側に出るにはどうしたらよいのか。過去のガンダムの共通点の否定(逆張り)、という観点から考えてみたい。
(この増田での「ガンダム」は、外伝・SD・ビルド系を含まない、アニメ作品本編を指すものとする)
これまでのガンダムは全て、宇宙移民が可能な技術レベルを前提とした世界を舞台にしている。スペースコロニーはガンダムの代名詞と言ってもいいだろう。
これを削除することはできるだろうか。恐らく可能だろう。
ニュータイプの設定(宇宙に出て進化した人類)など、宇宙はガンダムの重要な要素ではあるが、それ無しでは絶対に成立しないというほどでもない。宇宙時代以前の近未来を舞台にして(純地球産の)巨大ロボットが登場するアニメは、パトレイバーやフルメタルパニックなどの実例も複数ある。
これから宇宙抜きのガンダムが出てくる可能性は十分にあるだろう。そのぶん「ガンダムじゃない」度は比較的低いともいえるが。
ガンダムはロボットものアニメの一シリーズであり、多くの作品では主人公機(ガンダム)はモビルスーツと呼ばれる巨大人型兵器の一つという扱いになっている。
このアイデンティティと言っていい部分を変えるのは一見無理があるように思えるが、少し考えてみればそうでもないかもしれない。
もともとガンダムのモビルスーツは宇宙の戦士に着想を得たもので、パワードスーツタイプの兵器になっていたかもしれない、というのはオタクの間ではそれなりに知られた話だ。
(3ページ目)「着込むスーツ」から「18メートルのロボ」へ 企画初期から支えたアニメーターが語る「ガンダムのはじまり」 | 文春オンライン
ただ、当初は完全に人間が着込むやつで、身長も2メートルちょっとだった。あの頃のアニメのロボットは、身長も100メートルとかになっているのもいて、そんなものはレイアウトができない。民家を入れて描けなんて言われても小さすぎちゃう。
そんな中で、2メートルという案が出るんだけど、それもかなり極端だから、最終的には18メートルになった。あれは、5~6メートルに収まっていればもっとリアリティがあったのかもしれないよね。
また、コードギアスのコミカライズの一つでは、原作の巨大ロボット兵器に相当する存在として、等身大のパワードスーツが登場している。この二者は意外と簡単に変換可能なのかもしれない。
なんなら、「巨大」の部分は残して主人公がガンダムに変身する、という形にしてもいいだろう(ULTRAMANの逆バージョン?)
これまでの全てのガンダムは「戦争」を描いている(「スポーツマンシップにあふれた戦争」のGガンも含めて)。主人公が戦争に直接参加することはなくても、物語の背景には必ず戦争があった。
恐らくここを変更することが、ファンにとっては最も抵抗感を覚えるのではないだろうか。
ファーストガンダムが当時高い評価を受けた大きな理由の一つは、アニメで人間同士の戦争を描いたことだ。最近では、戦争自体は主題ではないという論調が主流になってきたものの、ファースト以降ガンダムからの脱却を常に模索してきた富野由悠季ですら、戦闘による人死にのない作品をガンダム以外でも作ることができていない。作り手・受け手双方にとって、戦争の呪縛はそれほどに強い。
その問いの答えが、そして答えが出る時が来るのかどうかが気になってしょうがない。
上で、これまでのガンダムでは「様々な挑戦がなされてきた」と書いた。それは紛れもない事実ではあるが、たとえば初代の仮面ライダーと平成・令和のライダーの別物感に比べれば、ガンダム45年の変化は全然ヌルいともいえる。
ガンダムには、ぶっ壊せるところがまだあるのだ。
作品の制作にかかわる人々には、心の底から「こんなのガンダムじゃない!」と言えるようなガンダムをこそ期待したい。無茶なお願いは承知の上で。