2024-12-13

中国人の「〜〜アル」の話

この件。

中国人キャラクターの「語尾アル」の元祖は誰なのか情報募集、最古は『のらくろ大事件』の中国人奇術師ほか部門ごとに発表へ - Togetter [トゥギャッター]

大まかな流れとしては、

1859年 横浜開港1868年 神戸開港

外国人居留地日本語英語中国語などが混じりあってピジン特に横浜ピジン)が生まれ

1868年 明治元年

明治日本横浜ピジンが「外国人」の役割語として広まる

1904年 日露戦争

1906年 満鉄設立

満洲日本人が流入して日中ピジンが生まれ

1932年 満洲建国

日中ピジンが整理されて「協和語」として用いられる

といった感じである

横浜ピジン日中ピジンの直接的な影響関係はわからないが、ピジン自然発生的なものなので、仮にまったく関係がなかったとしても、収斂進化で似たような形になりそうではある。

まずは最初ツイートへの一つの回答として、明治5年初演の歌舞伎『月宴升毬栗(散切りお富)』に登場する詹五九と亜松金という中国人を挙げておく。

ちなみに詹五九は実在人物で、身長が2m40cmくらいあり、矮人と一緒にヨーロッパへ渡って、見世物として話題になったという。

松金「あなた目ない、馬鹿馬鹿馬鹿

五九「此跡よろしい家あります、大さん美しい娘さんあります、皆々それ見るあります。」

松金「あなた踊りをどるよろしい。」

松金「私利口、あなた馬鹿馬鹿。」

五九「あなた踊るよろしい、私大さん見たい。」

これが横浜ピジン的な口調であるが、「見るあります」と敬語になっているだけで「〜〜アル」と変わりなく、「踊るよろしい」などの言い回しも「中国人が使うカタコトの日本語」のイメージそのままではないだろうか。

なお「大さん(たいさん)」というのは「たくさん」という意味で、

[ 2 ] 〘 副詞 〙 ( 「たいそう」と「たくさん」をまじえた語か ) たいへん。

[初出の実例]「あなた踊るよろしい、私大(タイ)さん見たい」(出典:歌舞伎・月宴升毬栗(散切お富)(1872)大切)

たいさんとは? 意味や使い方 - コトバンク

辞書にもこのように書かれているが、これも横浜ピジン一種である

こうした横浜ピジンが、明治期の小説では(中国人に限らず)外国人役割語として広まっていたようだ。

たとえば明治22年、奥村柾兮『花日和』。

日本娘、たいさん多淫あります日本、卿、此娘と肉交あります、ペケ……娘……小生、サランパン、するよろしい、卿、娘と、マロマロよろしい……ペケー……

これはイギリス人医師グラマン氏が、日本人の妾の浮気を疑って言った台詞である

「サランパン」は横浜ピジンで「壊れる」、ここでは「離縁」の意味

マロマロ」も横浜ピジンで「通りすぎる」とか「出ていく」というような意味らしい。

「ペケ」は今でも「バツ」の意味で使われているが、実はこれも語源横浜ピジンである

まり、この台詞は「日本の女はとても多淫だ、そこの日本人の男はこの女と不倫しているんだろう、だめだ、女よ、おまえとは離縁だ、二人で出ていけばいい」といった感じか。

明治35年、江見水蔭『大幻燈』。

「私、当麻同類ある、津の公園、彼処で別れたです。何かする目的当麻。津、市、留りました。私、一人、此方へ来たです。貴女の話、当麻から聴きました。貴女の人相、委しく聴いて、記憶して居りました。私カーテス、実名あります。私と一処に稼ぐよろしい。日本ドロボウ未だ未だ幼稚あります。私、計画大さん大きいあります。これから味方になりませんか」

これもイギリスからやってきた悪人・カーテスという人物台詞

最初の「同類ある」は「〜〜アル」の形式かと思うが、それ以降が敬語なので判断しづらい。

著者の江見水蔭は当時の売れっ子作家だが、この役割語としての横浜ピジンを多用していたようだ。

明治37年、江見水蔭『錨』では、

水夫長らしい支那人は、茫然として甲板の隅に立つ美代雄に向ひ、達者な日本語で。『水夫見習、のお前あるか』『然うです』と美代雄は答へた。『翌日から勉強するよろしい。朝起きると、便所、前、中、後、三箇所ある、便所掃除するよろしい』『えッ、便所掃除?』美代雄は憤然とした。『左様、掃除するよろしい。それ、済む、皆々、靴、磨くある』『えッ、靴を磨くんですか』『それから米飯食べろ食べろ皆々給使する、それある後食べろ食べろ器、洗ふ事あるよろしい』

と、これは完全に「〜〜アル」型の中国人とみなせるだろう。

いわゆる「英国紳士」的なキャラクターだと敬語で「〜〜あります」になるので、「〜〜アル」は水夫のような下っ端でないと出てこない、という事情はありそうだ。

江見水蔭小説ではさら明治43年『探検女王』でも、

『這個、幾多少』と日本人は拙い満州語で問掛けた。

『ソレ、十六円九十銭、安いあるよ』と是も拙い日本語で答へた。

『那個、很貴』

『安いあるよ。ホント安いあるよ』

と「〜〜アル」型の中国人が登場している。

明治43年は1910年なので満鉄設立以降であり、この場面も満洲にやってきた日本人が露天商から謎の箱を買うというところである

江見水蔭のなかでは「日露戦争以前の横浜ピジン的な外国人描写」と「日露戦争以降の日中ピジン的な中国人描写」は繋がっていたのではないか

「〜〜アル」型の中国人描写は他に、明治41年の遠藤柳雨『志士と佳人』。

困った人間あるね、日本婦人、何うして左様、銭儲け嫌あるかね、船長夫人なる、お金ザクザク貰へるあるよ、お前さん、お金、欲しくないあるか

といったものもあった。これも『錨』と同じく中国人の水夫の台詞である

というわけで、「〜〜あります」と「〜〜アル」を明確に区別しないのであれば明治5年の『月宴升毬栗』までは遡れるし、「〜〜アル」に限っても明治年間の作品確認できるので、『半七捕物帳』や宮沢賢治『山男の四月』よりも遡れるよ、という話でした。

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