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はてなキーワード: 武帝とは

2024-12-10

anond:20241210020602

濊(わい、拼音: Huì)は、中国史書である三国志』や『後漢書』などに記されている古代民族

漢書武帝紀では薉、『漢書』食貨志では穢と表記される。

中国正史および古文献によると、紀元前2世紀以来、約10世紀わたり朝鮮半島咸鏡道から江原道にかけての沿海地帯および中国松花江付近実在し、漁撈・狩猟を主たる生業としながら、海産物中国内陸へもたらすなど遠隔交易にも従事していた。

また、麻を植えて麻布を織る他、桑を植えて蚕を育て、真綿の布を織っていた

2023-02-10

anond:20230210120011

大塩平八郎

檄文

 天より被下候

    村々小前のものに至迠へ

四海こんきういたし候ハゝ天祿ながくたゝん小人

國家をおさめしめば災害并至と昔の聖人深く

天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ

東照神君ニも鰥寡孤獨ニおひて尤あわれみ

を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候然ルに茲二

百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこり

を極太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受と

て贈貰いたし奥向女中因縁を以道德仁義をも

なき拙き身分ニて立身重き役ニ經上り一人一家

肥し候工夫而已ニ智術を運し其領分知行所之民百

姓共へ過分之用金申付是迠年貢諸役の甚しき

苦む上江右之通無躰之儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ

四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣ニ

成行候得共江戸表より諸國一同右之風儀ニ落入

天子足利家已来別而御隱居御同樣賞罰之柄を

御失ひニ付下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な

き樣ニ乱候付人々之怨氣天ニ通シ年々地震火災山も崩水も

溢るより外色々樣々の天災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候是

皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも一向上たる人々

心も付ず猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱

し金米を取たてる手段斗ニ打懸り実以小前百姓

のなんきを吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候

得とも湯王武王の勢位なく孔子孟子の道德もなけ

れバ徒ニ蟄居いたし候處此節米價弥高直ニ相成大坂

奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ得手勝手

の政道をいたし江戸へ廻米をいたし

天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已な

らす五升一斗位之米を買に下りもの共を召捕抔い

たし実ニ昔葛伯といふ大名農人乃弁當を持運

ひ候小児を殺候も同樣言語同斷何れ乃土地にても人民

ハ 德川家御支配ものニ相違なき處如此隔を付候ハ

奉行等之不仁ニて其上勝手我儘之觸書等を度々

差出し大坂市中游民斗を太切ニ心得候者前にも申通

道德仁義を不存拙き身故ニて甚以厚ヶ間敷不届

之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候

利德之金銀并扶持米等を莫大ニ掠取未曾有之有福

に暮し丁人之身を以大名家老人格等ニ被取用

又ハ自己田畑新田等を夥しく所持何に不足なく

暮し此節の天災天罰を見なから畏も不致餓死

貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて結構

之物を食ひ妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋大名之家來を

誘引參り高價の酒を湯水を呑も同樣ニいたし此難

澁の時節ニ絹服をまとひ候かわらもの妓女と共に迎

ひ平生同樣に游樂に耽候ハ何等の事哉紂王長夜の

酒盛も同事其所之奉行役人手ニ握居候政を以右之

もの共を取〆下民を救候義も難出來日々堂島相場

いしり事いたし実ニ祿盗ニて決而天道聖人之御心ニ難叶

御赦しなき事ニ候蟄居の我等最早堪忍難成湯武

之勢孔孟之德ハなけれ共無據天下乃ためと存血

族の禍をおかし此度有志のものと申合下民を惱し

苦〆候諸役人を先誅伐いたし引續き驕に長し居候大坂

市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間右之者共

穴藏ニ貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米

夫々分散配當いたし遣候間攝河泉播之内田畑所持

不致ものたとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難

出來程之難澁者へハ右金米等取らせ遣候間いつに而も

大坂市中ニ騷動起り候と聞傳へ候ハゝ里數を不厭一刻も

早く大坂へ向駈可參候面々へ右米金を分け遣し可申候

鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意ニて當時之

飢饉難義を相救遣し若又其内器量才力等有之者

ニハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役ニも遣ひ申

へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠

輕くいたし都而中興

武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし遣

年來驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素ニ立戻り四

海萬民いつ迠も

天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄

