あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

まどかー、もどってこーい。

魔法少女まどか☆マギカという作品を見た。
概ね、ネットでは「大好評」と言っていいと思う。重度のウヨサヨ脳の僕が見ても、右はヘイトスピーチでもって反中感情を煽る民主党区議会議員から(「魔法少女まどか☆マギカ」お薦めです。 田中けんWeb事務所)、左ははてなダイアリーでも有名な「サヨク」であるid:hokusyu氏まで(約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去、まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話 - 過ぎ去ろうとしない過去)、軒並み絶賛しているのだから。みんな、まどかやほむらを賞賛している。彼女らこそが魔法少女を救った神、または英雄であると。
しかし、僕はこの波に乗れなかった。まぁ、世間の波に乗れないこと自体はそんなに大した事ではない。僕は天邪鬼だから。でも、そういう感情っていうのはアニメを見たあと時間が経つと消え去るものなのだけれど、今回は、消え去らず。はてブやtwitterでまどマギが絶賛されているのを見るにつれて心が苦しくなって、酒で忘れようと毎日お酒を飲んでも忘れられず、小康状態は時たまあったものの、ひたすら苦しかった。
そして今日、評論家たちがまどマギについて語るのを目にして(ニコ生PLANETS増刊号 徹底評論「魔法少女まどか☆マギカ」 - 2011/05/04 20:00開始 - ニコニコ生放送)、何かがわかった気がしたのと同時に、何かのリミッターが外れてしまった。
だから今回は、このネット上のまどマギ絶賛の空気では、自分なんか狂人のごとく嘲笑されて終わりだろうということを9割予測しつつも、僅かな可能性を信じて、次の二つのメッセージを記す。

そして

  • まどかー、もどってこーい。

他にも言いたいことは山ほどある(「まどマギがエヴァを超えたとかふざけんじゃねぇよ」とか「単純な勧善懲悪が気に入らない」とか)けど、それはまぁ、天原誠氏の『まどか☆マギカ』最終話までの感想Tweet - Togetter、『まどか☆マギカ』最終話批判と、鹿目まどかの『自由』について - Togetterなんかを見てほしい(要望があればブログ記事にまとめることもなくはないが)。とにかく今主張したいことは、この二点だ。

「〇〇のために死ね」と言うあらゆる声に耳を貸すな

まず、ここで一つ明確に宣言しておきたいことがある。
「最終回において、まどかは自己犠牲により死んだ」と。
もちろん分かっている。このように書くとあらゆる方面から批判がくるだろうと。まどか教信者の連中は「いいえまどかは神になったのです」と言うだろうし、そうでなくても、「私はあなたのそばにいます」という文や、その他様々な証拠から、まどかは「高次のメタ的存在になった」などと言ったり、あるいは、それこそキザに「まどかはほむらの心のなかに生きている」なんて言う連中がいるかもしれない。
だが僕は、それら全てを「まやかし」であると喝破し、一切耳をかさない。肉体もなく、その場所には他に誰もいない、閉ざされた「高次」の世界。そんな世界に行ってしまったら、それは死んだも同然だ。違うというなら、じゃあお前が今すぐその「高次」とやらに行ってみろ!生きてるってことは、この世界で、「私」が「他人」と、時には出会い、時には別れながら生活していく、そんな光景を言うのだ。
では、その「生きてること」は一体何によって奪われたか?それは直接的には明らかだろう。「他の魔法少女を助けるため」だ。自分が犠牲になることによって、魔法少女の魔女化を防ぐ。
だが、それは一体どのような「意味」を持っているか?。例えばid:hokusyu氏は次のようなことを述べて、まどかの自己犠牲を、「歴史とか関係なく、目の前の魔法少女を救おうとしたもの」として顕彰する。
まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話 - 過ぎ去ろうとしない過去

