書評
『魚食の人類史: 出アフリカから日本列島へ』(NHK出版)
脳を育て氷期を乗り越えさせた
魚料理は大好きだが、狩猟採集から農耕へと移行する人類史の中で、重要な食べものとして魚をイメージしたことはなかった。人類史は、最近数多くのデータが出され、正解を求めてのさまざまな物語が提案されている分野である。本書は、霊長類で積極的に魚を食べるのはH(ホモ)・サピエンスだけであり、そこに大きな意味があるという視点が、興味深い。2000万年前に始まる大型類人猿の時代には魚食の記録はなく、人類でもそれが確認されるのは、H・エレクツスからである。アウストラロピテクス属からヒト属への移行の際の脳容量の増大を促したのが食物の変化、つまり魚食の始まりだったのではないかという説が出始めている。脳のはたらきに重要な役割をするDHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)などの不飽和脂肪酸が魚類に多く含まれているということを一つの根拠として。
195万年前、H・エレクツスが暮らしていたアフリカ・トゥルカナ湖の地層で加工痕のある魚骨が確認された。ただ、この時点の主要食物はワニなど沿岸動物であり、魚はまだ補助的役割だった。
次いで、H・エレクツスと同じ頑強な体格をもつネアンデルタールの登場である。12万年前から3・9万年前まで生存した彼らの主な食物は中型・大型草食獣(マンモス、ケブカサイなど)だった。近年、骨の分析から魚食の報告があるが、事例は少ない。両者共魚食が主ではなかったことになる。
ネアンデルタールは最終氷期の最盛期前に絶滅し、この時生き残ったのがH・サピエンスであり、海と淡水の魚を多く食べていたことが知られている。実は、この時期を生き残った大型食肉類はクマだけなのだが、ヒグマはサケなども食べる雑食である。同位体元素分析によってH・サピエンスとヒグマがほぼ同じ食性であることがわかってきた。陸の王者とされるネアンデルタールが滅びた最終氷期を我々の祖先が生き残れたのは、この食性のおかげであるという説はちょっと魅力的だ。
H・サピエンスの骨格は、H・エレクツスやネアンデルタールに比べて華奢(きゃしゃ)だ。そのうえ体毛がなく裸であるのに、氷期の厳しい環境をサピエンスだけが乗り越えたのである。著者は、華奢であったがゆえに強い仲間とは別のニッチ、つまり水辺に暮らさざるを得ず、そこで「より安全な小型獣や鳥類、そしてもっと安全な魚貝類を主食とする方向に進んでいったのではなかったか」と考える。そしてこれが脳の発達に貢献しただろうと想像し、その証拠として、19万年前の遺跡から発掘された魚のリストをあげる。実は、7万年前の寒冷化はアフリカ大陸の乾燥化を促し、われわれの祖先は必死の脱出をした。この時、ニューギニアやオーストラリアまで移動した証拠があり、海を渡る旅で魚はより身近になっただろう。
各地で始まった農耕牧畜文明の一つであるメソポタミア文明にも、魚骨の中の祭壇が見られる。日本列島での魚食の歴史は豊富で、万葉集、絵巻物、江戸の魚市場、カツオ節とうま味など多くの話題を通して現在につながっている。
物語は、ベーリング海の漁撈(ぎょろう)民の長命、物質的精神的文化の豊かさを示し、人類の未来は、海の保全と魚食にありと語られて終わる。