はてなキーワード: 学習指導とは
自分は小学2年生~小学5年生の時に、ピアノ教室で通ってピアノを習っていた。
ピアノ教室は、週1で水曜日の30分のレッスンだったはずで、月に何回か忘れたが毎週か隔週に通っていたと思う。
個人宅の一戸建ての1部屋をピアノ教室にしたような所で、自分と歳が近そうな息子がいる主婦な女性の先生だった。
ピアノ教室に通って1~2年間は、1回のレッスンで1曲をクリアしていくペースだった。教材がまだ簡単だったせいか、家であんまり練習しなくても6割程度を通しで弾けたと思う。
しかし、通って3年目頃から弾く曲がちょっとずつ難しくなるとつまづく事が多くなり、達成感も無くなり、モチベーションが下がっていった。なんで弾きたいかもよく分からなくなっていたと思う。
惰性でピアノ教室を通うようになっていって、ちょっとずつピアノ教室が楽しくなくなっていった。
小2からピアノ教室を始めたが、自宅にピアノとかまともな楽器が無かったので(お下がりの鍵盤ハーモニカやリコーダーや、あっても父親が昔の若い頃に使っていた置物状態の錆びかけたクラシックギターしかない)、小3の頃に父親からもらったお年玉で1~2万円程度のCASIOの電子キーボードを買ってもらった。(関係ない余談だが、ゲーム音楽を弾いてる芸人の「こまつ」が2000年代頃に所持していた電子キーボードとほぼ同じ種類の電子キーボードだった。)
しかしその電子キーボードは、5オクターブ(61鍵とか)程度しかないキーボードで、それでピアノの練習をするという、何だか今思うとおかしいというかケチった初期投資や環境だった。
電子キーボード購入当時はお金を気にしてか、なぜか電子ピアノを購入する発想にならなかった。自分も親も電子キーボードでピアノの代用ができると薄っすら思っていたようだった。
近場の家電量販店で電子キーボードを選んで購入時には気付かなかったが、使っていく内に弾き押した感覚がピアノと全く違う事に気付いた(鍵盤を押した重さやピアノの音色や響きや音質など、電子キーボードでは差がありすぎた)。とにかく漠然と「コレジャナイ」というのが頭のどこかの隅にありながら練習をしていた。「ピアノの感覚で弾きたいのに…」と地味に不満に思ってて、モチベーションが下がっていった地味に要因の一つだったと思う。
しかも自分が知らない間に、父親が何となくリビングに電子キーボードを設置してくれたが、自分はリビングで弾くのが恥ずかしかった(自分が弾いてる姿も)。どちらかというと自室とかにこもって独りで弾きたかった。恥ずかしさや迷惑さで親にも相談できなかった。そんな事もあってリビングに誰もいない時を狙って隠れて弾くため練習頻度が下がった。
友達にも「ピアノ教室に通ってるけど、何の曲を弾いてるの?」と聞かれたが、弾いてる曲も子供向けの曲(曲名も無名な曲)で恥ずかしくて、濁すしかなかった。
小5の頃には、練習をかなりサボるようになったりして先生の前で弾けなかったり、ピアノ教室に行く事をグズったり遅刻したりしていて、次男から「辞めろよピアノ教室」と軽蔑気味に言われて(※自分は末っ子)、ピアノ教室の日が来る度に内心苦しく困ったままで通って、妥協しながらやり過ごしていた。
先生から特にサボってる程の練習量について何も言われなかった。自分の動機とか音楽の好みとか自宅の練習環境とか理解されてなかったと思う。先生とも音楽の好みが合わなかったと思う。
小5の頃には、先生も教え方が余所余所しくなり、「躓いてるけど、自分で反復練習するものだから」と素っ気なくなっていた。
(自分は人見知りな事もあって、先生と打ち解けた事はほぼ無くて、レッスン中に「先生がトイレに行ってるから何か弾いててもいい」と言われたが、恥ずかしくて自分は何も弾けずに無音状態で待っていたら、トイレから戻った先生から「また静かだった」と言われて戸惑った程に人見知り。)
小5の頃からなぜか自分は勘繰りが起こるようになり「先生の教え方が手抜きになってないか?」「手抜きなのに親に月謝を払ってもらっている、つまり自分は鴨になっているのではないか?」と疑心が生まれて「どうせ自分へのレッスンは金蔓なんだろうな」という偏見や感情が芽生えていた。
元々自分は幼稚園生の頃からゲーム音楽が好きでDDRとかbeatmania(5鍵)やギタドラ初期などの音ゲーとかにも興味があって「楽譜を読めるようになりたい」とかで漠然なまま「音楽を習ってみるか」となってたが、レッスンを受けると訳分からない童謡みたいな子供向けの曲を弾かされて、演奏する曲の殆どがそもそも自分の好みの曲ではなかったし、好みでない曲はフラストレーションの要因でしかなかった。
当時は自覚していなかったが、どちらかというと自分は座学がやりたかった。座学はあったが30分のレッスン時間の内の10分間程度の座学で、座学だけをやるような選択はなく、座学には重点が置かれていなかった(「座学と実践」の割合は、3:7ぐらいだったと思う)。今ならコード進行とか学びたかった。
(一応、学習指導向けのピアノテキスト教本で、それに沿って演奏して実技が身に付くような教え方はされた。他には「バーナムピアノテクニック」の教本に沿って実技をしていた記憶がある。)
レッスンを受ける意義も分からなくなり、自分が好きな曲を弾きたいという動機は薄っすら残っていて、小5の時に「ゲーム音楽を弾きたい」とようやく相談して、自分が小4の頃に器楽クラブの顧問から運良く頂けた「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を、ピアノ教室の先生に見せたら何故かスルーされて、先生が所持してる楽譜の中から弾けるゲーム音楽を選ぶ事になった。