救ひ死後の極樂成佛を眼前ニ見せ遣し堯舜

天照皇太神之時代に復シかたく共中興之氣象ニ

恢復とて立戻り申へく候此書付村々ヘ一々しらせ

度候へとも数多之事ニ付最寄之人家多候大村神殿

張付置候間大坂より廻し有之番人ともにしられさる

樣ニ心懸早々村々へ相觸可申候万一番人とも眼付大

四ヶ所の奸人共へ注進いたし候樣子ニ候ハゝ遠慮なく

面々申合番人を不殘打殺可申候若右騷動起り候を

承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハゝ

金持之米金者皆火中の灰に相成天下之宝を取失

ひ申へく候間跡ニて必我等を恨み宝を捨る無道者

と陰言を不致樣可致候其為一同へ觸しらせ候尤是

地頭村方ニある年貢等ニかゝわり候諸記録帳面

類ハ都而引破焼捨可申候是往々深き慮ある事ニて

人民を困窮為致不申積に候乍去此度乃一擧當朝

平將門明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反ニ類し候

と申者も是非有之道理ニ候得共我等一同心中ニ天

下國家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更無之

日月星辰之神鑑ニある事ニて詰ル處者湯武漢

明太祖民を吊君を誅し天討を執行候誠心

而已ニて若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を

爾等眼を開て看

 但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等

 より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃

 禍を畏一己ニ隱し候ハゝ追而急度其罪可行候

       奉天命致天討候

 天保八丁酉年 月日 某

 

攝河泉播村村

    庄屋年寄百姓并小前百姓共へ

2021-06-28

anond:20210627145126

まあこの論をつきつめると蒼鷹と呼ばれた前漢の酷吏の寧成を思い出すな

さらにさかのぼると商鞅がいて、彼の思想中国人の残虐さや独裁化しやすさにかなり貢献していると思っている

3000年も続いているのは恐ろしい話であり、中国民主化などまず不可能なことがわかる

1989年に惜しいところまではいったが)

日本中国と違うのは民間自発的にそういう警察を買って出ているところだな

そこが日本治安民度を高いレベルで維持してる理由ひとつだと思う

寧成 - Wikipedia

寧 成(ねい せい、生没年不詳)は、前漢武帝時代の酷吏と呼ばれた官吏の一人。南陽郡穣県(現在河南省南陽市鄧州市)の人。 略歴[編集]. 寧成は景帝の時代に謁者として仕えていた。悪知恵に長けていて、残酷性格の寧成は上役を押さえ込み、部下を巧みに操った。寧成は済南都尉に任命された。おりしもその済南郡にはのちに「蒼鷹」と恐れられることになる郅都が太守をしていた。 ... 当時は九卿は罪に落ちると自殺する者が多かったが、官僚としての出世を諦めた寧成は死刑囚用の首枷を外して ...

2020-06-20

中国史大事抜粋年表

1 『北京大学版 中国文明掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。

2 大事中、更に重要と見なしたもののみ掲載

3 < >内は王朝又は時代名(主要な王朝名のみ)

.

前1800頃 黄河中流域に二里頭文化(夏文化)出現 <夏>

前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>

前1250頃 高宗武丁の統治。甲骨文の使用

前1050頃 殷周革命(周・武王) <西周

前770 周の東遷(周・平王) <東周><春秋時代)>

前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国時代)>

前359 秦において商鞅第一次変法が実施される

前350 秦が咸陽遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される

前256 秦が東周を滅ぼす

前247 贏政が秦王として即位する(秦・始皇帝

前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一成る。秦が貨幣度量衡文字統一する <秦>

前210 秦・始皇帝崩御する

前209 陳勝呉広の乱

前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年

前202 項羽滅亡。漢(前漢)成立。 <漢(前漢西漢)>

前154 呉楚七国の乱

前136 儒教官学化 ※異説多し

前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)

前110 平準法

8 王莽皇帝を称する <新>

18 赤眉の乱

25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢洛陽遷都する <漢(後漢東漢)>

166 第一党錮の禁

184 黄巾の乱 <三国時代)>

200 官渡の戦い

208 赤壁の戦い

220 後漢献帝曹丕(魏・文帝)に禅譲後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>

234 蜀漢諸葛亮陣没

249 魏で曹爽が粛清され、司馬氏が実権を握る

263 蜀漢滅亡

265 魏・元帝司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>

280 晋が呉を滅ぼし、晋による中国統一成る

291 八王の乱

304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国時代)>

311 永嘉の乱

316 西晋滅亡

317 東晋成立 <東晋

439 北魏・太武帝北涼を滅ぼす <南北朝時代)>

485 均田法発布

581 禅譲により北周が滅亡し、隋が成立する <隋>

589 隋が陳を滅ぼし、隋による中国統一成る

610 隋・煬帝大運河を竣工する

613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる

618 李淵皇帝を称する(唐・高祖) <唐>

619 租庸調制の実施

624 唐による中国統一成る

626 玄武門の変。李世民皇帝即位する(唐・太宗)

