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“信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html
ブコメに「なんじゃこりゃ?」ってレベルの言い掛かりがあったので
migurin
素直にすごい。どうでもいいけどブコメ、記事に「濃姫」と記載があるのにわざわざ
mouseion それにしても信長と帰蝶との間に子供が出来なかったのが悔やまれる。
え?帰蝶が??
要するにmigurin の主張は
「濃姫のことを帰蝶と書くのは知識マウントである」ということだが
これは全く当たらない。
何故かといえば
別の有名どころに置き換えるなら
幸村=帰蝶
信繁=濃姫
の関係。
築山殿=濃姫
の関係。
後世のお話本で「面白味のあるキャラ名」としてあてがわれたのが幸村であり、瀬名であり、帰蝶であって、
もうちょいマシな根拠で「面白味はないけどより正確性高い呼び名」とされるのが信繁であり、築山殿であり、濃姫だ。
歴史知識というよりキャラとしての「信長の嫁」を扱うための便宜的な名前だ。
まあそう呼ばれてた可能性は高いよねということでしかない名前。
こちらの方が保守的であり歴史的正確性に意識の向いた呼び名なのだ。
つまり、
もしも「私は歴史知識に造詣深いですよ」とか「歴史知識に正確性を求めてますよ」的なアピールがしたいなら
migurinは一体何を言ってるのかさっぱりわからないということだ。
高い確率で単に「そっちの方が親しみがある」っつーだけだ。
近年のコンテンツでも「濃姫」じゃ面白くないから「帰蝶」採用率が高い。
「道三の隠居城の鷺山城から嫁いできた」というより細かい知識が盛り込まれている。
「濃姫?ああ鷺山殿ね!」なら歴史オタクの知識マウントっぽい。
かっこつけたいなら鷺山殿だ。
そもそも大した確証もなく人の発言をマウント扱いすべきではないが、
このmigurinにいたっては「何がマウントに当たるか」を判断するていどの歴史知識があるようにも見えない。
傍から見た感想としても「こいつ何言ってんの?」の一語である。
このレベルで歴史知識がないのに人の発言を知識マウントに感じるのは、単に闇雲なコンプレックスのようにも見える。
歴史ネタ以外でも被マウント感を覚えることはあるか、日頃どんなときにマウントされたと感じるか、等々を記録してみるのもよいと思う。
(念のため書いておくけど
俺が主張してるのはこのmouseionてやつはマウントしてないだろって話で
俺がマウントしてるという指摘なら受け入れるぞ
昔の女性の名前が特定されにくいのって、何で?女性は文書に名前が書かれることがないから?
2024/04/25
せやで
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
最上・伊達は完全に秀次シンパになっていて、上杉も豊臣方安定だから東北方面からの家康へのプレッシャーは半端ない。
越後は堀、信州は天敵・真田、甲斐は秀次とも縁が深い浅野で、東海道と秀次付の宿老達の構えときていて中部方面の対徳川対策も申し分なし。
徳川から攻めるのはほぼ無理な状況で、自然と石川数正的な離脱だったり、お家騒動だったり(徳川家は徳川家で子沢山かつ仲悪くて大変)、
北条の遺児の復権運動も間違いなくありそうだったりで、徳川は領土維持するのも大変つか、わりと詰んでいる。
ま、逆に秀次を殺したことで、連座して最愛の娘を殺された最上義光は命を懸けて徳川応援することになり、伊達も豊臣家の秩序に見切りをつけるようになった上、
甲斐の浅野幸長は徳川のとりなしで流罪の身から釈放されたことで恩義を感じるようになり、東海道が一気に豊臣家内での位置を大きく下げた元宿老達
(秀次事件ではなだめるためかむしろ加増してもらってるケースが多いにしても)のたまり場になって、その状態で秀吉が死んじゃうものだから、
Chakuwiki に岩下志麻が「大河ドラマで2回も次男贔屓の鬼母を演じていた」と書いてあった。
けど、よくよく考えてみたら、大河ドラマで岩下志麻が演じた主要な役3つ、北条政子(草燃える)、保春院(独眼竜政宗)、崇源院(葵・徳川三代)はいずれも、次男びいきの鬼母ではあるまいか。
北条政子は実家・北条家と結託して自らの長男・頼家とその妻子を抹殺し、次男・実朝を擁立した。
最上義光の妹で伊達輝宗の正室である保春院は、長男である伊達政宗を毒殺しようと試み、次男の小次郎に家督を継がせようとした。
江(ごう)とも呼ばれる、徳川秀忠の御台所・崇源院は自身にとっては長男である竹千代(家光)を邪険に扱い、次男の徳川忠長を将軍に据えようと画策した。
言わば三人が三人とも、日本史上「総領息子に厳しく次男坊に甘い鬼母」の代表格であり、これが大河ドラマの中でひとりの女優によって演じられたというのは、これはもう偶然ではあるまい。