 まどかは、ホロコーストの悲惨を知らないし、非正規雇用の悲惨も知らない。両親の愛を存分に受けて育ち、またさやかのように失恋の痛みもない。彼女がその眼で見たのは、魔法少女の悲惨であり、魔女の悲惨である。
(略)
だが、まどかは願いによってその法を破壊するのである。彼女は、世界の摂理に対して考えるのをやめる。そして、目の前の魔法少女と魔女の悲惨だけを見る。目の前の悲惨は悲惨であるがゆえに、救済しなければいけない。彼女は魔法少女と魔女を救いたかったのであり、そしてやりたかったことをやったのである。母親やほむらの制止があったとしても。そして、かのじょたちがどれだけ自分を愛しているか知っていたとしても。まどかは自分自身以外のものを言い訳にせずに、自分のやりたいことをやるのである。かのじょは、どのようなダイタイアンも提示していない。

ここでid:hokusyu氏が「ホロコーストの悲惨を知らないし、非正規雇用の悲惨も知らない」、「かのじょは、どのようなダイタイアンも提示していない」という風なことを強調するのは、この自己犠牲が、例えば特攻隊や自爆テロのような「自己犠牲」と混同されることを防ぐためだろう。なぜなら、その混同が認めてしまうと、まぎかの自己犠牲も結局法秩序システムを守ったり、あるいは新しい法秩序システムを作り替えるような行為ということになってしまうからだ。まどかはあくまで目の前の「魔法少女」を助けるために自己犠牲をしたのであり、法秩序システムを作り上げる、id:hokusyu氏がベンヤミンを援用して言う「神話的暴力」になってはならないのだ。
これに対してニコ生の批評番組(ニコ生PLANETS増刊号 徹底評論「魔法少女まどか☆マギカ」 - 2011/05/04 20:00開始 - ニコニコ生放送)において宇野氏は、最終回におけるまどかの行為を「システムを作り替える行為」として賞賛した。宇野氏によれば、現在アニメーションに求められている想像力を「これまでのボーイミーツガールのような陳腐でないやり方によって、バトロワ的システムをよりましな方に作り替えること」であるとし、まどかをその典型だと賞賛した。上記の二者の意見の違いは

  1. 何を助けたか―「目の前の魔法少女」か「バトロワ的システムに覆われた世界全体か」
  2. どうやって助けたか―「ただ『魔女システム』を壊した」か「『魔女システム』を壊したあとに『魔獣システム』を創り上げた」

という二点に集約できる。しかし、僕に言わせればどっちもクソッタレだ。
まず、宇野氏の方に言わせてもらえば、なんでまどかはそんな「バトロワ的システムに覆われた世界全体」なんてものを改変しなければならないのだ。そんな責任も義務も、彼女には全くないはずなのだから、そんなものと全く関係ないところに逃げて、幸せに暮らす、それで良いじゃないか。「決して逃げられないシステムになっている」?だとしても逃げるべきだ。そして、もっとましな策を練る時間を稼ぐべきだ。自分が生き残れる、そんな策を。
一方、「目の前の魔法少女を救いたい」という言葉は、「システムを改変する」なんて言葉に比べればずっとマシかもしれない。しかし、その言葉は二重に欺瞞を帯びている。
まず、「目の前の魔法少女」は、実際には目の前になんかいない。それはシステムが見せてきた過去のものだ。つまり、もう終わった、過去の出来事に対し責任を負わせようとしている。それに対し、なんで誰も「そんなものに責任を負わなくていい。あなたは前を向かなきゃ」と言えなかったのか!?何より、前途ある少女に!
そして第二に、「目の前の魔法少女を救う」という行為が、実際的な意味においては結局「システムの改変」に他ならないということだ。その証拠に、id:hokusyu氏が例示する例は