しかし今よりゲーム音楽は有名でないせいか、選べるゲーム音楽の楽譜が少なく、ドラクエ序曲のマーチアレンジ(子供向けな編曲)やFF10の「ザナルカンドにて (終末的な悲しい曲)」のピアノ楽譜があって自分としてはどちらかというと本望ではないが、それらをレッスンで弾く曲に選ばせてもらって弾いたが、なぜか楽しくなかった。どちらかというと恥ずかしさとか気まずさが強く、弾いてて感情移入してる感じがしなかった。
小5の時に同級生が、近所におじさんが教えてるパソコン教室があって、そこに通っている事を知った、それを母親に相談して自分もパソコン教室にも通わせてくれる頃に、自分はピアノ教室を辞めたいような意思になって辞める方向になった。
これまで送り迎えだけだった母と一緒にピアノ教室の部屋に入り、母親が先生に受講を辞める相談をしていってる最中に自分は、なぜか目から涙が流れてしまい止まらず、かなり気まずい雰囲気になってしまった。惨めや悔しさの涙だったと思う。
そもそもピアノ教室に通うようになった経緯は、「楽譜の読み方が知りたかった」とか「ピアノのドの鍵盤ってどこ?」というような素朴な疑問が動機で、それを母親に話したら適当なピアノ教室を勧められて、どういうピアノ教室か分からず吟味せずに何となくでピアノ教室を選んでしまっていた。
(ピアノ教室受講した後に知ったが、近所にも似たようなピアノ教室があったのに、なぜか近所から少し離れた町のそのピアノ教室が選ばれてしまって、親による送迎の負担が増えただけだった。まだ機会費用的に近所のピアノ教室の方が良かったのになんで?と思う。)
今思うと「インターネットで楽譜の読み方を知る」というのが「顧客が本当に必要だったもの」だったように思えた。(当時、親はIT関連に疎くPC購入やネット開通もかなり消極的だった。)
実は「ドラムがやりたかった」「まだピアノよりドラムの方がまだ才能が伸びていたのではないか?」という懐疑がある。
あとは「もしピアノ教室の先生がゲーム音楽や電子音楽に興味があったらまだ変わっていたのではないか?」と思う。もし当時の小学生時代にKraftwerkとかYMOとか勧められて知っていたら多分今より音楽の知識が身に付いていたと思う。(YMOが自分に刺さったきっかけは中2の頃に見たYouTubeのMV動画だったと思う。ちなみにJ-POPとか邦楽の流行歌には興味がない。)
(ちなみに器楽クラブの顧問も女性の教師で、たまたま「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を教師が偶然に持っていただけで、ゲーム音楽や電子音楽には興味無いようだった。)
当時から言語化できないような無自覚的なフラストレーションや水面下な問題が溜まってたばかりで、今でも地続きで機会損失が大きくなってると思うと、今は後悔でしかない。黒歴史。
小4の時に小学校のクラブ活動で、グループに分かれて合奏をするような器楽クラブに入ったが、自分だけが落ちこぼれでクラブは女子しかいなくて女子と打ち解けれないし助けを求められず割と浮いてて孤独で、上級生だけでなく同学年の女子も普通に楽譜通りスラスラ楽器が弾ける人ばかりだった。
自分はピアノを習っていて楽譜が読めていたと思っていたはずが、弾きながらも楽譜が読めない・まず大体を暗譜しないと読めない状況で(オーケストラ用の楽譜で見慣れない程に楽譜も小さくどこのパートの楽譜か迷子になったり、ヘ音記号の楽譜なのにト音記号の楽譜であると思い違いして読み間違えにしばらく気付かなかったり)、
その弱点に気付かず能力の無さに内心焦りながら、自分の雰囲気だけは皆と演奏してやってるという感じを醸したクラブ活動をしていて、クラブ活動も尻込みになった。
学校でそういうさり気ない悩みがあっても、器楽クラブに入ってる事をピアノ教室の先生に言えてない、親も自分が器楽クラブに入ってる事を知っていないと思う。
(ちなみに小5からは科学部(科学クラブ)に入った。ほぼ遊びみたいで楽しかった。小6になって別のクラブに入ったけど。あと、その頃に受講を始めたパソコン教室は最終的には円満的に通い切った。) (中学生時代の部活はほぼ3年間は帰宅部。器楽クラブの影響で、地味に部活動というのがトラウマや無力感になってると思う。)
「才能が無い自分のせい」と言われればそれまでだが、マッチング的に「自分の嗜好や動機などを理解されず能力のようなものを引き出せられなかった周囲も残念な環境だったのでは」と思う。巡り合わせの問題とか。
自分は歳を重ねるに連れて自分が好きだった音楽を耳にする度に「絶対音感の能力があれば…」ぐらいの無念さ劣等感が大きくなってくる。「絶対音感があれば、好きな音楽の耳コピとか分析が高精度で確実にできて、人生が変わっていただろうな」と。好きなはずなのに馬の耳に念仏で溜息しか出ない。山月記みたいになりそう。
自分は本当に音楽が好きなんだろうか…。単純接触効果的な大きな勘違いでなければいいが…。
余談だが、音ゲーについての自分の腕前は、家庭用IIDX HAPPY SKYの段位認定10段をアナコンでクリアしたのが限界で、高1がピークだったと思う。高2の頃からほとんど音ゲーには触ってない。自分は音ゲーやゲームも才能が無いと強く気付き始めていったのはその頃だった。
自分は音ゲーの楽曲についての話をピアノ教室やクラブ活動などでも話す機会は一切無く、幼小から自分が好きだった音楽は誰にも繋がらず糧にもならなかったのであった。
かけ算の順序史上最も重要なエントリ10選の続編として、学術文献・出版物を選んでみました。
