あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「表現の自由」を真に守る政策とは

参院選については前回の記事で言及を終える予定だったんですが、どうしてもモヤモヤして仕方ないので。


自民党の赤松健の以下のツイートが、インターネット上で賛否両論を巻き起こしています。



b.hatena.ne.jp

まーなんていうか、昨今の保守系「表現の自由」系の人は本当に見当違いの場所で見当違いの敵と戦ってるドン・キホーテなのだなぁと痛感します*1。


ただ、こういう見当違いの議論を集める理由の一つに、昨今の「表現の自由」をめぐる環境の変化に、旧来の「公権力による規制からの自由」を重視してきた議論が追いついてきていないというのもあったりするわけです。追いついていないと言っても、学問の世界では20年以上前から結構論じられてきた議論なんで、
amzn.to
政治家だったらこのレベルの議論はしてほしいと思う訳ですが。


というわけで、今回の記事では簡単に、今「表現の自由」についてどんな議論がなされているのか、「表現の自由」を真に守る政策では、どのようなことが考えられるべきなのかを述べたいと思います。記事の論旨としては以下の通りです。

  • 今までは「公権力による規制」こそが、表現の自由を脅かす問題だった
    • 旧来のリベラル系の「表現の自由」を守ろうとしてきた人は、ここを重視してきた
  • しかし近年は「社会的圧力による取り下げ」という形で、公権力ではない力による、表現の自由の抑圧があるのではないかと言われている
    • 赤松氏などが「表現の自由」への圧力であると主張しているのはここ
  • だが、上記のような粗雑な議論では「表現規制」と「批判・反論」の違いが区別できない
    • だから、「行き過ぎたジェンダー論」こそが表現の自由を脅かすなんていう、見当違いの話になってしまう(行き過ぎたジェンダー論というものが仮にあったとしても、それが「論」であるならば、「批判・反論」のうちであり、「表現への規制」とはいえない)
  • 問題なのは、「批判・反論」を即「表現の撤回・削除」に結びつけてしまう、メディアやプラットフォーマーの存在
    • 「批判・反論」の中身には、「行き過ぎたジェンダー論」でも「宗教」でも「青少年への悪影響」でも何でも入る(だから、その論の中身は関係ない)
  • メディアやプラットフォーマーにおいて、人々の「表現の自由」が抑圧されるのをどう防ぐかこそが問われている
  • メディアやプラットフォーマーが寡占化しているということこそ、政策で解決できる問題ではないか

今までは「公権力による規制」こそが、表現の自由を脅かす問題だった

僕がインターネットを始めた2000年ごろ、表現の自由界隈で大きな問題となっていたのは「青少年有害社会環境対策基本法案」というものでした。
ja.wikipedia.org
また、2010年ごろには「非実在青少年」という言葉が注目された、東京都青少年育成条例の改正というのも大きな問題になりました。
www.itmedia.co.jp


いずれのケースにおいても、問題となったのは、国や東京都といった公権力が、表現について「これは青少年に悪影響だから規制しなさい」と規制する、いわば「公権力による規制」だったわけです。そしてそれ故に、規制に反対する多くの人は、国家権力による規制に対し警戒心を持つ、いわゆるリベラル側の人、例えば福島みずほ氏だったり、辻元清美氏だったり、蓮舫氏だったりしたわけです。


そして実際、多くのリベラル政治家は、今もこういった「公権力による規制」にたいする反対を貫いています。例えば表現の不自由展にたいし、名古屋市という公権力が、補助金を取り下げるという形で規制しようとしたときは、多くのリベラル側の政治家が抗議しました。

しかし近年は「社会的圧力による取り下げ」という形で、公権力ではない力による、表現の自由の抑圧があるのではないかと言われている

ただ、その一方で、近年は、そのような「公権力による規制」とは違う形での「表現規制」もあるのではないかと言われているわけです。例えば、マンガやアニメの広告が性差別を助長すると言われて取り下げられたりといった事例です。このブログでも、何回か紹介してきました。
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
そして、赤松健氏のような保守側の政治家は、むしろそのような「社会的圧力による取り下げ」こそが「表現の自由」への脅威だと主張しているわけです。


一応言っておくと、「公権力による規制」という脅威がなくなっているわけではありません。むしろ、宗教保守に歓心を得るために、同性愛などを敵視している自民党が、「青少年への悪影響防止」とか言ってBL・GL表現を規制したり


歴史修正主義に基づいて、出版社の表現を規制しようと考えたりしているように
「公権力による規制」からどう、表現の自由を守るかというのは、未だアクチュアルな問題なわけです。