  • ローザ・パークスの逮捕によるバスボイコット運動
  • 黒人大統領誕生
  • マーティー・ルーサー・キング

そして
http://twitter.com/hokusyu82/status/42675164118388736

彼我の差はどこにあったのかっていえば、どこにもないんですね。北アフリカに革命をもたらしたある焼身自殺が、それまでに弾圧されなかったことにされ続けてきたであろう他の抵抗運動と何かが違っていたか、といえば違っていない。一方は革命のきっかけとなり他方はそうならなかった。そういうもの。

http://twitter.com/hokusyu82/status/62200998374014976

@amamako いつでもそばにいるでしょ。ぼくらの頭の中には、レーニンがいて、ガンジーがいて、ローザ・パークスがいるんだよ。

どこまで言っても政治、政治、政治だ。あえて下世話な言い方をするならば、結局id:hokusyu氏は少女を政治運動にオルグ(勧誘)したいだけじゃないのか!?過去の成功例をダシにして、「ほらこんな風に英雄になりたくないか?だったら自己犠牲をしろ、世界のために命を捧げ」と、少女らを教唆しているようにしか思えないんだよ!
だか、はっきり僕は言う。もし命の危険があるのなら、僕は人々に運動をするなと言う。政治的主張のためだろうとなんのためだろうと焼身自殺をしようとする人間がいるのだとしたらそれを止める!それによって革命は遠のくかもしれない、永遠に起こらないかもしれない!だとしても、僕は何とか生きて、道を探せと言いたい。
そして更に言うならば、そのような「目の前の人々を救うための自己犠牲」が、本当にすべて清らかだと、何故言えると?こんなこと、それこそid:hokusyu氏のような頭のいい人には釈迦に説法かもしれない。が、敢えて無視しているようにしか見えないので言う。例えばナチスドイツに付き従った人たちだって、彼らは「ドイツの人々を救いたい」がために虐殺に手を染めた。もちろんそれは圧倒的に、間違いだったわけだが、世界の摂理も知らず、ただ目の前の人を救いたいと単純に思うからこそ、その間違いに気づかない。「目の前の人々を救うための自己犠牲」を正当化するっていうのは、結局そういうことにしか思えない。だって、そもそも「自己犠牲」という精神を植えつけられていない、「誰かを救いたい」という思いがない兵隊なんていないし、そういう思いがない単なる虐殺なんていうのも存在しない。逆に言えば、「誰かを救うためなら自分が死んでも構わない」とみんな思うからこそ、人が人を殺し合う戦争は始まる。誰もが「自分が生き延びればいいや」と考えれば、国のために人殺しなんてリスクをする馬鹿はいなくなる。
勘違いしないで欲しいのは、僕は「誰かを救いたい」という願いそのものがいけないと言ってるんじゃない。それじゃあまさにQBの思うつぼだ。だが、そのために「自分を犠牲にしてもいい」という信仰を持ったとき、その願いは必ず暴走する。なぜか?第一に、「誰かを救いたい」こそが唯一の目的となり、それを逡巡する機会がなくなる。「誰かを救いたいけど、命は捨てたくない」と思うなら、何かをしようとするときそこに「命は大丈夫だろうか」という逡巡が生まれる。それこそが重要なのだ。そして更に言うならば、死んだ人間ほど無責任になれる卑怯者はいない。死んだあとは自分の行動を反省する必要なんか一切無いもんな。生きていれば、自分がやってきたこと、そしてこれからやることを反省し、時に改めることができる。これを人は「心変わり」と言って馬鹿にするが、それこそが人間の長所なのだ。「揺るがない決意」なんてものはロボットでもできる。大事なのは、常に決意を揺るがせ、それが間違っていないか、考え、修正しながら進むこと。そうしてできた決意こそが、その時々に「信じる」に値するものなのだ。*1
しかし、「自己犠牲」をしてはいけない何よりの理由、それは、自己犠牲を選択したものには、というか犠牲になったもの全てにあらかじめ「救済」がなされている、その点にある。

God save the queen……?