主な対象は、小学校5年の「小数のかけ算」です。ただし「乗数、被乗数の順」が、参考文献で言及されています。アレイや直積、アメリカと日本との違いも、見ることができます。参考文献に書かれた「乗数を operator としてみる」は、最近の教科書にも「×10」といった形で取り入れられています。
読み手の評価は「こんな教え方ではよくない」「児童の特性に配慮した指導事例だ」に分かれているように思います。「学習支援教室」は「特別支援教育」ではない点にも注意が必要です。
1つの調査問題(4つの式にそれぞれ○か×を付ける)に、「たし算の順序」と「かけ算の順序」が入っています。
平成20年告示の学習指導要領に基づく内容ですが、小学校2年のかけ算の単元で、何を重視しているか、教科書ではどのように出題して学びを促すかについては、現行(平成29年告示)の学習指導要領や、令和2年度・令和6年度使用の教科書においても、大きな変化は見られませんので、現在においても参考にしてよいものと考え、取り上げました。
82ページの「第2学年や第3学年では,読み取った数を,「1つ分の数×いくつ分=全体の数」と表現できることが重要であり,逆に,この立式ができているかで,数の読み取りができているかを判断できる。」が真髄と言っていいでしょう。2011年の初版や、異なる著者による2018年の書籍にも、同じ趣旨の文が含まれています。
提言の中に「乗数や除数が整数から小数や分数になったとき、演算の意味が拡張し統合されることをより一層強調すべきである。」という文があり、翌年(平成29年告示)の小学校学習指導要領の算数に、「乗法及び除法の意味に着目し、乗数や除数が小数である場合まで数の範囲を広げて乗法及び除法の意味を捉え直すとともに、それらの計算の仕方を考えたり、それらを日常生活に生かしたりすること。」として反映されています。
学術会議で「かけ算には順序がない」を提言すれば、後の学習指導要領改訂の際にも反映される可能性がある、と考えることもできます。
高校までで学習する数の演算は、「環」や「体」で考えることもできますが、この文献では「Z-加群」を使用しています。担任教師とのやりとりに、Z-加群のほか、「私の子供は帰国子女だからごく自然に3×2と考えたのだと思う」が含まれています。
海外の乗法・除法研究(「かけ算の順序」に関する研究ではなく)を手早く知るのにおすすめです。
「かけ算の順序論争」における古典と言っていいでしょう。
2010年からのネットにおける「かけ算の順序」について、ひと区切りを付ける形になったものです。2017年6月に、同年告示された学習指導要領に基づく「小学校学習指導要領解説算数編」のPDFファイルが文部科学省サイトでダウンロードできるようになるまで、ネットの論争は下火となった(とはいえ、2015年には「足し算の順序論争」が発生したのですが)ように感じます。
「かけ算の順序史上最も重要な論文10選」にはしませんでした。査読付論文だけでなく、書籍やその一部、査読を経ていない文書からも選びました。
「かけ算の順序史上最も重要なエントリ10選」でリンクした「かけ算には順序があるのか」「日常生活の中で計算が活用できる子供の育成を目指した学習指導の一試み」、それと海外文献は、今回、対象外としています。
よく引用されていることや、入手が容易であることは、選定の際に考慮しましたが必須の要素ではありません。「かけ算の順序」について直接主張していない文献も、取り入れています。
X(旧ツイッター)で、「掛け順」などとして2024年11月現在も活発に議論されている「かけ算の順序」について、重要と思われるコンテンツを選んでみました。
歴史的に重要であること、現在も閲覧できることを基準にしました。公開当初からURLが変わっているものは、現在の参照先にしています。
それぞれに解説を書く才能はなく、省略しています。いくつかに補足をつけています。
初出URLはhttpsではなくhttpでした。はてなブックマーク(b:id:entry:28308384)のコメントと合わせてお読みください。
作成は2002年です(宮城県教育研修センター 平成13年度 長期研修員(B・C・D)研究報告書)。2011年末に、(Wikipediaでない)Wikiで取り上げられたと記憶します。よく参照されるのは「表4 計算の意味の理解」です。
提供:
埼玉県内で有数の進学校である女子中高一貫校の淑徳与野中学・高等学校。同校では18年度から電子黒板を導入するとともに、一部クラスで一人一台端末の授業での活用に乗り出すなど、ICT教育を積極的に推進してきました。そして2020年に新型コロナウイルス感染症拡大により登校自粛が迫られたことを踏まえ、同校はICT教育のあり方を再検討。学内利用だけでなく、質の高いオンライン授業も実施可能とするために、2021年度からSurface Go 2のLTE Advancedモデルを導入、Microsoft 365と組み合わせてクラス別の教材管理と授業の仕組みを整備し、運用を開始しています。ICT教育を進化させて授業の幅を広げ、生徒一人ひとりに最適化された学びを実現するための取り組みが続けられています。
1892年、淑徳(深い知性と情緒に富んだ人間性)を備えた自立した女性の養成を目指して設立された淑徳女学校は、仏教の精神を背骨として幼稚園から大学までを擁する総合学園に発展してきました。その中にあって、1946年に開校された与野分校を前身とする中高一貫教育の女子校が、埼玉県・さいたま市の淑徳与野中学・高等学校です。海外の姉妹校などへの短期語学研修などを通じて、国際舞台で活躍できる人材の育成に力を入れる同校は、インターハイ常連の剣道部や、バレーボール部、バトン部、吹奏楽部など、文武両道の学校としても知られています。
