薨去された三笠宮妃百合子妃殿下の生涯を振り返る

宮内庁は、天皇陛下の大叔母にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王妃百合子(ゆりこ)殿下が15日午前6時32分、入院先の東京・中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)されたと発表した。大正12年(1923年)生まれで、皇室最高齢の101歳だった(誕生日:1923年6月4日)。

崇仁親王妃百合子殿下 宮内庁HPより

そこで、拙著『系図でたどる日本の皇族』(宝島社・TJMOOK)などをもとに、そのご生涯を振り返ろう。

昭和天皇より14歳も若い三笠宮崇仁殿下(1915~2016年)は、兄の陛下と比べられる立場ではなく、意見を言うことも少なかったといえる。秩父宮殿下と同様に陸軍に入ったが、終戦時でも少佐だった。

崇仁親王同妃両殿下 宮内庁HPより

中国に派遣され、お印にちなんで「若杉」という偽名で活動し、南京事件などの噂を聞いて軍紀の乱れを嘆いた。戦後はオリエント学者として活躍し、紀元節復活に反対し、戦時中の不適切行為についても大胆に発言した。

五人の子供に恵まれ、100歳まで長寿を誇ったが、2016年に亡くなった。

皇室の構成図(令和6年4月1日現在) 宮内庁HPより

妃殿下の百合子さまは、高木家という河内国丹南藩一万石の末裔の子爵家の出身だ。あまり有名な殿様ではないが、南青山の高樹町の名前の由来となっている。もともと高木家の下屋敷があった場所で、黒船が来たときに島津家が海から遠い避難所として購入し、篤姫も江戸城への輿入れの前に住んでいた。

母の邦子は皇太后宮太夫だった入江為守子爵の娘で、弟は昭和天皇の侍従長だった入江相政。貞明皇太后が自分の側近の孫娘を末っ子の嫁にした。入江家は藤原定家の流れを汲む冷泉家の分家だ。

さらに遡ると、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言藤原長家を祖とする御子左流(みこひだりりゅう)に属する。長家は、『光る君へ』に登場する藤原道長と第二夫人源明子の四男だ。

百合子さまには勢津子さまや喜久子さまほどのエピソードはないが、三男二女の母親として多忙だったことが影響しているだろう。三笠宮家は結婚して間もなく終戦を迎え、子だくさんだったため、経済的に苦労が多かったと思われる。

三笠宮家には三男二女があり、孫世代では9人中6人が女性で、しかも男子が三人いるにもかかわらず、5人の内孫が全員女王だったことが、皇位継承者が不足する主要な原因のひとつだ。

長男の寬仁親王(1946~2012年)は「ひげの殿下」として知られている。未成年のときから酒やタバコをたしなみ、交通事故を起こしたこともある。オックスフォード大学留学後、ラジオのパーソナリティを務めた。「皇籍離脱宣言」をして昭和天皇から苦言を受けたこともあった。

寬仁親王 Wikipediaより

皇室典範改正が話題になったとき、控えめながらも反対の立場を取り、一方的な議論の展開に歯止めをかけた。このころ、有識者会議の吉川弘之座長が「皇族の意見を聞くのは憲法違反」といった極端な意見を述べたり、朝日新聞が社説で「寛仁さま、発言はもう控えては」と書いたりした。こういった問題については、最終決定は国会と政府にあるが、少なくとも利害関係者として皇室の方々の意見を聞くのは当然であり、その対象が天皇陛下だけというのはおかしいと思う。

また、皇族に言論の自由があるかについては、いかなる公的なポストにある者もそれに応じた制約は受けるべきだが、逆に、皇族方も立場に応じた範囲で私的な発言を否定する必要はなく、天皇陛下や皇太子殿下など直宮よりも制約は少なくてよいと考える。その意味で、晩年の殿下の発言は肯定的に見ていた。

三笠宮寛仁さまの妃である信子さま(1955年生まれ)は、麻生太郎元首相の妹で、聖心女子学院中等科からイギリスの花嫁学校に留学した。松濤幼稚園に英語講師として勤めていた。

16歳のときに殿下から求婚されたが、26歳で結婚した。料理が得意で本を出版したり、殿下と一緒にテレビに出たこともあるが、2004年に一過性脳虚血の発作で倒れ、軽井沢で療養して公務はあまり行わず、晩年は東京で別居していた。

娘たちは父親の影響を受けており、殿下の死後に戸主の地位をめぐる対立があり、困った宮内庁はまだご存命だった三笠宮殿下の家に属する形を取った。

彬子さま(1981年生まれ)は、学習院大学文学部史学科を卒業後、オックスフォード大学マートン・カレッジに留学して博士号を取得。現在、英国留学記の再版がベストセラーとなって話題を集めている。

瑶子さま(1983年生まれ)は、学習院女子大学国際文化交流学部日本文化学科で学び、剣道が得意で、居酒屋にも行くと記者会見で話し話題になった。

桂宮宜仁親王(1948~2014年)は、学習院大学法学部政治学科を卒業し、オーストラリア国立大学大学院に2年間留学した。NHKに嘱託として勤務したこともあるが、もともと身体に不調があり、公務にもあまり登場しなかった。江戸時代の四宮家のひとつ桂宮家と同名の新しい宮家を1988年に創設したが、自宅で倒れ意識不明で発見され、急性硬膜下血腫と診断され、その後、闘病とリハビリに努めたのち亡くなった。

桂宮宜仁親王 Wikipediaより

高円宮憲仁親王(1954~2002年)は、韓国を訪問した唯一の皇族だ。FIFAワールドカップの際に開会式などに参加した。学習院大学法学部を卒業後、カナダのクイーンズ大学に留学し、帰国後は国際交流基金で勤めた。

カナダ大使館のパーティーで通訳をしていた鳥取久子さんと出会い結婚した。久子さんの父、鳥取滋治郎は三井物産勤務の商社マンだが、母の鳥取二三子さんは外交官の娘で、日本フランス語婦人の会の会長を務め、九条家の血も引いている。

しかし、殿下は47歳のとき、オーストラリア大使館でスカッシュをしていたときに心筋梗塞で倒れ急死した。その後も妃殿下は殿下の生前と同様に、スポーツや文化への支援を続けている。

お二人の間には承子女王、典子女王、絢子女王の三女がいる。

三笠宮崇仁殿下の長子である甯子さまは、細川護熙元首相の弟で近衛家を継いだ近衛忠熙氏の夫人だ。学習院大学文学部イギリス文学科在学中に結婚し、一時金は2,743万5,000円だった。

近衛文麿には文隆という嫡男がいたがシベリア抑留中に死亡し、子は庶子だけだったため、次女の次男が文隆未亡人の養子として近衛家を継ぎ、名も忠輝と改めた。二度のジュネーブ勤務を経て、国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)の会長だった。

崇仁親王の次女である容子内親王(1951年生まれ)は、学習院大学法学部法学科在学中にスイスの全寮制の学校へ留学し、ソルボンヌ大学に進学。学習院大学法学部に復学して卒業後、裏千家・坐忘斎千宗之(16代家元・千宗室)と結婚し、二男一女をもうけている。


系図でたどる日本の皇族

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