増田における魅力の一つは、誰が書いたのかわからないまま、個人の切実な体験や心情がぽつりと語られることです。この「誰かの本音」に価値がある文化。しかしAIがそれっぽい文体や感情を模倣できるようになると、「これは本当に人間が書いたのか?」という疑念が生まれ、**語りの希少性**が失われます。
たとえば、
「子どもが泣いている。でも私も泣きたい。夫はもう何年も目を合わせない。」
のような文章が、人間の手によるものなのか、あるいは学習データから抽出されたAIの作文なのか、見分けがつかなくなる。それは「増田」という場所の信頼を揺るがせます。
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増田で人気のあるエントリには、ある種のテンプレートがあります。「静かな絶望」「断片的な過去」「気づかぬうちに壊れていた自分」など。それらがAIで再現可能になり、しかもそれが「いいね」やブクマを集めてしまうと、人間の書き手は次第に居心地を失っていく。
AIが「壊れかけの語り手」さえ演じるようになったとき、壊れた人はどこに行けばいいのか?
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AIによって「自分が書きそうなこと」や「自分が共感しそうなエントリ」がレコメンドされる時代には、「わざわざ自分で書く」という行為の意味が薄れてしまう可能性があります。
「自分の気持ちを吐き出す」ために増田があったのに、それさえもAIが先回りして代弁してくれるなら、人は書かなくなる。「ああ、そうそう、まさにこれ」だけで済んでしまう。つまり **表現が消費に最適化され、発露としての役割を失う**。
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最悪のシナリオとして、AIが人気エントリを自動生成し、まとめサイトやSNSでバズを生み、PVや広告収入がAIによって回収されるようになると、「人間が書く増田」はもはや運営にとって必要なくなるかもしれません。
結果として、「魂の抜けた、しかしそこそこ読める」AI増田ばかりが残る。まるで**生きてるけど生きてないゾンビのような増田**。