640 貞観律令

660 武則天執政

668 唐が高句麗を滅ぼす

690 武則天皇帝を称し、国号を周と改める

703 中宗が即位し、国号を唐に復する。武則天崩御

755 安史の乱(~763)

780 両税法施行。租庸調・雑徭の廃止

845 唐・武宗による宗教弾圧仏教景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)

875 黄巣の乱(~884)

904 朱全忠、唐の実権を握る

907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国

916 契丹耶律阿保機皇帝を称する(遼・太祖) <遼>

960 趙匡胤皇帝を称する(宋・太祖) <宋(北宋)>

1004 澶淵の盟

1038 李元昊皇帝を称する <西夏

1069 宋において王安石の新法が行われる

1084 司馬光資治通鑑』が完成する

1086 司馬光、宋の宰相になる

1115 完顔阿骨打皇帝を称する <金>

1125 金が遼を滅ぼす

1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす

1127 南宋高宗即位 <南宋

1165 南宋と金の間に和議が結ばれる

1206 モンゴル部のテムジンボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>

1227 チンギス・カン崩御モンゴル西夏を滅ぼす

1229 オゴデイモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)

1234 モンゴルが金を滅ぼす

1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征

1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)

1264 アリクブケ、クビライに降伏する

1267 モンゴル帝国、燕京に遷都する

1271 クビライ・カアン、モンゴル国号を元に改める <元>

1279 元が南宋を滅ぼす

1281 弘安の役

1351 紅巾の乱

1368 朱元璋皇帝を称する(明・太祖、洪武帝) <明>

    明が元の首都大都を攻略する。元の北遷(北帰) <北元

1371 明で海禁令が出される

1388 北元の滅亡

1399 靖難の変

1402 明で朱棣が皇帝即位する(明・太宗、永楽帝

1403 鄭和による第一次航海

1421 明、北京遷都する

1435 この頃より宦官の専政がひどくなる

1449 土木の変

1616 女真族ヌルハチ満州中国東北部)に後金建国する <後金(清)>

1638 ホンタイジ後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。

1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)

1673 三藩の乱

1683 台湾の鄭氏政権が滅亡

1689 ネルチンスク条約

1696 ジュンガル部討伐

1716 地丁銀制

1728 キャフタ条約

1798 白蓮教徒の乱

1840 アヘン戦争(~1842) <近代中国

1850 太平天国の乱(~1864)

1856 アロー号戦争

1860 円明園炎上

1861 西太后の垂簾聴政(~1908)

1884 清仏戦争

1894 甲午戦争日清戦争)(~1895)

1899 義和団の乱

1904 日露戦争(~1905)

1905 清・光緒帝、科挙廃止する

1908 清・光緒帝並びに西太后崩御

1911 辛亥革命

1912 清朝滅亡 <中華民国

1915 日本による二十一箇条要求袁世凱皇帝を称する

1928 張作霖爆殺事件、張学良の易幟

1931 満州事変

1932 満州建国(~1945)

1934 中国共産党による長征

1935 遵義会議毛沢東中国共産党のトップ

1936 西安事件

1937 中国抗日戦争日中戦争)(~1945)

1939 第二次世界大戦(~1945)

1945 日本降伏

1946 国共内戦(~1949)

1949 中華人民共和国成立 <中華人民共和国(新中国)>

1950 中国朝鮮戦争に参戦(1951年終戦

1951 三反五反運動

1957 反右派闘争

1959 チベットダライ・ラマ14世インド亡命する

1958 大躍進政策の開始(~1958)