id:hokusyu氏が強調すること、それは「すべての魔法少女はあらかじめ救済されており、だから何も心配をする必要はない」ということだ。
約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去

その設定に基づく魔法少女たちの悲惨が、いかにキモヲタたちの心に慰みを与え、また彼らにとって数少ないコミュニケーションのツールとして機能しようとも、それは最終的には当然のように克服されるべきものなのであって、そのときが訪れるやいなや、すべての魔法少女は救済されるとともに、まるでティプトリーの小説のごとく、かれらは取り残されるのである。

まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話 - 過ぎ去ろうとしない過去

巴マミの台詞は、まどかが魔法少女になると決意し、自分が一人ではないと確信したときのものであり、はじめて自分が魔法少女であることを肯定したときにおいて発せられた。それはつまり彼女がまどかの自由を確信したときであり、自分自身の自由をも確信した瞬間である。もちろん、まどかが順調に魔法少女として成長し、自分がそれまで死なない保障など彼女にはなかった(じっさい、次の瞬間には死ぬのであるから)。だが、彼女は確信したのである。まどかの未来を。ゆえに、「もう何も怖くない」のである。そして、すべての魔法少女があらかじめ救済されていたのであるから、これを二重の意味において、つまり救済が約束されているがゆえに「もう何も怖くない」のだとも解釈するべきである。

はっきり言ってこのid:hokusyu氏の文章を見たとき最初に連想したのは、ガンダム00の第一話で、無線から流れてくる「聖戦」を呼びかける声だったわけだが……まぁそれは良い。
自分たちが既に救済されているというのは、まぁ「予定運命説」というやつで、ウェーバーもそれを重要な要素としてプロ倫を書き上げたように、人文社会科学では割とポピュラーな概念だ。ものすごーく簡単に説明するならば、人は現世でなにをするかによって救済されるのではなく、既に生まれた時から「救済される者」と「救済されない者」が決まっているという考え方だ。
どういうことか更に詳しく見ていこう。id:hokusyu氏は次のように書いている。

 「今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。」と常野さんは言う*1。ローザ・パークスは、別に自分がボコボコにされて殺される可能性について分かっていなかったわけではない。ただ、「屈服させられるのがイヤだった」と彼女は言っている。彼女は、その自由を行使したのだ。
 ローザの行為が歴史を動かしたのはいまは誰もが知っている。では、歴史を動かさなかった無数のひとびとについては?かれらかのじょらの抵抗は無駄だった。しかし、「かれらかのじょらの抵抗は無駄だった」とわたしが言及した時点で、かれらかのじょらの抵抗もやはり、わたしたちの記憶に刻印づけられるのではないか?だいいち、このエピソードだって、わたしがどこかの本で読んだことの引用であり、それはもっと多くの人に知られているのだ。ローザ・パークスが歴史を動かすことによって、無名の抵抗者たちは歴史の廃墟から姿を現している。しかし、それはかれらが抵抗を行った時点で、つねにすでに約束されていたものなのである――わたしたちが、希望について確信している限りは。

要約するならば、「誰かひとりが勝利することによって、それまで敗北してきた人々は報われる。」ということなわけで、私たちが「自由」でもってシステムに抵抗する限り、いつか必ず勝利する。そして、勝利すれば、それまで敗北した人々も救済されるのだというわけだ。
何故このような予定運命の裏付けが必要なのか、それは、大澤氏の下記の文が端的に示しているように思える。
視点・論点 「"正義"を考える―裏返しの終末論」 | 視点・論点 | 解説委員室ブログ:NHK

