解説
『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(原書房)
ヨーロッパ各地の極右政党、トランプ大統領誕生、ブレグジット……リベラリズムとデモクラシーはもう終わりなのか?
2018年7月にオバマ元米国大統領がフェイスブックで称賛、いまもアメリカで話題を読んでいる政治学書が日本でも先日翻訳出版された。政治学者・宇野重規による解説を公開する。
そのような思いが、世界の各地で拡大している。世界価値観調査などをみても、リベラル・デモクラシーを信頼すると回答する人は急激に低下している。特に若者のリベラル・デモクラシーへの幻滅は著しい。それを思えば、悲観論の続出もやむをえないのかもしれない。
ある意味で象徴的なのは、本書でも触れられているように、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマであろう。冷戦終焉に際して「歴史の終わり」を説き、リベラル・デモクラシーの最終的な勝利を高らかに宣言したフクヤマであるが、そのわずか一〇年後にはバイオテクノロジーと「ポストヒューマン的未来」を論じた著作の中で、科学技術の進展による人間環境の変化、そしてそれがリベラル・デモクラシーにもたらす危機を認めている。
さらに近年、『政治の衰退』を刊行し、アメリカにおけるガバナンスの危機に警鐘を鳴らしている。この鋭敏な知性の関心の推移だけをみても、リベラル・デモクラシーに何らかの地殻変動が起きていることがわかる。
本書もまたリベラリズムの失敗を説く本である。ただし、著者の主張の特徴の一つは、現代の危機がリベラリズムを実現できなかったことによって生じたのではなく、むしろリベラリズムが成功したからこそ起きたとしている点にある。その意味で、本書は近代リベラリズムを総体として批判する政治哲学の書である。
著者によれば、リベラリズムの論理は、個人を伝統的な社会や組織の束縛から解放することを目指すものであった。個人は抽象的な自由と権利の担い手とされ、伝統的規範ではなく、自らの理性によってすべてを判断することを期待された。
しかしながら、結果として何が生じたか。伝統的な社会や組織から解放されたと思った個人は、実は国家と市場という、より大きな機構に自らの運命を委ねてしまっただけではないか。個人は自由になったのではなく、より脆弱になり、依存的になったのではないか。
著者は本書の中で、繰り返しリベラリズムの個人主義が、けっして国家の大きな役割と矛盾するものではないこと、むしろ両者が強く結びついていることを強調する。
かつてフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で指摘したように、伝統的な社会から解放され、他者との結びつきを失った個人は、むしろ民主的権力や集権的国家に依存するようになる。
身近な近隣の住民と協力して、地域の諸課題を自分たちの力で解決する習慣を失った個人は、もはや中央権力にすがるしか生活の用をはたす方法を知らないからである。この民主的社会における個人主義と国家主義の結びつきについて、著者はトクヴィルを導き手として議論を進める。
著者はリベラリズムが「アンチカルチャー」の側面を持つとさえ主張する。すでに触れたように、リベラリズムは個人を伝統的な社会や組織から解放するために、むしろ個人を抽象的な存在として扱った。社会契約論が象徴であるが、リベラリズムが想定する世界で、人間は自然と切り離され、過去を持たず現在を生きる存在とされ、さらに土地との結びつきを失った。
これらはまさに、個人の自由な選択を阻む束縛とみなされたのである。
しかし、そのことの代償もまた大きかった。自然とも、時間とも、場所とも切り離された個人は、結果的に文化を生み出す力とも切り離されたのではないかと著者は問う。
「文化(カルチャー)」は語源から言っても、土地の耕作と深く結びついている。土地を開拓し、耕作し、世代を超えて継承していくことは、文化の創出と継承とまったく同型である。具体的な自然との接触をなくした個人は、はたしてその本性を開花することができるのか。身近な人々と協働の経験なくして、人々はそのコモンセンスを発展させることができるのか。
アリストテレス以来の哲学を重視する著者は、このことに疑問を呈する。