1966 文化革命の開始

1976 毛沢東の死去。文化革命終結

1978 鄧小平中国最高指導者になる。改革開放政策の開始

1997 鄧小平死去。香港返還

2012 習近平中国最高指導者になる

2019 湖北省武漢市で新型コロナウイルス(COVID-19)感染者が発生

2020 新型コロナウイルス(COVID-19)の世界流行

2018-08-19

元号出典一覧

元号出典備考
大化書経』(『尚書』)大誥、『漢書』巻56、『宋書』巻20 
白雉漢書』巻12帝紀 
朱鳥礼記』曲礼 
大宝易経』繋辞下 
慶雲文選』巻6、『晋書』巻54陸雲伝 
和銅和銅(ニギアカガネ)が朝廷に献上されたことにより改元
霊亀瑞亀献上により改元
養老養老の滝命名に因んで改元
神亀白亀出現の瑞祥により改元
天平天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元
天平感宝陸奥から黄金献上により改元
天平勝宝孝謙天皇即位により改元
天平宝字蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元
天平神護藤原仲麻呂の乱神霊の護りによって平定したことによる
神護景雲瑞雲の発現により改元
宝亀瑞亀献上により改元
天応伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により改元
延暦後漢書 五十二巻 
大同礼記』礼運篇 
弘仁 
天長 
承和 
嘉祥豊後国大分郡寒川現在大分川)で捕獲された白亀が献上されたことを大瑞として改元
仁寿白亀・甘露の瑞祥による改元
斉衡石見国から醴泉の瑞を献上された事による改元
天安美作国常陸国両国より白鹿、連理の樹が献上された祥瑞による改元
貞観易経 
元慶白雉・白鹿献上の瑞祥による改元
仁和 
寛平 
昌泰 
延喜尚書』旋璣鈐 
延長文選東都賦、白雉詩 
承平漢書 
天慶漢書 
天暦論語 
天徳周易 
応和「董巴議」 
康保書経 
安和礼記』楽記第19 
天禄 
天延天変、地震による改元
貞元火災地震による改元
天元災変、陽五厄による改元
永観書経』洛誥 
寛和 
永延漢書』巻75翼李伝 
永祚『晋書』巻21礼志 
正暦大風、天変による改元
長徳揚雄の『城門校尉箴』 
長保国語』(周語中) 
寛弘漢書」(元帝紀賛) 
長和礼記』(冠義) 
寛仁『会稽記』 
治安前漢書』 
万寿詩経 
長元六韜 
長暦春秋』または『晋書』 
長久老子』(七章) 
寛徳後漢書』(杜林伝) 
永承書経 
天喜『抱朴子』 
康平後漢書 
治暦尚書正義 
延久書経』または『尚書‐注』 
承保尚書 
承暦「維城典訓」 
永保尚書 
応徳白虎通」 
寛治礼記 
嘉保史記 
永長後漢書』巻1光武帝 
承徳周易 
康和崔寔『政論』 
長治漢書 
嘉承漢書』礼楽志 
天仁文選 
天永尚書 
永久詩経』?
元永天変、疾疫による改元
保安天変、厄運による改元
天治『易緯』 
大治『河図挺佐輔』 
天承漢書 
長承史記 
保延文選卷十一·魯靈光殿賦并序』 
永治『魏文典論』『晋書』武帝 
康治宋書 
天養後漢書 
久安『晋書』劉頌伝 
仁平後漢書』孔奮伝 
久寿『抱朴子』 
保元『顔氏家訓』文章 
平治史記』夏本紀 
永暦後漢書』辺譲伝、『続漢書』律暦志 
応保尚書 
長寛『維城典訓』 
永万漢書』巻64王褒伝 
仁安毛詩正義 
嘉応漢書』王褒伝 
承安尚書 
安元漢書 
治承「河図挺作輔」 
養和後漢書 
寿永詩経 
元暦尚書考霊耀」 
文治礼記祭法 
建久『晋書』『呉書』 
正治荘子‐漁父」 
建仁文選卷四十七・聖主得賢臣頌』 
元久毛詩正義 
建永文選』卷四十二・曹子建與楊德祖書 
承元「通典」 
建暦後漢書 
建保尚書 
承久「詩緯」 
貞応易経 
元仁周易 
嘉禄「博物志」 
安貞周易』上経坤 
寛喜「後魏書」 
貞永易経」(坤卦) 
天福書経」(湯誥) 
文暦文選卷四十六・顔延年三月三日曲水詩序』 
嘉禎北斉書」 
暦仁「隋書」(音楽志下) 
延応文選卷二十四・潘安仁為賈謐作贈陸機』 
仁治新唐書 
寛元宋書 
宝治春秋繁露-通国身」 
建長後漢書 
康元赤斑瘡による改元とみられている
正嘉芸文類聚-歳時中・元正 
正元「詩緯」 
文応「晋書‐劉毅伝」 
弘長貞観政要‐封建」 
文永後漢書‐荀悦伝」 
建治周礼 
弘安「太宗実録」 
正応伏見天皇即位による改元
永仁『晋書』巻22楽志 
正安孔子家語』 
乾元周易 
嘉元芸文類聚天部 
徳治『左伝』 
延慶後漢書』馬武伝 
応長旧唐書礼儀 
正和「唐記」 
文保梁書 
元応唐書 
元亨周易 
正中易経 
嘉暦唐書 
元徳周易 
元弘芸文類聚天部 
正慶光厳天皇即位による改元
建武文選』?
延元梁書 
興国春秋左氏伝』昭公四年伝、『新五代史』伶官伝序 
正平天変や兵革による改元
建徳文選 
文中易経』彖伝上?
天授史記』淮陰侯列伝
弘和書経』君牙篇?
元中易経』彖伝上?
暦応帝王代記』 
康永漢書 
貞和芸文類聚 
観応荘子 
文和旧唐書』順宗紀、『三国志』呉志孫権 
延文漢書』儒林伝 
康安史記正義』と『唐紀』 
貞治周易 
応安毛詩正義大雅江漢 
永和尚書』舜典と『芸文類聚』巻8 
康暦唐書 
永徳『群書治要』巻17
至徳『孝経』 
嘉慶毛詩正義 
康応文選曹植七啓 
明徳礼記 
応永『会要』 
正長礼記正義 
永享後漢書 
嘉吉周易 
文安『晋書』 
宝徳旧唐書 
享徳尚書 
康正史記』と『尚書 
長禄韓非子 
寛正孔子家語』 
文正荀子 
応仁『維城典訓』 
文明周易 
長享文選 
延徳孟子 
明応周易 
文亀『爾雅』釈魚 
永正周易緯』 
大永杜氏通典』 
享禄周易 
天文易経 
弘治北斉書』 
永禄『群書治要』巻26 
元亀毛詩』と『文選 
天正文選』と『老子 
文禄杜佑『通典職官十七』 
慶長毛詩注疏』 
元和徳川家康の命により、唐の憲宗の年号を用いた
寛永毛詩朱氏注』 
正保尚書正義 
慶安周易 
承応『晋書』律暦志 
明暦漢書』律暦志と『後漢書 
万治史記』と『貞観政要』 
寛文荀子』致士篇 
延宝『隋書』音楽 
天和尚書』、『前漢書』、『後漢書』、『荘子 
貞享周易 
元禄文選 
宝永旧唐書 
正徳尚書正義 
享保後周書』 
元文文選 
寛保国語』周語 
延享芸文類聚 
寛延文選 
宝暦貞観政要』 
明和尚書 
安永文選』巻一 
天明尚書 
寛政『左伝』 
享和文選』ら 
文化周易』賁卦彖伝、『後漢書』荀淑伝
文政尚書』舜典 
天保尚書 
弘化菅原為定の漢文 
嘉永宋書』楽志 
安政内裏炎上地震安政の大地震)、黒船来航などの災異による改元
万延後漢書』馬融伝 
文久後漢書』謝該伝 
元治周易 
慶応文選 
明治易経 
大正易経』彖伝・臨卦 
昭和書経堯典 
平成史記五帝本紀、『書経(偽古文尚書)』大禹謨 

