(理論編)「上からの党建設」 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」

 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。


 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)

 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。


 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -


 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


(理論編)「共産主義化」 - 死をも恐れぬ革命戦士となること -

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕-自供-逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党-世界赤軍-世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党-軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装-暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党-蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取-味方の武装-敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」-実は蜂起の軍隊建設-を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判-自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士-連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)