(略)
 しかし、私は、物語の機能障害、人生が物語化できないということ、物語の中で人生を意味づけられないこと、これが現代社会に特徴的な困難であると考えています。物語の中で意味づけるということは、自分が、あるいは自分たち共同体が、最終的にはよい、価値のある目的へと向かっていると解釈できるということです。現在は、いろいろな不幸や失敗や困難があるけれども、最終的にはよい結果に至ると見なせるとき、人は、自分たちの人生を物語として想像できるのです。しかしながら、現代社会を生きる多くの人が、自分の人生をこうした物語の一部として解釈できずにいます。何かよい結果へと向かう過程であると見なすことで、自分の今の不幸を、克服できずにいるのです。
(略)
 それならば、どうしたらよいのでしょうか? 私は、物語の困難そのものを逆手にとる、人生や社会への立ち向かい方があると考えております。
 常識的には、私たちは過去は決まっていて、未来は開かれている、と考えます。そして、開かれた未来にある可能な選択肢の中からベストを選ぼうとします。何がベストかは、最終的な目的で決まります。しかし、何が目的か、何がよい終末かを思い描けないことが物語の機能障害ということですから、この態度ではうまくいきません。
 しかし、過去は決まっていて、未来だけが開かれているというこの「常識中の常識」にチャレンジしてみます。たとえば、私たちは今、中東のいくつもの長期独裁政権が、連鎖反応的な民主化の運動の中で、次々と倒れる様を目の当たりにしています。しかし、振り返ってみてください。少し前までは、これらの政権は安定していて、当分続くだろう、と思われていたのです。ムバラク政権のように30年も続いていた政権をすぐに変えられるなどと誰も思っていなかった。しかし、現に民主化がおきてしまうと、今度は、ムバラク政権は、過去においても、すでに不安定で、これを倒すことは十分に可能であった、と見えてくるものです。「ムバラク政権を倒しうる」という可能性が、過去の中に挿入されるのです。このとき、ある意味で、過去が変更され、書き換えられています。
 さらに、ひとたび政権が崩壊してしまうと、私たちは、なるべくしてそうなった、と思えるようになってきます。しかし、個々の出来事は偶然です。たまたま、チュニジアで起きた、ある焼身自殺のことを誰かがインターネットで公開した。この出来事は偶然の思いつきによるものですが、そこからの一連のプロセスが起きてしまえば、それは、必然であり、宿命の過程だったかのように見えてくるのです。政権は倒れるべくして倒れたのだ、それは必然であり、宿命だったのだ、と感じられてきます。ということは、偶然性から必然性が生まれている、ということです。言い換えれば、私たちは、宿命を、つまり必然的な運命を自由に選択できる、ということでもあります。偶然ということは、他でもありえたけれども、たまたまそれを選択した、ということだからです。
(略)
 つまり、わざと破局的な終末が到来してしまったと想定し、逆に、その終末を回避するような選択肢への想像力を回復する。私は、これを「裏返しの終末論」と呼んでいます。物語が困難な時代の「正義」への第一歩は、この裏返しの終末論にあります。

なんつーか、まさにまどマギについて書かれた文章に他ならないんじゃないかという様な内容だが、ものすごい単純に要約するならば、「『目指すべき良い未来』みたいな準拠点は描けないけど、『いっちゃいけない悪い未来』みたいな準拠点は描けるから、それを避けて救済されるよう目指そう」というわけだ。
id:hokusyu氏は、まどかが守ったのは魔法少女の「自由」であるということを何度も何度も言う。その自由とは、まさに大澤氏が言ったような自由に他ならない。「最悪」を避ける自由、自分の身を犠牲にしてでも、この世界を「最悪」から守る自由。その自由を手に入れるためには、予定運命が不可欠なのだ。
似たようなことは、有村氏も言っている。
『魔法少女まどか☆マギカ』最終回を見たおれがもう二言、三言 | LUNATIC PROPHET