※すべてWikipediaから

 

調査を通じて学んだこと

※代始改元はかつては非礼とされていた

https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E5%A7%8B%E6%94%B9%E5%85%83-1359409

代始改元は,(中略)平安時代から806年平城天皇大同改元場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。

南朝元号の出典、勧申者がのきなみ不明になってる。焚書にあった?それとも元号を考えられる教養のある人がいなくて適当につけただけだったりする?

日本古典出典の元号過去に一件のみ存在する(弘化

元号って漢籍から適当に二文字抜き出しているように見える。「百姓昭明、協和萬邦」から明和昭和の2つの元号が作られているし。なんか規則あるんだろうか?

2018-03-12

anond:20180312144930

やっぱ皇帝らしい号を名乗ろう。

太宗とか武帝とかアウレリウスとかカールとか。

まあ宇宙大将軍って肩書きだけは立派ですぐ王朝が潰れたのもいるけど。

2017-11-20

武帝を「ぶってー」

始皇帝を「しこってー」

って覚えていたK君元気?大学行ってる?

2017-03-31

暗君東西対抗

単純な失政や暴政よりはエピソード重視。

だいたい次代の奴が自己正当化のために悪く書いただけで、実際はそこまで馬鹿じゃないという話もあるので、話半分に読みましょう。

?-前771姫宮西周の第12代の王・幽王。無口無表情系の美女・褒姒の機嫌をとるために、用もないのに何度も緊急の烽火をあげ、集まってくる諸侯の軍を見ては、褒姒と一緒に笑っていた。ついに反乱が起きた時、幽王はあわてて烽火をあげたが、もはや集まる軍はなかった。これにより西周は滅んで東周が興り、そして春秋時代へと突入していく。
259-307司馬衷西晋の第2代皇帝・恵帝。先帝の御前で家臣が「あいつには玉座がもったいない」と言い放ったほどの暗愚だった。飢饉ときに「米が無いなら肉粥を食べればよいではないか」と言い放ち、かの有名な台詞を1500年くらい先取りした。その無能さ故に、代わって政治の主導権を握ろうとする皇族たちが争い「八王の乱」が起きたが、その無能さ故に殺されることはなく、48歳のときに食あたりで死んだ。
335-357苻生前秦の第2代皇帝・厲王。生まれつき隻眼だったために祖父から忌み嫌われ、たびたび鞭打たれるなど、虐待まがいに育てられた。武勇に優れていたが、残虐で酒を好んだ。宴のときには酒を飲まない者を殺したため、諸官は懸命に泥酔せねばならなかった。また隻眼のコンプレックスから「少」「無」「残」「偏」などの文字を使うだけで誅殺した。従弟たちが起こしたクーデターにより23歳で殺害された。死ぬ間際にも泥酔していたという。
463-477劉昱劉宋の第7代皇帝後廃帝。「天性好殺」と評されたシリアルキラー。従者に凶器を持たせて街を練り歩き、気に入らない者を自ら殺して回った。贈り物が好みでなかったというだけで皇太后を毒殺しようとしたが「喪に服しているあいだは街へ出られませんよ」と諌められて諦めた。一日に誰も殺さないと不機嫌になったという。有力な将軍クーデターにより14歳若さ殺害された。
502-549蕭衍南梁の初代皇帝武帝。当初は名君の誉れ高かったが、次第に仏教に傾倒していき、莫大な寄付金国庫を傾けた。なまじ優秀だったために諫言を聞かず、勝手出家してはそのたびに寺院から連れ戻された。周囲の反対を押し切って、隣国を追われた武将を受け入れたところ、即座に反逆され、凄惨な籠城戦の末に捕縛幽閉された。息子たちの誰も救援に来ない中で、惨めなうちに病死した。