リベラリズムとリベラル・アーツの関係をめぐる考察も興味深い。リベラル・アーツは現在では「教養」を意味するが、この言葉の本来の意味は、人々を自由にするための技術(アート)であった。古代ギリシア以来の古典は、個人にいかに自らの欲望をコントロールし、生を統御するかを教えた。いわば、その目的は人々に自制するための技術を授けることにあった。
その背景には、自由は人間が生まれながらに持つ能力ではなく、時間をかけて修養を積むことでようやく手にするものであるという考え方があった。
これに対し、近代のリベラリズムは、ひたすら個人の欲望の解放を推し進める一方で、それをコントロールするための術を教えなかった。
結果として個人の欲望に歯止めがかからなくなる一方で、けっして人々は満足することを知らず、つねに欲求不満と不安を抱えて生きることになった。その意味で、今求められているのは、古典が教えてくれる、自らの生を統御する技術を学ぶことにほかならないと著者は説く。
しかしながら、著者が再び参照するのはトクヴィルであり、トクヴィルはアメリカのタウンシップと呼ばれる地域共同体に強い印象を受けている。人々は近隣の住民とともに地域の問題を解決し、自制と自律の習慣を身につける。そのことは人々の政治的判断力の養成にも繋がっている。
著者はその延長線上に、人々が身近な地域との結びつきを取り戻し、そこから世代を超えた知恵や文化の継承と創出に参加していく姿を描き出す。それはいわば、時代を超えた人々の自由な知的・社会的営みとの交流に他ならない。
本書は現代政治哲学で言えば、コミュニタリアン(共同体主義)やリパブリカニズム(共和主義)に近い発想の持ち主と言えるかもしれない。しかしながら、大切なのはそのようなラベルではなく、そこから何を学ぶかである。
かつてアメリカの大統領だったバラク・オバマはこの書を高く評価したという。日本においても、この本をどのように読んでいくべきか。大いに知的刺激を受ける一冊であろう。
[書き手]宇野重規(政治学者・東京大学社会科学研究所教授)
2018年7月にオバマ元米国大統領がフェイスブックで称賛、いまもアメリカで話題を読んでいる政治学書が日本でも先日翻訳出版された。政治学者・宇野重規による解説を公開する。
リベラリズムは死に体か?
昨今、リベラリズムやデモクラシーの衰退を説く本は多い。無理もないだろう。これまでリベラル・デモクラシーを牽引してきたとみられたイギリスやアメリカでブレグジットやトランプ現象が生じる一方、世界各地で独裁的・権威主義的な指導者の台頭が目立っているからである。あるいはリベラリズムやデモクラシーも普遍的な理念ではないかもしれない。そのような思いが、世界の各地で拡大している。世界価値観調査などをみても、リベラル・デモクラシーを信頼すると回答する人は急激に低下している。特に若者のリベラル・デモクラシーへの幻滅は著しい。それを思えば、悲観論の続出もやむをえないのかもしれない。
ある意味で象徴的なのは、本書でも触れられているように、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマであろう。冷戦終焉に際して「歴史の終わり」を説き、リベラル・デモクラシーの最終的な勝利を高らかに宣言したフクヤマであるが、そのわずか一〇年後にはバイオテクノロジーと「ポストヒューマン的未来」を論じた著作の中で、科学技術の進展による人間環境の変化、そしてそれがリベラル・デモクラシーにもたらす危機を認めている。
さらに近年、『政治の衰退』を刊行し、アメリカにおけるガバナンスの危機に警鐘を鳴らしている。この鋭敏な知性の関心の推移だけをみても、リベラル・デモクラシーに何らかの地殻変動が起きていることがわかる。
本書もまたリベラリズムの失敗を説く本である。ただし、著者の主張の特徴の一つは、現代の危機がリベラリズムを実現できなかったことによって生じたのではなく、むしろリベラリズムが成功したからこそ起きたとしている点にある。その意味で、本書は近代リベラリズムを総体として批判する政治哲学の書である。
著者によれば、リベラリズムの論理は、個人を伝統的な社会や組織の束縛から解放することを目指すものであった。個人は抽象的な自由と権利の担い手とされ、伝統的規範ではなく、自らの理性によってすべてを判断することを期待された。
しかしながら、結果として何が生じたか。伝統的な社会や組織から解放されたと思った個人は、実は国家と市場という、より大きな機構に自らの運命を委ねてしまっただけではないか。個人は自由になったのではなく、より脆弱になり、依存的になったのではないか。