まどかは「どこにでも私はいる」(『MADLAX』の劇中歌「nowhere」より)ものとなり、誰もが彼女をうっすらとおぼえているけれども実体として存在はしていない、そういうものになった。そして、彼女の記憶を継承している「時をかける少女」ほむらは、どこにでもいるまどかを感じ取ることで戦う勇気を得て、今日もひとり魔獣狩りに赴く。
(略)
大河や竜児は、辛い境遇にある人に対して、ただ支持的に見守る存在として機能しようとしている。人知れずどこかで戦っている魔法少女と、遠いようで近いあり方だ。
(略)
ここにはもういないあいつの記憶があるから、頑張れる。なるほどいい話じゃないか。

(ちなみにとらドラについてはこれも聖なる夜にとらドラ!をdisる - 斜め上から目線という記事で批判しているので参照)
要するに「見えない誰かがいて、そいつが自分を見守ってくれるから大丈夫」と。「救済」、「裏返しの終末論」、そして「自分を見守ってくれる存在」。どれも、よーするにこの不確かな世界で確かな準拠点として存在しうるものなわけだ。
だが―id:hokusyu氏がさんざん「自由」をふりかざすから、これは半ば嫌味で言うのだが―これらの準拠点こそ、実は人々を縛り、人々から「自由」を奪うものではないのだろうか?
システムと戦うことができる、システムを破壊するのを願うことが「自由」になると、id:hokusyuは言う。では、そんなのを願わないという「自由」は?あるいは、死なない程度でちょっかいはだすが、死にそうになったら逃げる、そんな「自由」は?自由とは本来そういうものな筈だ。自由に意思決定できる主体がいて、そいつが自由勝手に「生きる」。それが自由のあるべき姿だ。
id:hokusyu氏はかつて
http://twitter.com/amamako/status/62202884875493376

いらないなぁ。RT @hokusyu82: @amamako いつでもそばにいるでしょ。ぼくらの頭の中には、レーニンがいて、ガンジーがいて、ローザ・パークスがいるんだよ。

という言葉に対して
http://twitter.com/hokusyu82/status/62203144087674881

@amamako いらないということはつまり、自由からの逃走ということなのだよ。

ということを書いている。確かに、これはセルフコントロールして自分を安全な場所に逃がしているという点で、まさに「逃走」であり、彼ら革命家を直視し、そのような人々に比べて自分がどれだけ矮小か、そういうことについて考える自由から逃げている。だが、それも「自由」だ。
逆に僕から言わせれば、id:hokusyu氏の言っている自由とは、結局自己啓発セミナー的な、精神的に追い詰めて「さあ考えて選択を」と迫る、いわば「逃げ場のない自由」にしか思えない。もちろん、それは別にid:hokusyu氏が創りだしたわけでなく、このまどマギという作品が創りだしたまどかの「自由」であるが、しかしそれをid:hokusyu氏が賞賛している限り、id:hokusyu氏は、僕にとってはまどマギという監獄の看守の一人にしか思えないのだよ。
「裏返しの終末論」にしても「自分を見守ってくれる存在」にしてもそうだ。最悪から逃げられるということは、言い返せば最悪ではない犠牲は許容されるということに他ならない。「見守る」についても「監視」とほぼ同義。「誰かが見守ってるから頑張れる」ということは、「誰かが見張っているからがんばらなきゃならない」ということに他ならない。
確かに、大澤氏が書いている文にもあるように、今人々は不安に陥っているのだろう。でもだからといって、そこで安っぽいカルト宗教のような「準拠点」を差し出すことが、本当に正しいのだろうか?それは結局、人々を自己犠牲・自己搾取に導くだけではないのか。救済があるから、自分は今は死んでも大丈夫だと思い込む。「救済」こそが、人々を死に急がせているのである。*2
必要なのは、「救済」を見つけたり、確信することじゃない。そんなもの糞食らえだ、そんなのなくたって生きていけるって、おどおどしながらも言えるような、そんな「自分本位」を見つけ出すことなのだ。そしてそのためには、時間と、居場所こそが必要なのである。
だから、だからこそ、幾ら卑怯な手を使ってでも、幾ら人々を見殺しにしながらでも、まどかは生きて、それを見つけるべきではなかったのか。