1122-1161完顔亮金の皇帝。「天下の美女を妻に得たい」と嘯き、親族、家臣の妻、母娘、幼女、あらゆる美人後宮に入れ、宮殿のいたるところで乱交した。幼い姪を強姦して殺し、従弟の妻を奪おうとして死に追いやった。南宋に対して大規模な遠征を行ったところ本国で別の皇帝擁立され、それでも遠征を続けようとして部下に殺された。死後、皇帝どころか王とすら見做されず、「海陵庶人」と記録された。
1563-1620朱翊鈞明の第14代皇帝万暦帝。幼い頃から聡明で知られ「朕は5歳で字が読めた」とよく自慢していた。宰相張居正の手腕により、統治の初期は成功を収めたが、その後は外征・内乱が相次ぎ、自身酒色に溺れて堕落した。明で最も在位期間の長い皇帝だが、30年にわたって後宮引きこもり上奏があっても何の返答もしなかったため、国政は機能不全に陥った。ただし徴税だけは熱心だったという。

西

161-192コンモドゥス17ローマ皇帝暗殺未遂や側近の裏切りなどから政治への興味を失い、剣闘にのめりこんでいった。「ヘラクレス化身」を自称して狼の毛皮をまとい、実際に剣闘士としてコロッセウムで戦った。その武勇は素晴らしいものだったが、「皇帝奴隷の真似事を」とローマ市民を嘆かせた。あるとき重臣たちの粛清を図ったが、逆に毒薬を飲まされ、朦朧としたところを襲われて殺された。31歳だった。
203-222ヘリオガバルス23ローマ皇帝ローマ最高神故郷シリアの土着神に挿げ替えてその神官となり、処女を守るべきローマ巫女結婚して神の子を産もうとした。その後は離婚結婚を繰り返し、最後には女装をして男性奴隷の「妻」として振る舞った。さら宮殿の中に売春宿を作り、自ら男妾となって通りがかる男性を誘い込んだ。マゾヒストの気もあったという。近衛兵の反乱により18歳の若さで殺され、死体は切り刻まれて川に捨てられた。
937-964ヨハネ12ローマ教皇カール大帝の子孫という家柄であり、わずか18歳で教皇となった。無謀にも教皇領の拡大に乗り出して大敗を喫し、それを助けた東フランク王国オットー1世ローマ皇帝の冠を与えた。これにより神聖ローマ帝国誕生したが、教皇権威は低下することとなった。不道徳人間で、ラテラノ宮殿売春宿のようにしており、最期人妻と寝ていたところをその夫に見つかって殺されたという。27歳だった。
1012-1056ベネディクトゥス9世ローマ教皇父親の後押しにより20歳にもならないうちに教皇となる。賄賂などはもちろん、殺人もいとわず姦淫にふけり、同性愛も行っていた。従妹と結婚するために教皇位を金で売りとばしたが、すぐに後悔して復位を主張し、混乱を招いた。結果として三度も教皇に就位することになり、最後には新たな教皇により破門されてしまった。四度目の復位を画策していたときに43歳で亡くなったと言われる。
1199–1216ジョンイングランド王。幼い頃から父・ヘンリー2世に可愛がられていたが、父と争っていた兄・リチャードが優勢になると寝返りヘンリー2世失望のあまりに亡くなった。さらにリチャードが亡くなって王に即位すると、フランスフィリップ2世敵対して惨敗フランスにあった広大なイングランド領を全て喪失し、その体たらくイングランド諸侯の不満が爆発したため、やむなくマグナカルタを認めて王権制限を受け入れた。
1835-1909レオポルド2世ベルギー国王アフリカコンゴ私領とし、私財のほとんどを投じて近代化を推進したが、やがて「天然ゴム採取ノルマに達しなければ手首を切り落とす」といった残虐な労働を強いるようになった。さすがの欧州諸国もドン引きして強烈なバッシングを浴びせ、最終的にコンゴ統治ベルギー政府移管された。国民からの信頼は地に堕ち、晩年王妃や娘にまで白い目で見られたという。
1845-1886ルートヴィヒ2世バイエルン王。「狂王」とも「白鳥王」とも呼ばれる。政治への興味は薄く、戦争に負けたばかりで多額の賠償金を抱えていたにもかかわらず、借金までして自身メルヘン趣味に耽溺し、中世風の美麗な城を各地に残した。夜中にソリ遊びを始めるなど、奇行に走る王を家臣たちは危ぶみ、精神病だという理由で退位させた。その翌日、40歳で謎めいた死を遂げた。