そんな同校は、「コンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段を活用するために必要な環境を整え、これらを適切に活用した学習活動の充実を図る」との国の方針が示される中、その対応をいち早く推進してきました。2018年度には動画などを利用した分かりやすい授業のための電子黒板を導入するともに、一部クラスで試験的に一人一台のタブレット端末を導入。そして2021年度入学の中学1年生・高校1年生からは、全生徒を対象にした2-in-1デバイスのSurface Go 2(LTE Advancedモデル)とMicrosoft 365の活用を前提とする授業にも乗り出しています。
学校教育は今、大きな転換期を迎えています。新学習指導領により、生徒の思考力や判断力の養成がより強く求められることとなり、教育現場では従来の講義中心の学びから、主体的な学習へ生徒をどういざなうかが課題となっています。ICT活用は、そこで鍵を握る策の1つに位置付けられます。淑徳与野中学校 学年主任 英語科教諭の山﨑貴志氏は、「ICTを使えば、講義型の"覚える"学習から"考える"学習につなげられます。また、視覚・聴覚に訴えるデジタル教材は、生徒の自発的な学習を促す効果も期待できます」とICT教育の可能性を生徒・保護者に説明しています。
もっとも、淑徳与野中学・高等学校がMicrosoft 365を導入したのは、今から3年ほど前にさかのぼります。
淑徳与野中学・高等学校で進路指導部長を務める小嶋恵子氏は、「学内では各種分科会などで大量の校務文書が作成され、それは授業用の各種資料や保護者向け文書でも同様で、だれもが消化不良を起こしていました。そこで情報を精選し、管理を効率化し、さらにペーパーレス化によってコストを削減するためにも、Microsoft 365による文書管理・教材管理に乗り出しました」(小嶋氏)
そこでの文書管理の扱いやすさの体験が、タブレット端末を組み合わせた生徒向け教材提供のアイデアにつながります。以来、同校ではデジタル教材の拡充を推進。ただし、そうした中で直面したのが、2020年に入って拡大した新型コロナウイルス感染症です。
「緊急事態宣言を受けての登校制限により、当校は多様な対応に迫られました。生徒が在宅で学習を進めるための授業動画配信や教材準備はもちろん、自宅での規則正しい生活のために、Teamsを活用したホームルームの仕組みも整備しました。特に後者は、生徒が友人と会えない不安を防ぐとともに、学習状況に対する保護者の不安を解消するためにも重要な活動と位置付けられました」(小嶋氏)
その後、登校は再開されましたが、新型コロナの収束の見込みが明確には立たない状況にありました。この状況を鑑み、2020 年秋に固まった方針が、再度の登校制限に見舞われた場合でも、子どもたちの学びを止めないために生徒全員に一人一台Surfaceを持たせ、同時にTeamsなどを活用したオンライン授業の仕組みを整備するというものでした。具体的にはTeamsの「チャネル機能」を用いて、クラス別の動画配信と文書管理の仕組みを作るとともに、2021年度入学生から全員にSurfaceを所有してもらう決断を下したのだと言います。
「Teamsがあればクラスごとにいくつもの教材を管理でき、同時にSurfaceのカメラを通して生徒の顔を見ながら配信授業も行えます。対面授業の場合でもデジタル教材による、従来より深い理解を可能にする授業が行えます。さらに、Teamsによる課題配信を活用すると、生徒一人ひとりの習熟度に応じた自立学習も促進できます」(小嶋氏)
"ネットワーク障害"と"相性問題"への備えとしてSurface Go 2 LTEモデルを選択
淑徳与野中学・高等学校が生徒用端末に採用したのが、Surface Go 2の「LTE Advanced」モデルです。タブレットとしても利用できる汎用性の高さと、持ち運びで負担にならない800gを切る軽さ、そして高い処理能力が特徴です。今回、Surface Go 2のLTE Advancedモデルを選定した狙いは、授業での確実な活用だと言います。
同校ではICT活用に着手して以来、校内ネットワークの整備を推し進め、 2021年度の開始時には無線LANのカバーエリアも全教室にまで拡大していました。とはいえ、全生徒のPC利用による通信量の急増により、従来では考えられなかったネットワーク障害も危惧されました。
また、2年前から一部クラスで試験的に利用してきた他社OS製のタブレット端末では、OSとアプリケーションの操作性の違いからか、Microsoft 365のOfficeアプリなどが使いづらいと感じることが間々あったと言います。
こうした2つの課題を解決するために導入したのが、Surface Go 2 LTE Advancedモデルです。淑徳与野高等学校 進路指導主任の粕谷俊介氏は、「無線LAN頼りでは、ネットワーク障害時に端末が使えなくなり、授業に影響が出てしまいます。しかしLTEモデルであればモバイル回線をバックアップとして使うことで授業を進められます」と話します。
また、今回の生徒端末導入を支援したKDDIまとめてオフィス株式会社 北関東支社 法人営業2部 営業2グループの八島圭氏は、「相性問題は、OSとアプリケーション、ハードウェアが絡む厄介な問題です。Surface Go 2はWindows OS、Microsoft 365と同じマイクロソフト製ですから、相性問題への懸念を払拭するには、この組み合わせに勝るものはありません」と強調します。