言いたいこと

予想通りというか、だいぶとっちらかった記事になってしまった。が、僕の言いたいことは単純である。

  • まどかはあそこであんな契約をすべきではなかった。
  • それを賞賛する作品や、批評を僕は憎悪する。

その理由をどれだけ汲みとってもらえたかはわからない。
僕は魔法少女のこととか、思想のことはそんなに詳しくない。このようなまどかのあり様が、魔法少女の正統だとするなら、僕はそれに反論はできない。ただ、「魔法少女なんてものそのものが間違っている」と思うだろう。
ベンヤミンの思想についても同じだ。ベンヤミンがこのような魔法少女を肯定していたとするならば、僕はそれに反論はできない。ただ、「ベンヤミンは間違っていた」と言う。例えどんなにご立派な思想でも、それが実際に運用されたときに人を貶めるなら、それは糞なのだから。

まどかー、もどってこーい。

ここからの文章は「僕がまどマギのあるべき姿を指し示す」というものです。要するに妄想垂れ流しなわけで、まぁそういうのが嫌いな人は良くないほうがいいかと。ただ僕はこれが本当に「真のまどマギ」であると考えてもいます。
最終回の魔獣システムの世界について考える。
まず、やっぱり何としてもまどかは戻って来るべき。魔獣システムが壊れてもとの魔女システムに戻ってしまうとしても、まどかの魂は、元の世界に返されるべきだ。
その時まどかの記憶が戻っているかいないかとかは別にどうでもいい(記憶を亡くしたまどかの魂を宿した別人が現れるっていう展開がやっぱり僕の好み)。問題は、まとかをまどか教の連中の言うような「神」には絶対にさせないこと。まどかはこの世界で、生きていくべきなのだ。
魔女問題は人間が科学力で何とかするべきだ!ソウルジェムも!そもそもなんであんな戦いを社会が放っておくんだ。社会こそが総力挙げて魔法少女問題に乗り出すべきだ。防衛省を解体して魔法少女保護省を作れ!新税でもなんでも作ってとにかく費用を捻出しろ!大学の研究とかをすべて魔法少女保護対策に回せ!国全体で対処し、魔法少女に全面的なバックアップを掛けろ!
その上で、ほむらとまどかの関係は、当人達に解決させろ。いいお友達でいるのもよし。健全な別れをするのもよし。女の子同士の問題は、女の子同士で解決させろ。魔女問題とかそういうノイズは全力で排除しろ!
全ての魔法少女たちに対して、戦ってもいいし、戦わなくてもいい、ただ、もし戦うのなら私たちが全力を挙げて助けると、胸をはって言ってやれ!
もちろん人間はまだまだ限界があるから、科学が全然役に立たない時も、犠牲と悲劇が繰り返される時もあるだろう。それでも諦めるな!今日ダメでも明日は何とか、明日がダメでも明後日には何とか、それが人間が手に入れた「科学」の、最大の特徴ってもんじゃないのか。頼るべきは「英雄」じゃない。英雄の犠牲を今日使ってしまうのが魔法。科学は違う。その犠牲を払わない代わりに、科学を進歩させ、そしていつか犠牲なしに勝利をもぎ取る。それが、科学ってもんだろうが!
そこまで人間社会がきちんと頑張るのなら、ほんのちょっとの奇跡ならまぁ許しても良いんじゃないかと思う。人間社会全体が全力を出していないのに、奇跡で何とかするなんてことは、むしろおかしい!

*1:これらのことは、もちろんid:hokusyu氏にだけでなく、宇野氏のまどか解釈についても言える。

*2:id:hokusyu氏はマミを賞賛しているが、僕は、マミさんが死んだという点でもって、どんなに悲しくても、マミさんの死を「失敗」として捉え、次に生かさなきゃならないと思う。生き残るために。