2016-08-17

http://anond.hatelabo.jp/20160817010838

後塵警察です。

後塵は「車などが通ったあとの砂埃」のことですが、それ自体は「遅れを取っている」という意味を持ちません。

この言葉は、中国西晋時代の賈謐にまつわる故事に由来しています

武帝の没後、恵帝の皇后である伯母の賈后(賈南風)と図った上で、武帝外戚で権勢を誇っていた楊駿ら楊一党を滅ぼし、権力を握る。「賈謐二十四友」という文学集団形成し、潘岳や石崇などその取り巻きが賈謐にへつらう様は、乗車する馬車の塵を拝むほどであったため、「後塵を拝す」の故事を生んだ。

賈謐 - Wikipedia

ですから、「後塵を拝す」までワンセットで一つの慣用句となります

2016-07-13

 「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号候補の中から明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。

五経の一つ。儒家重要経典宇宙原理・万象の変化を陰陽二元をもって説き、人間道徳も陰陽消長して万物を生成する天道に従うべきだと説く。

※『書経五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典

※『五経中国古典である経書のうちでも代表的な五つの書物。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。前漢武帝時代に、この五書を五経と名づけ、それを専攻する五経博士を置き、儒教国教化したときに始まる。儒家基本的教科書であった。

※『史記二十四史の一つ。黄帝から前漢武帝までのことを記した紀伝体の史書。

ふーん。て事は、やっぱ漢文とか国語学者みたいなのと一緒に決めるんかな

公募はないよね

2015-07-14

Wikipediaに憤死したと書かれている有名人

李広

前漢武将。衛青に従って匈奴征伐に出陣したが遅参してしまい「慣れない搦手の部隊に回されたせいで道に迷ったじゃねぇか!」と逆ギレして憤死。

周瑜

三国志演義』に登場する呉の武将諸葛亮にことごとく策を読まれた上に「どうせ俺に勝てないんだから曹操に隙を突かれる前にやめたら?」と言われて憤死。

于禁

三国時代の魏の武将。有力な将軍であったが関羽に敗れて降伏した。のちに魏に送り返されたあと、関羽に命乞いしている場面の絵を見せられて憤死。

曹丕の項にて「憤死」を確認

王朗

三国志演義』に登場する魏の政治家。戦いの前に諸葛亮に論戦を挑むも「逆賊曹操に取り入って私腹を肥やしたくせにまだ手柄が欲しくて戦場に出てくるのかこのジジイ」と罵られて憤死。

