という問いにどう答えるべきだろうか?
例えば、映画1回観るのを我慢してNGOに寄付したなら、アフリカの子供何人分に予防接種をすることができて病気で死んでいたかもしれない貧しい人々の命を救うことができることを自分は既に知っている。
映画に金を出すという選択をすることは、何人かの子供の命を危険に晒す選択をしたことと同じだ。
自分の映画を観る楽しみを子供の命よりも優先するというなら、少なくとも、私は人間の命を平等だと信じているとは言えないだろう。
突き詰めると、人間の平等を信じる者は、衣食住に最低限必要な支出を除いて、あらゆる娯楽を諦めて、全ての財産を貧者に与え続ける生き方をしなければならない。
実際に自分の財産と能力と時間、人生の全てを貧者の救済に捧げている聖人のような人もいる。「言行一致の平等主義者」と言える。この聖人には表題の問いはできない。
しかし、聖人ほどストイックではなく、いくらか寄付はしてるし、ボランティア活動もしているけど、貧者の救済に貢献しない娯楽にも金を使って私生活を楽しんでいる、その金を寄付すれば他人の命を救えることは理解しているにも関わらず、だけど僕は人間は平等だと信じてるよ、
と言う「妥協した平等主義者」は表題の問いにどう答えるべきだろうか?
「僕は人間の平等は信じていない。娯楽の楽しみを他人の命よりも優先する実際の行動がそれを示している」という結論は避けたいのだが……
世界人類全員が車いすになって失明すれば平等です
映画ネタですか?
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資本主義では「将来みこみのあること」により多く投資=投票することが善だから。
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