今回、モバイル回線は無線LANに障害が発生したときのバックアップという位置づけですが、いざモバイル回線に切り替えたときに通信が不安定では困ります。その点について八島氏は「学校などへのLTE端末の導入時にはユーザーが一気に増えます。そこで当社では、机上での調査を行うとともに現地を確認して、通信品質の対策を行うなど、確実につながる環境づくりに力を入れています」と、通信品質の維持・向上への取り組みを説明します。
機種選定に関しては、教員の間でも様々な意見が出たと言います。その中にあって他OSのタブレットではなく、Windows搭載の2-in-1デバイスを選んだ理由について山﨑氏は、「スマートフォンやタブレットは急速に普及しましたが、社会に出て仕事で使うとなるとWindows PCがほとんど。早い時期からWindowsに慣れておくことはメリットになることはあっても、決してデメリットにはなりません」と語ります。
そして、軽量化やコスト的な制約からキーボードが犠牲になりがちな2-in-1デバイスにあって、Surface Go 2には標準的な配列で、タッチ感の良好なキーボードが用意されていることも高く評価されました。
「生徒の卒業後を見据えたICT教育という考えもありました。午後の授業前の10 分間、英単語力の向上を目的にクイズ形式のタイピング練習を行っていますが、これにはタブレットやスマホでは経験できないキーボード操作に慣れ親しんでもらうという意味もあります。本校の探求学習では4000字以上の小論文を書くこともあります。長文をストレスなく入力するうえで、キーボードの品質は重要だと考えました」(山﨑氏)
最終的に導入したのは、最上位のSurface Go 2 LTE Advancedモデル(Core m3/メモリ8GB/SSD128GB)。ハイスペック・モデルにしたのは、デバイスのパフォーマンスが使える教材や授業内容の制約にならないようにするためだと言います。
TeamsとSurfaceを教科の特性に合わせて多面的に活用
2021年度の授業開始から約3か月を経て、Microsoft 365とSurface Go 2による授業は着実に軌道に乗っています。例えば数学の授業では、Teamsで共有したテストの答案を生徒端末や電子黒板に表示しながら間違えやすいポイントを解説する、デジタル教材を使って視覚に訴えて理解を促す、といった取り組みが行われています。
「数学では図形を頭でイメージすることが苦手な生徒も少なくありません。しかし、デジタル教材であれば、立体図形を3次元で動かし、断面図がどうなるかまで分かりやすく示せます。同様に二次関数の各係数を変えることでグラフがどう変化するのかなども理解しやすくなります」(粕谷氏)
総合活動の時間における、生徒間の意見共有も格段に容易になり、深い議論につながっていると言います。映像の活用も始まりつつあり、授業映像に生徒同士でコメントを付け合うといった取り組みも試行中です。生活指導の一環として、従来、紙ベースで行ってきた生徒のスケジュール管理やPDCAもTeams上に移行。手作業による回収や配布の手間も一掃されました。
PCは汎用性が高く、学習以外にも幅広く利用できます。その点を考慮し、淑徳与野中学・高等学校ではホワイトリスト型でのアクセス制限を実施していますが、それも最低限にとどめていると言います。
「動画サイトに入り浸ることがないよう制限をかけていますが、学習目的であれば柔軟にアクセス可能なサイトを追加しています。ルールを破ると制限が厳しくなることを認識してもらいつつ、生徒の自主性を尊重して使ってもらおうというのが現在の方針です」(小嶋
氏)
淑徳与野中学・高等学校では授業でのPC活用の高度化に向け、すでに運用改善を視野に入れています。今後は生徒にアンケートを実施したうえで、教員同士の話し合いを通じ、さらに新たな活用方針を固める計画です。
そこで温めているアイデアの1つが、生徒の思考を発表につなげるためのMicrosoft 365の活用です。考えを自身の内にとどめていては、それ以上の発展にはつながりません。ICTを活用すれば、生徒の表現活動を格段に増やすことができます。
「論文作成ではWordを、情報の授業ではExcelをと、すでにMicrosoft 365を授業で活用していますが、中でも総合学習におけるPowerPointを使った授業は、どう表現すれば分かりやすく伝えられるかを試行錯誤することで、思考を整理する効果も期待しています。さらにTeamsを活用すれば、グループワークやグループ内発表も容易です。授業ごとに生徒からフィードバックをもらうことも簡単にできます」(小嶋氏)
このほか、部活動の試合をSurface Go 2で撮影し、動画を共有して振り返りに活用するなど、授業以外でも自主的に活用する生徒の姿が見られると言います。
無線LAN環境がなくてもネットワークを使えるLTEモデルの採用は、野外授業でフィールドワーク中に気になったことをその場で調べたり、課外活動で生徒の自主的な活用を促進したりするうえで必ずやプラスに働くことでしょう。
導入・運用からわずか3か月。Surface Go 2は淑徳与野中学・高等学校でのICT教育と生徒の学園生活に欠かせない存在になっていると言えるでしょう。
一国の最高指導者の思想を、子供たちが必修科目として学ぶ。中国共産党はいま、習近平(シーチンピン)総書記(国家主席)の権威をかつてないほど高め、改革開放から次の時代に進む大きな「変革」を進めている。
今回は習氏の思想だけが1冊の教科書として作られ、小学校から大学までの必修科目となった。中国政府が発表した学習指導ガイドラインは「民族復興の大任を担う後継者育成のため、学生の頭脳を習氏の思想で武装しなければならない」と狙いを説明する。