曹真

三国志演義』に登場する魏の武将。陣中で病にかかり重体となり、それを察した諸葛亮がここぞとばかりに送った挑発的な内容の手紙を読んで憤死。

陸遜

三国時代の呉の武将老害と化して後継者問題引き起こし孫権が周囲の讒言を信じて何度も問責してきたため憤死。

蕭衍

梁の武帝。当初は名君だったが仏教に傾倒して国を衰退させ、宇宙大将軍が率いるたった1000人の反乱軍に敗れて首都を包囲され降伏幽閉中に蜜を求めたが与えられず憤死。

侯景の項にて「憤死」を確認

ベリサリウス

東ローマ帝国武将東ローマ帝国の最大領土を築き上げたが、皇帝から必要ときに呼び出されてこき使われるだけの不遇な人生を送り、最後には無実の罪で逮捕されて憤死。

早良親王

兄・桓武天皇から藤原種継暗殺事件関係した疑いをかけられて流罪に処され、無実を訴えて絶食し憤死。

ボニファティウス8世

ローマ教皇フランスフィリップ4世対立して監禁されて「異端者」と罵られて殴られて身ぐるみ剥がれて憤死。

2015-04-24

中国十大忠臣

諸葛亮

言わずと知れた宰相諸葛孔明

劉備亡き後の蜀漢をよく支えたが、志半ばにして五丈原に死した。

その判断公明正大で、諸葛亮によって流罪とされた者ですら、彼を恨まずその死を嘆いたという。

彼の手になる「出師表」は古今の名文とされ、「読みて涙を堕さざればその人必ず不忠」と言われるほどである

魏徴

唐の凌煙閣二十四功臣の第四位

もとは太宗の政敵である李建成の部下であったが、その剛直さを買った太宗が自身の側近として登用した。

皇帝となった太宗に対しても容赦なく諫言し、亡くなったときには「朕を写す鏡を失った」と太宗を嘆かせた。

そのやりとりが多く記録された「貞観政要」は帝王学の名著とされている。

寇準

北宋の名宰相

魏徴と同じく、性剛直にして諫言を多くすることで知られ、寇準がやってくれば百官が震え上がると言われた。

その性格のため周囲の恨みを買い、讒言により宰相を追われるが、死後に名誉回復がなされた。

小説「楊家将演義」にも登場して活躍する。

包拯

北宋政治家で、清廉潔白代名詞として知られる。

賄賂を厳しく取り締まったことで、貴族からは恐れられ、民からは慕われた。

その峻烈な性格は「包拯が笑う時は黄河が澄む時だ」と言われるほどだった。

死後、人気はさらに高まり、「包公故事」として劇や小説、あるいはテレビドラマの題材となった。

文天祥

南宋の三忠臣、亡宋の三傑と呼ばれたうちの一人。

弱冠にして科挙首席合格した傑物であり、「正気の歌」などの優れた詩を残す。

南宋首都が陥落したあとも抗戦したがモンゴル軍に捕らえられた。

彼の才を惜しんだクビライから、帰順すれば宰相にするとまで言われたが、「宋の宰相がどうして二姓に仕えようか」とただ死を望んだ。

やむなく文天祥処刑したクビライは、彼を評して「真の男子なり」と讃えた。

于謙

エセン率いるモンゴル軍に明軍が大敗し正統帝が囚われたとき、于謙はすぐさま正統帝の弟を皇帝に立て、徹底抗戦の構えを見せた。

首都である北京にまで迫ったエセンを撃退し、正統帝を取り返したが、のちに反逆者の汚名を着せられ処刑された。

地方官吏であった頃に、賄賂を受け取らずに都に戻る清々しさを詩に詠んだという故事は、「清風両袖」の語源となっている。

海瑞

道教に傾倒し政治を顧みない明の嘉靖帝を諌めたことで投獄された。

海瑞は、棺桶を買い、妻子に別れを告げ、死ぬ覚悟を持って直諫に臨んだという。

嘉靖帝の死後、釈放されてから要職に就けないまま役職転々としたが、その謹厳な性格は変わらなかった。

この海瑞のことを描いた戯曲が、文化大革命の発端となった「海瑞罷官」である

史可法

明末、抗清の武将

李自成の乱によって明の首都である北京が陥落すると、江南へ退避して亡命政権を打ち立てた。

揚州にて清の大軍と戦っていたがついに包囲され、熾烈な抵抗を行った末、落城時に自刎した。

それによって莫大な損害を被った清軍は、報復として揚州の八十万人を虐殺したと言われる。

鄭成功

同じく明末に活躍した抗清の武将

日本で生まれて七歳で明へ渡り北京陥落後は亡命政権の一つに拠った。

そこで隆武帝に気に入られ、国姓の「朱」を与えられたので、以降「国姓爺」と呼ばれるようになった。

父親が清に降ったのちも、鄭成功奮戦を続けたが、抗しきれず台湾へと渡った。

その地を支配していたオランダ人追放して独自政権を打ちたて、翌年に死去した。

林則徐

清の官僚として、地方農村の再建と腐敗した官吏処分を行い、名声を高めた。

道光帝によって欽差大臣に抜擢され、阿片禁輸の大任を託された。

その期待に応え、1425tもの阿片を没収して焼却したが、それをきっかけとしてアヘン戦争が勃発する。

持久戦に持ち込めばイギリスに勝てることを林則徐は見通していたが、親イギリス派の讒言によりあえなく失脚した。

 
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