ただその一方で、オタクや、インターネット上で創作表現を行ったり、それを楽しんでいる多くの人にとって、より身近に感じられる問題は、後者のような「公権力による規制」ではなく、前者の「社会的圧力による取り下げ」なわけです。しかし、旧来のリベラル側の政治家は「社会的圧力による取り下げ」という問題にはあまり関心を寄せてこなかったため、赤松健氏のような保守政治家の台頭につながっているといえるわけです。


ちなみに言うと、僕は、これははっきりとリベラル政治家側の失策だと思っています。もちろん、理論的にそもそも「社会的圧力による取り下げ」が、表現の自由についての問題であるかというのも議論がありますし、個々の政治家においては、そもそもそういったものを政治家が問題視すべきでないという意見もあるでしょう。しかし、それぞれの政治家がどういう意見を持つかは置いておいても、「社会的圧力による取り下げ」というものに不安を覚える、創作者や創作愛好家は多いわけで、そういう人々の不安にまずは向き合って、コミュニケーションすべきなわけです。


ですが実際は、こういう不安を多くの創作者や創作愛好家が抱えていることを、旧来のリベラル政治家はすくい取れていない。だから、赤松健氏のような保守政治家に票を奪われてしまうわけです。

だが、上記のような粗雑な議論では「表現規制」と「批判・反論」の違いが区別できない

ですが一方で、「社会的圧力による取り下げ」が全て表現の自由への抑圧ではないわけです。


たとえば、週刊少年マンガ誌では、よくアンケート制というものが導入されています。アンケートで「好きなマンガ」に挙がることが少ないマンガは、掲載打ち切りとなるというシステムです。このアンケート制によって、マンガ作者が「連載を続けたい」と思っていたマンガも時として打ち切りになるわけですが、しかしこれを「マンガ作者の表現の自由が侵害された」と捉える人はいないでしょう。


あるいは、あるクリエイターが、クライアントから依頼を受けて商品を宣伝する広告を制作した。ところが、その広告は、商品のターゲット層に受けなかったため、クライアントは予定された期間を前倒しして広告の掲載をとりやめたとする。しかしこれも別に「広告クリエイターの表現の自由が侵害された」とはならないわけです。


つまり「クリエイターの意に反して表現を取り下げられる」ことは多々あれど、それらの殆どは別に「表現の自由」とは関係ないわけです。


ですから、「社会的圧力による取り下げ」を表現規制として問題視するなら、上記のような問題の無い取り下げと、問題のある取り下げは何が違うかを示さなければならないわけですね。


そして赤松健氏のような保守政治家はそこで、戸定梨香や「月曜日のたわわ」の広告への抗議を例に出して、「行き過ぎたジェンダー論」に基づくか取り下げかどうかが問題であるかが問題であるかのように言うわけです。


しかしこれは全くデタラメな論法であると言わざるを得ません。


「行き過ぎたジェンダー論」というものが、仮にあったとします。しかし、それはあくまで「論」なわけですね。つまり、「批判・反論」の範疇な訳です。当たり前のことですが、ある表現をすることが自由であるということは、一方でその表現に対する批判・反論をすることも自由なわけですね。


つまり、赤松健氏のような論法では「表現規制」と「批判・反論」の区別が付かないわけです。赤松健氏の言ってることは、「表現は自由だが、その表現をジェンダー論に基づいて批判する表現の自由は存在しない」ということで、ジェンダー論に反感を抱く人々の感情的憎しみは呼び起こせるかも知れませんが、論理的には全くおかしい論法なのです。

問題なのは、「批判・反論」を即「表現の撤回・削除」に結びつけてしまう、メディアやプラットフォーマーの存在

更に言えば、今起きている、問題のある取り下げの多くは、ジェンダー論に基づくものよりむしろ、「宗教的価値観の毀損」や「青少年への悪影響」によるものが多いわけです。
bijutsutecho.com
www.huffingtonpost.jp
nlab.itmedia.co.jp
www.jfsribbon.org
gifu.kenmin.net
しかし赤松健氏のような保守政治家は、「行き過ぎたジェンダー論」を批判するのと同様の熱心さで、「行き過ぎた宗教保守」を批判したりはしないわけです。


いずれにせよ、表現への批判それ自体を規制することは、むしろ新しい「表現の自由」への弾圧になるわけです。では一体何が問題なのか?