小学生向けの教科書では、習氏を「習おじいさん」と呼び、親しみのあるリーダーとして描く。小学校では「習氏が全党全国人民の道案内人であることを知り、党の指導を堅持してこそ偉大な復興が実現できることを学ぶ」(ガイドライン)という。
写真: 小学校低学年向け「習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想学生読本」の一コマ。「習おじいさんは忙しい中、私たちの活動に参加して成長を見守っている」とある
小学校教科書に登場する「習おじいさん」 中国で進むある「変革」:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASPB36T5MP9WUHBI01L.html?iref=comtop_7_01
小さい頃から性差別を助長する〜、とかいうけれど、実際LGBT先進国とか言われてるアメリカとかフィンランドでさえ、実際に学習指導内容にLGBTが入ってくるのが中学くらいのカリキュラムらしいし、それ以前に触れる漫画雑誌で、多くのマジョリティが対象となるベースで結婚ごっこに触れるような機会を漫画雑誌から与えられることになんの不都合があるのかイマイチ理解できない。婚姻届の付録がナンセンスであることは認めるけど、そんなに目くじら立てて大騒ぎすることなのかなーって思っちゃう。
Twitter見てても、感情ベースの意見ばっかでいまひとつしっくり来る意見が見当たらなかったのが残念。ここで納得できる「少女漫画の付録に婚姻届がついてはいけない理由」に出会えたらいいな。
変えればいい。
コロナウイルスによる臨時休校の影響で、期末考査が実施できない学校がたくさんあり、「3学期の成績はどうやってつけるんだ!」みたいな話が出ている。
しかし、教育関係者以外にはあまり知られていないけれど、成績をつける上で定期考査の実施は必須ではない。例えば、千代田区のとある中学校では廃止されている。
だから、定期考査の代替で課題を出し、その出来で成績をつけることは十分可能である。
そして、その中学校で定期考査の代わりに導入されているのは、小学校と同様の単元毎の小テスト、すなわち「単元テスト」である。
私も、中学校以降でも定期考査を廃止して「単元テスト」を実施した方が良いと思っている。その理由は3つある。
1つ目は、こまめにテストを実施することで、生徒側の理解が深まることである。
定期考査は実施回数が少ない分、1回の出題範囲が広い。しかし、「単元テスト」に変更すれば、生徒が出題範囲が広くてヤマを張るみたいなことは少なくなる。
しかも、単元毎につまづきをフォローできるようになり、理解できない点が多すぎて生徒が授業についていけなくなるということも、今よりは防げるだろう。
そして、この点こそ、「単元テスト」がまさに今回の臨時休校のような事態にうってつけだと言える。
期末考査でなく、「単元テスト」としてこまめに評価を行っていれば、3月に期末考査ができないから成績の材料が無いなどと慌てる必要は無かったのだ。
「単元テスト」を実施していたなら、実施できた単元までで成績をつけて、残りの評価は次学年に回すという対応が取れたはずなのだ。
小学校までの「単元テスト」とは違い、定期考査が各学校の手作りで作成されているのは、学校によって授業の進み方が違うため、出題範囲が異なるからである。
出題範囲が単元毎として正規化されるなら、テスト問題は教科書会社が教科書に合わせて単元毎に作り、教材として売ればいい。それにより教員の手間が省け、学習指導に集中できる。
(ついでに、N高やオンライン学習塾のように授業自体も映像化するか、先に挙げた中学校のようにグループ学習化してしまえば、
教師は授業する必要がなくなり、個別指導に集中できるので、さらに効率化できる上に、個々の学生のフォローができて良いと思うが、これはまた別な話。)
3つ目は、「単元テスト」は単元終了ごとに実施するので、全教科共通の考査期間が無くなることである。
生徒側も、考査期間1週間前だけ勉強して他の期間はずっと遊ぶみたいなことがなくなり、常に学習する習慣が身に付く。
考査期間なのでこのあたりは1週間ほど授業も行事もできない、というのも無くなるので、スクールカレンダーにも柔軟性が生まれる。
ちなみに、「単元テスト」には、先に単元が終わったクラスは、後から単元が終わったクラスより不利になる(後から終わったクラスの生徒は、先に終わったクラスの生徒から問題内容を聞くことができる)という問題点があるが、
これについては、問題用紙を複数パターン用意するか(作成の手間は先ほどの通り、教科書会社に任せればいい)、テストに繰返し受験を認めて、納得行く成績が出るまで何回でも解かせるようにすれば解決する。
個人的には後者が良いと思う。学校内のテストは入試と違い、一発勝負で優劣を評価するものではなく、学習内容の定着のために行う授業の一環なのだから、別に繰り返し受けたっていいはずだ。
それに、今の通信簿は、昔と違って相対評価でなく絶対評価なのである。リトライによって全員「5」になったって、規則的には別に構いはしない。
http://anond.hatelabo.jp/20170401111105
事実誤認があるが、変な方向の反応が多いのは同意。それが朝日のせいだと俺は思わないけど。
簡潔に言えば今回の改訂で空手など5項目も新たに明記されており、当初案で銃剣道の項目が無かったのを銃剣道連盟が「不公平だ(意訳)」と反発(武道協議会加盟団体の中での不公平?)