著者は本書の中で、繰り返しリベラリズムの個人主義が、けっして国家の大きな役割と矛盾するものではないこと、むしろ両者が強く結びついていることを強調する。
かつてフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で指摘したように、伝統的な社会から解放され、他者との結びつきを失った個人は、むしろ民主的権力や集権的国家に依存するようになる。
身近な近隣の住民と協力して、地域の諸課題を自分たちの力で解決する習慣を失った個人は、もはや中央権力にすがるしか生活の用をはたす方法を知らないからである。この民主的社会における個人主義と国家主義の結びつきについて、著者はトクヴィルを導き手として議論を進める。
リベラリズムは「アンチカルチャー」
本書のもう一つの特徴は、このような分析をとくに文化の領域に即して進めていることだ。著者はリベラリズムが「アンチカルチャー」の側面を持つとさえ主張する。すでに触れたように、リベラリズムは個人を伝統的な社会や組織から解放するために、むしろ個人を抽象的な存在として扱った。社会契約論が象徴であるが、リベラリズムが想定する世界で、人間は自然と切り離され、過去を持たず現在を生きる存在とされ、さらに土地との結びつきを失った。
これらはまさに、個人の自由な選択を阻む束縛とみなされたのである。
しかし、そのことの代償もまた大きかった。自然とも、時間とも、場所とも切り離された個人は、結果的に文化を生み出す力とも切り離されたのではないかと著者は問う。
「文化(カルチャー)」は語源から言っても、土地の耕作と深く結びついている。土地を開拓し、耕作し、世代を超えて継承していくことは、文化の創出と継承とまったく同型である。具体的な自然との接触をなくした個人は、はたしてその本性を開花することができるのか。身近な人々と協働の経験なくして、人々はそのコモンセンスを発展させることができるのか。
アリストテレス以来の哲学を重視する著者は、このことに疑問を呈する。
リベラリズムとリベラル・アーツの関係をめぐる考察も興味深い。リベラル・アーツは現在では「教養」を意味するが、この言葉の本来の意味は、人々を自由にするための技術(アート)であった。古代ギリシア以来の古典は、個人にいかに自らの欲望をコントロールし、生を統御するかを教えた。いわば、その目的は人々に自制するための技術を授けることにあった。
その背景には、自由は人間が生まれながらに持つ能力ではなく、時間をかけて修養を積むことでようやく手にするものであるという考え方があった。
これに対し、近代のリベラリズムは、ひたすら個人の欲望の解放を推し進める一方で、それをコントロールするための術を教えなかった。
結果として個人の欲望に歯止めがかからなくなる一方で、けっして人々は満足することを知らず、つねに欲求不満と不安を抱えて生きることになった。その意味で、今求められているのは、古典が教えてくれる、自らの生を統御する技術を学ぶことにほかならないと著者は説く。
目指すべきは「ポリスの生活」
本書が最終的なゴールとして示すのは「ポリスの生活」である。ポリスとは古代ギリシアの都市国家であり、そこへの回帰を説く本書は、ひどく反時代なものに映るかもしれない。しかしながら、著者が再び参照するのはトクヴィルであり、トクヴィルはアメリカのタウンシップと呼ばれる地域共同体に強い印象を受けている。人々は近隣の住民とともに地域の問題を解決し、自制と自律の習慣を身につける。そのことは人々の政治的判断力の養成にも繋がっている。
著者はその延長線上に、人々が身近な地域との結びつきを取り戻し、そこから世代を超えた知恵や文化の継承と創出に参加していく姿を描き出す。それはいわば、時代を超えた人々の自由な知的・社会的営みとの交流に他ならない。
本書は現代政治哲学で言えば、コミュニタリアン(共同体主義)やリパブリカニズム(共和主義)に近い発想の持ち主と言えるかもしれない。しかしながら、大切なのはそのようなラベルではなく、そこから何を学ぶかである。
かつてアメリカの大統領だったバラク・オバマはこの書を高く評価したという。日本においても、この本をどのように読んでいくべきか。大いに知的刺激を受ける一冊であろう。
[書き手]宇野重規(政治学者・東京大学社会科学研究所教授)