問題なのは、「行き過ぎたジェンダー論」にしろ「行き過ぎた宗教保守」にしろ、表現を批判する論の中身ではなく、そのような批判を受けたときに、即「表現の撤回・削除」に結びつけてしまう、メディアやプラットフォーマーの存在なのです。


週刊少年マンガ誌のアンケートによる打ち切りしろ、広告の取り下げにしろ、なぜそれらが問題ないとされるのは、クリエイター側が、アンケートが低かったり効果が無かったら取り下げても良いと、きちんと納得しているからです。もちろん、クリエイターは自分の表現が取り下げられることを望んではいませんが、しかし「それだったらしょうがないな」と納得はしているわけです。


一方で、近年問題となっている取り下げの多くは、クリエイター側が納得する前にメディアやプラットフォーマーが勝手に表現を取り下げてしまっているんですね。例えばそこでメディア側が、抗議者側とクリエイター側の対話の場を準備したりすることなく、批判が来たら即表現を取り下げてしまっている。そうするとクリエイター側には「なんで一方的にあいつらの言うことを聞くんだ」という不満が生まれるわけです。

(そのようなメディアの責任逃れを告発した名著が森達也氏の『放送禁止歌』なので、ぜひ表現の自由に関心がある人はあまねく読んでもらいたい)

メディアやプラットフォーマーにおいて、人々の「表現の自由」が抑圧されるのをどう防ぐかこそが問われている

だから重要なのは、抗議者側ではなくメディア・プラットフォーマーなのです。彼らに対し、安易に「批判を受けたら表現を撤回して謝罪すればいいんでしょ」と思わせるのではなく、きちんと自らの媒体に出した表現には責任を持つようさせなければいけないのです。


このようなメディアやプラットフォーマーへの働きかけをどのように行うかという議論は、「行き過ぎたジェンダー論」などというしょーもない、けど確実に反フェミの感情的動員が狙えるクリシェと違い、有権者の受けは悪いかも知れません。しかし、もし「表現の自由」を真に守ろうとするのなら、感情的動員は出来るけど、問題の解決にはなんの役にも立たない扇動をするのではなく、実効性のある議論をすべきでしょう。


ただその一方で、メディアやプラットフォーマーへの働きかけをどのようにするかというのは、慎重に考えなければなりません。なぜなら、それはともすれば、公権力がメディアやプラットフォーマーに対して、「このように自らの媒体を編集しなさい」と命令することになりかねないからです。それは、古典的な「公権力による規制」に他なりません。


ある表現をメディアが掲載する、それと同様に、ある表現をメディアが表現しないということも、「編集の自由」という、表現の自由の一種なのです。これがなければ、それこそ少年マンガ誌に「女性向けのマンガも載せなさい」と言うようなイチャモンが可能になってしまうのですから。

メディアやプラットフォーマーが寡占化しているということこそ、政策で解決できる問題ではないか

むしろ、メディアやプラットフォーマーがどういう表現を掲載してどういう表現を掲載しないかを選べるように、クリエイター側も、自分の表現を自分の希望通りに掲載してくれるメディア・プラットフォーマーを選べることが重要であり、そしてそれこそが、政治が政策というアプローチで解決できる問題なのでは無いかと、僕は考えます。


例えば、もしこの世の中に自分が描いた絵を世間に発表できる場所がTwitterしかなければ、Twitterで絵が掲載できるかどうかが、表現の自由の範囲となります。しかし実際は、Twitterで載せられない絵も、例えばpixivやPawoo、ニジエといったSNSに載せたり出来ますし、最悪個人サイトにアップロードするという手もあります。このように、メディアやプラットフォーマーが選べると言うことが、実質的に表現の自由を保障しているのです。


ところが、このように多数のメディアやプラットフォーマーが乱立している状態というのは、実は維持しがたく、容易く寡占化してしまいます。欧米などでGAFAが問題となっているのはまさにその点で、日本はまだ「日本語」という障壁によって寡占から逃れられていますが、しかしいつその障壁が乗り越えられるとも限らないわけです。


そのような状態で、文化政策として、多様なメディアやプラットフォーマーが並立できるよう、弱小メディアやプラットフォーマーに支援を行ったりすることは、政治が出来ることでしょう。*2


さらに言えば、台湾でオードリー・タンがやったように、政府が自ら公共的なSNSを作るというのも一つの手でしょう。
toyokeizai.net
もちろん、その政府のSNSはあくまで選択肢の一つであり、全てであってはいけません。それこそテレビにおいて民放が数多くある中で公共放送もあるというように、SNSでも民間のあまたのSNSの中に公共のSNSがあるというのが理想です。


こういった、メディアやプラットフォーマーの多様性の維持という問題は、保守・リベラルに限らず、旧来の「表現の自由」についての議論ではあまり行われず、「あいつこそが表現の自由の敵だ!あいつを排除すれば全て上手くいく」というような、憎しみに基づいた感情的動員ばっかりが行われてした。


しかし、もし「表現の自由」を真に守ろうとするなら、必要なのは、そのような感傷的動員に流されることなく、理性的に「どういう制度設計で表現の自由は守られるのか」を論ずることだと、僕は思うわけです。

*1:もちろん、本当はそれが「見当違い」であることは分かっていて、その上で支持者の歓心を集めるために、やってるだけなんでしょうけど

*2:なぜか赤松氏はその反対に、寡占を進める強者の方を支援しようとしていますが