したせいかはわからないけど、銃剣道も指導要項に明記されたって話。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/hotai.htm
・また、銃剣道連盟が「銃剣道を学習指導要項に明記して欲しい。」と要望書を出している
http://www.jukendo.info/wp-content/uploads/MX-4140FN_20170309_112723.pdf
よって増田の『「銃剣道」は9種目の一つなので、旧指導要領から存在し、新指導要領でも残った。』は間違い。明記されてるなら、明記するよう要望書なんか出さない
●もう少し細かい話
今まで武道に関して 柔道、剣道、相撲、と例外として「なぎなたなどの武道」
が記載されてた
http://www.jukendo.info/wp-content/uploads/MX-4140FN_20170309_112723.pdf
銃剣道連盟の要望書を信じるなら、他の武道8項目が明記されたのに銃剣道は明記されてなかった(と読める)
・発表された次期学習指導要項
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_3_1.pdf
『柔道,剣道,相撲,空手道,なぎなた,弓道, 合気道,少林寺拳法,銃剣道などを通して』
など5項目と一緒になって指導要項に明記された。と
経緯を見ると、当初案で忘れらていたようにも見える「銃剣道」に大きな力が働いていたにしても、働くのに時間差があってウケるw
て感じ。
私もどちらかというといじめられる側の人間だったけれど、今になってみるといじめられる側が逆に訴追される状況はむしろよく理解できる。
無料の初等教育なんて所詮集団行動をするかしないか程度しか教えられないんだから(指導要領だの読み書きだのなんてのは建前)
いじめなんてのはその指示に従わずに学校の意義を認めない人間に然るべき制裁を加えているだけ。
それなのに後からあれはいじめだとか人権がだの言ってイチャモンつけてくるんだからむしろ「いじめっ子」と教師のほうが被害者だと今になってみると割と本気で思う。
そもそも崩壊家庭の児童がザラにいる30人学級の教師なんていうのは絶望的な激務でまともな人間はならないってのはすぐに調べれば分かるのだし
(本来なら学習指導の教員と心理面や家庭環境面での指導の教員を分けるべきだろう)
いじめっ子のヤンキーや教師が「やつら」だから糾弾してもいいディープ・ポケットだ、みたいなことをすぐ言う言論は信用できない。
「やつら」だって半分ぐらいはどうせ成人してから所得格差や地方の格差にやられるのだ。
繰り返すけど無料の小学校如きに集団行動以上の自閉傾向児への対処なんてのは仕様に最初から入ってない。ましてや学力や文章力なんてねえ。無理だよ。
先進国だって碌に文章が書けず四則演算が出来ない成人がざらにいる、ってのも今は調べればすぐにわかることだ。
現実的な対策としては反撃して肉体性を示すことで「やつら」に入れるならそうすればいいけど、多分そうはならないだろうというのが今回の事件なので
親に金があるならきちんと金を払って追加の教育サービスを購入する(私立に行かせる)べきだし、
まあ多くの自閉傾向児とその家庭にはそんなことは無理なんだろうけど、だったら素直に家に引きこもっていればいいと思う。
なんでこんなにも叩かれているのか不思議だった。
見る前に、このドラマって施設批判ではなく、毒親批判やヤリチン・ヤリマン批判では?
と思って見てみたら、案の定、糞親やヤリチン・ヤリマン批判のドラマだった。
この意見について返ってくるのは
「病院を特定するようなアダ名はマズイ」「子供のイジメに繋がる」「実際の児童養護施設はあんなではない」
なんて意見ばかり。
これも不自然。赤ちゃんポストの是非については、劇中では良いとも悪いとも言及されていない。
「ポスト?」
触れられているのはこれだけだ。
「実際の児童養護施設はあんなんじゃない」という批判だが、
施設内の雰囲気は、子供は捨てられたということでそれなりにやさぐれているが、子供同士ではそこそこ和気藹々としていて、
施設長は、これから孤児が生きているための心構えを相当にキツイ言葉で諭す。
この態度や考え方は、極端で厳しすぎるが、ドラマや漫画に慣れ親しんだ人なら、こいつがツンデレだということはすぐ解る。
あんな妖怪人間ベムみたいな悪人ヅラの手厳しい奴が、ガチ悪人なものか。
その気づきを補強するかのように、子供たちは施設長に恨み言の類は言っていない。
一話の最後で、帰宅が遅い子供たちを叱った施設長に対し、子供たちはテヘペロる。
個人的には件のポストの病院の取り組みや思想には懐疑的だが、「『ポスト』が病院関係者に対して失礼だろ」という批判があるのは解からんでもない。
だが、
第1話の『ドンキ』のエピソードは「シングルマザーに彼氏が出来て前夫の子供なんて邪魔!」という幼児虐待でよくあるパターンを、
第2話の『パチ』のエピソードは親がパチンコ中毒で子供が熱中症になって、というこれまたよく見るパターンをシナリオに落としこんでいる。
どちらもネットニュースではよく見る事件のはず。
あれ? このドラマって意欲作じゃね?
