ソ連の崩壊、そしてコロナ禍やウクライナ戦争が露呈させたグローバル経済の脆弱性。私たちのかつて信じた「理想」は疲弊し、その有効性は厳しく問い直されています。既存の政治が、この激変する時代に人々が抱く根源的な「不安」と真摯に向き合わないとき、その空白を埋める勢力が台頭するのは、ある意味で必然なのかもしれません。
かつて、政治は明確な「理想」を掲げ、それによって人々の未来への「期待」を喚起しました。しかし、その「理想」は時に教条化し、現実と乖離することで、全体主義という悲劇的結末を招いた歴史があります。この教訓は、現代の政治から「壮大な理想」を描く力を奪いました。
その結果、既存の政治勢力、例えば自民・公明などの保守派も、立憲・社民・共産などの左派も、人々が日々直面する多様な「不安」に対し、有効な対策や具体的なビジョンを示せないでいます。
こうした多岐にわたる不安に対し、既存の政治勢力は、紋切り型の「平等」や「対話」を繰り返すか、あるいは問題を直視せず抽象的な責任転嫁に終始しているように見えます。
そして、この「不安」は、時にリベラルの理想をも空虚なものに変えかねません。 例えば、既存リベラルの思想を共有するはずのフェミニストの一部が、女性の安全や尊厳という「不安」の解消を求めるあまり、表現の自由というリベラルの根幹にある理想を捨て、ポルノ排斥へと動く事例が見られます。これはいかに「現実の不安」が切迫すると、本来掲げるべき「理想」が容易に揺らぎ、具体的な排斥行動へと繋がりうるかを示しています。彼らは、変化に伴う人々の不安を「差別」や「時代錯誤」と断じ、議論のテーブルに乗せることさえ拒むかのような不寛容さを見せることも少なくありません。ここに、「不安」に寄り添い、共に解決しようとする姿勢の欠如があるのです。
このような政治の空白と、置き去りにされた人々の「不安」が、参政党のような勢力が伸張する最大の理由だと考えられます。彼らは、既存政治が避けがちな「不安」の核心に、ある種の「解答」を提示します。
参政党の主張は、しばしばデマや陰謀論と結びつけられ、その排他性や反知性主義的な側面は厳しく批判されるべきです。彼らの提示する「日本人ファースト」は、「内」と「外」を明確に区別し、異なるものを排除しようとする危険な側面を持っています。しかし、そのメッセージが、グローバル経済の荒波の中で「自分たちはないがしろにされている」と感じる人々の切実な不安に対し、シンプルで分かりやすい「敵」と「解決策」を提示していることもまた事実です。
彼らは、「グローバル化は悪」「既存の政治家は売国奴」といった単純な物語を語り、特定の敵を設定することで、漠然とした不安に「原因」と「矛先」を与えます。そして、「日本人ファースト」という強い共同体意識を呼び起こすスローガンが、居場所を失った人々に「帰属意識」と「連帯感」を与え、不安を解消する「希望」のように映るのかもしれません。
世界的にナショナリズム的動きが加速している現状は、日本だけの現象ではありません。既存の政治が「不安」に真摯に向き合わず、人々が求める「安心」を提供できない限り、参政党のような勢力は、その空白を埋め続けるでしょう。
今、求められているのは、夢想的な「理想主義」から脱却し、現実の厳しさ、そして人々の多様な「不安」を直視する「現実主義」です。そして、その上で、排他性を克服する新しい「友愛」の形を再構築することです。
「友愛」は、特定の共同体への排他的な忠誠を求めるものではなく、「自分を中心にゆるく繋がっていく世界」を意味します。それは、異なる背景を持つ人々が、互いの「不安」を理解し、対話と協力の中で、しなやかに共存していく道筋です。
参政党の伸張は、既存政治への強烈な警鐘です。それは、私たち一人ひとりが、表面的な批判に留まらず、社会の「不安」の根源に真摯に向き合い、現実的で、かつ人々が希望を見出せるような「解答」を、共に模索していくことを求めているのではないでしょうか。