八幡氏への忠告① 評論家に歴史研究はできない

呉座 勇一

私が前回アゴラに投稿した『在野の歴史研究家に望むこと』に対して評論家の八幡和郎氏から反論をいただいた。

呉座氏は百田・井沢氏より大胆な飛躍がお好き

相変わらず冗長な文章で、まともに取り合っても意味がないと最初は思った。だが研究とはどのような営為か、歴史学とはどういう学問かを説明するのに格好の素材だと思うので、私の考えを少し述べておきたい。

日文研サイト、BS朝日サイトより:編集部

「在野」という言葉の意味

さて八幡氏は

「在野」などというのは、当事者が謙遜していうとか、反抗精神をポジティブにとらえて第三者が言う言葉であって、象牙の塔の住人が自分たちの仲間でない人たちを見下すように使うのは失礼だろう。

と批判する。「象牙の塔」こそが(現代では)侮辱語だと思うが、ともあれ、私は「学界に属さない研究者」という意味合いで用いている。この用語に問題があるのは事実で、たとえば歴史学の専門的な訓練を受けているが大学に職を得ていない人をどう捉えるかという問題がある。

昨今の人文系の大学院生はたいへんな就職難に苦しんでおり、一般企業に就職するなど別の方法で生計を立てつつ研究を続ける人も少なくない。かく言う私も日文研着任前は非常勤講師などを少しやったりする程度でフリーターのようなものだったから、字句通りに解釈すれば「在野の研究者」である。ただ私は、歴史学の専門的な訓練を受けた人は、仮に現在無職であっても、「在野」と呼ぶのは適切でないと考えている。重要なのは歴史学の方法論を身につけているか否かというスキルの有無であり、現在の職業が何かはどうでも良い。

なので、私もできれば「在野」という言葉を使いたくない。「非学界系歴史研究者」ではこなれないし、「歴史作家」では小説家と区別がつかない。適切な呼称があれば、ぜひご提案していただきたい。

なお前回の私の記事に関しては、学界に属さない研究者からも多くの感想をいただいたが、「『在野』という言葉は侮辱語だから許せない」といった反応は全くなかった。元キャリア官僚で現在大学教授である八幡氏が「在野」という言葉にプライドをいたく傷つけられたのだとしたら、配慮不足をお詫びしたい。

国立公文書館ツイッターより:編集部

「一理ある」という評論家用語

続いて八幡氏は、私が論理の飛躍を連発していると批判する。私が八幡氏の主張を意図的に歪曲しているのだという。

八幡氏が具体的に挙げたのは、安土宗論に関するコメントである。井沢氏が安土宗論に関する学界の通説を一蹴したと豪語し、それについて八幡氏が「井沢氏の主張に一理ある」とコメントした。これをもって私は「井沢氏の主張を鵜呑みにして学界の通説が一蹴されたと八幡氏は思い込んでいた」と書いた。これに八幡氏は反論する。

論争は、両者が相手に反論し合うことを読者がどちらがもっともかを判断する営みだ。井沢氏がいちおうもっともそうな反論をしたので再反論を期待しただけで「学界の通説が一蹴されたと八幡氏は思い込んだ」ことにされてはたまらない。裁判官でも被告人の弁明がそれなりにもっともらしければ、原告側の反論を求めるのであって、いちいち、被告の弁明が正しいか裁判官が自分で検証なんぞしないではないか

なぜ裁判に喩えるのか意味不明である。八幡氏はただの歴史ファン、一読者として、井沢・呉座論争(?)にコメントしたわけではない。井沢・呉座に伍する(あるいは上回る)歴史家としてレフェリー役を(頼まれてもいないのに)買って出たのである。井沢氏がもっともそうな反論をしたからといって、その内容を吟味しないのでは素人同然ではないか。もし安土宗論の研究史を知らないなら調べれば済む話だ。

知りもせず調べもせず、しかし事情通であるかのように振る舞いたいから「一理ある」などというもっともらしい言葉でごまかし、誤りを指摘されたら「『一理ある』と言っただけで全面的に賛同したわけではない」と逃げを打つ。ワイドショーのコメンテーターならそれでも務まるかもしれないが、歴史学界では井沢氏の主張に何の異議も差し挟まず「一理ある」と評価した時点で「鵜呑みにしている」と解釈される。

百田尚樹氏の『日本国紀』に対して私が批判した時も、井沢元彦氏の『逆説の日本史』に対して私が批判した時も、八幡氏は一貫して百田vs呉座、井沢vs呉座の判定役のポジションを取ろうとした。なぜなら、それが最もリスクが低く楽で、かつ賢そうにアピールできるからだ。

「呉座氏の批判にも一理あるが、厳しすぎるところがある。百田氏・井沢氏の良いところを評価すべきだ」という「足して二で割る」「中を取る」論評は、穏当で理性的な意見のように聞こえ(実際には無内容なのだが)、大多数の人間に好意的に受け入れられやすい。中立という体裁をとれば、どちらも敵に回さないで済む。しかもただの中立ではなく、判定役であれば、自分が攻撃される心配もない(通常は)。

だが、歴史研究に限らず、研究とは研究者が当事者意識を持って行うものである。研究に誤りがあれば容赦なく批判される。自分だけが一方的に論評できる、などということはあり得ない。学界は八幡氏が考えるほど甘いぬるま湯の世界ではない。人生の大先輩に対してこのようなことを申し上げるのは誠に心苦しいが、安全な場所から好き勝手に論評するというコメンテーター・評論家的な姿勢は、研究には最も不向きであるということを忠告しておきたい。

(編集部より;②は26日朝に掲載します)

呉座 勇一   国際日本文化研究センター助教
1980年、東京都に生まれる。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。『応仁の乱』(中公新書)は47万部突破のベストセラーとなった。他書『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)がある。

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