こういうふうに思っていたら、今朝にあってネットをふらふらしててこんなことを知った。
http://gladiolus2009.wordpress.com/
・「養育里親」には、里子1人につき年間200万円以上の「養育費・里親手当」が支給されます。
・ 「専門里親」になると(養育里親としての経験が一定以上あれば、無試験・無資格でなれる)支給額は約300万円に増額されます。
手厚い手当が(委託時の支度費、進学費、教材費、クラブ活動費、塾費用、暖房費、学習指導費、夏季特別行事費、
期末一時扶助費、タクシー代など通院交通費etc)支給されます。
・ 上の手当は、国から支給される「最低限」の額で、その他に、自治体などから各種手当が支給されます。
昨年度と今年度は「こども安心基金」から、里親宅の住宅リフォーム費、パソコンやベッドなどの購入費などが支給されてます。
・これらの手当は、実際の使用用途に関わらず、すべての里親に一律支給されるので、実際に里子のために使った金額との差額を着服する目的で、
・もちろん、これらの「里子のための手当」とは別に、里親には報酬が支払われています(養育里親の場合、里子1人で7万2千円~10万7千円/月。地域によって差があり)。
それにも関わらず、里子のために支給される手当を里子に使わず、私腹を肥やす里親が多いのです。
・里子の養育は公費でまかなわれ、里親は公費から報酬を受け取っています。里子の養育に、里親が私費を拠出することは、ほとんどありません。
これは、養育里親(養育家庭)に委託された経験のある4人の元・要保護児童(里子)たちが執筆・投稿しているブログからの引用だから
金額は盛ってあるのかもしれない。
だが、里親になると、里親手当という少なくない額を貰えるのはまちがいない。
どうだろう?
このドラマの不自然なまでの批判の正体が見えてこないだろうか?
このことに触れられてはマズイって人間がいるのだ。
だからそうじゃなくて、
基本的には数字の出てきた順に書くのが一般的。まあ、個別に順序のルールが定着しているものはあるけど、小学生に教えるならまずはこの一般的な順序からでしょ。
長いものに巻かれることの是非とか以前で、キミは多数派に与する事自体が出来ていないんだよ。
「掛け算には順序があるよ派」が論拠としているのは学習指導要綱に出てくる「掛ける数」「掛けられる数」についての言及で、その解釈として「かけ算の式は『一つ分の数=掛けられる数』×『いくつ分=掛ける数』の順に書く約束になっている」が成立するというのが主な主張。
「順序はないよ派」は交換法則の成立を論拠に、順番を固定化することの正当性はないというのが主な主張。
どっちにしても「出てきた順に掛け算するのが正しい」というやり方は擁していない。
「順序があるよ派=学習指導要綱の解釈に則り掛ける数と掛けられる数の順番を重視して指導するよ派」と
「順序は無いよ派=順不同、不正解にはしないよ派」のどちらかがあって、
たぶん集計すればどっちが多数派=コモンセンスということになるかは判明するだろうけど、
どちらにしても「出てきた順番に掛けなければならない」と指導しているところは無い。
http://d.hatena.ne.jp/IshidaTsuyoshi/20131108/1383913078
前々からこの手の話題で違和感を覚えていたのだけど、元記事を読んでいくつか違和感の正体がComeUpしたので書き留めておきたい。
"はじめて覚える事"でひん曲がった算数/数学ルールを覚えさせるというのが筋が悪い。
小学2年生で間違いをもらった立式が、可換則を習うと間違いでなくなるという正誤感覚は気持ち悪い。
もうちょっと言うと、テスト用紙に「説明文にそった式を立てること。」といった表現があれば、これを見た大人の意見はずいぶん違うと思う。
「学習指導要領に書いてある」というのが本質的な理由にあたらない。
教師の立場、文部科学省のトップダウン指導は絶対であるというのは、大人なら理解に難くないのだけど。
「こうしないとわからない子供がいる」というのは教える側の理由で、算数の世界で「×」にする理由にならない。
そもそもどうしてこういう学習指導要領になったのかが知りたい。この論理的な説明が知りたい。
2に関係するのだけど、数学の世界での理由が挙げられていない為に(そもそもないのだが)、今後の指導要領変更で「やっぱりやめました!」的なことが起こりかねない。
過去にあった、円周率を約3とした悪しき学習指導の反省がなされていないのではないかと思った。
ものを覚えたり習う時は、
のが正則だと思ってたので、正則ではないという違和感が正体だった。
(以上、個人の感想でした)