はてなキーワード: 吉田ドクトリンとは
まあ戦争なんて侵略するかされるかなんだから、単純にそのうちの半分を止められるってのはデカいよな。
あと一般に戦争の口実として「隣国が攻めてきそうだから対抗しよ」とか「向こうが攻撃してきたから応戦しただけ」みたいなんけっこうあるけど、日本に限ってはそういうときに絶対的に大義名分を取れる。
「憲法で禁止されてるのになんで攻撃できると思ってるんですか?」って話だ。
9条なかったら湾岸戦争だのイラク戦争だのアフガン紛争だのに絶対参戦してたよな。
まさに実際に「戦争を止めた」っていう実績になってる。
しかもアメリカなんかはそういうことやってるせいで全世界で嫌われてるわけで、その悪評に日本が巻き込まれるのを防いでもいる。
アフガンで亡くなった日本人医師も「自衛隊を派遣しないことで日本人は信用を得ていた」って言ってたし。
「うちは戦争をしない平和国家ですよ」っていうアピールをしとけば、もし侵略されても今のウクライナの比じゃないくらい支援をもらえると思うよ。
いわゆる吉田ドクトリンというやつだけど、昨今の軍拡増税に参ってる人はその効能がよくわかるんじゃないか。
それに日本の国際的な価値って、腐っても世界第三位の経済大国だというところにあるじゃん。
日本が侵略されたりしたら世界経済に大打撃だし、中国なんかに対してもそれが抑止力になってる面は大きいと思う。
逆に、ちょっと防衛費を増額したくらいで何の抑止力になるんだ?って思うんだよな。挑発の効果のほうが大きそう。
憲法9条って聞くと反射的に「お花畑」「理想だけ」「何の役にも立たない」って言う人が多いけど、少なくとも上記のような効果はあるよな。そこらへんどう思ってるんだろ。
■序文
本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である。
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。