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白黒写真のカラー化

September.21 2023 シニア日記 comment(-) trackback(-)
最近NHKのテレビ番組で、昔の白黒写真をカラー化して映像を分析するのをよく見ますが、
自分が持っている白黒写真をカラー化してみたくなりました。
画像の編集・補正・加工を行うAdobe Photoshopというソフトにカラー化の機能があります。

ここに昭和18年の自分の白黒写真があります。

4301張家口1-2


これをこの機能を使ってカラー化してみました。

4301張家口1-2カラー

ただ、問題なのはワンクリックできれいなカラー写真になるとは限りません。
上の写真も多少の色補正をしています。

大変なのは、集合写真です。
下の写真は小学校1年生の時の遠足記念写真です。

1949井之頭公園JPG


これをAdobe Photoshopでカラー化すると

1949井之頭公園 のコピー1

これでは人物の肌色が出ていませんし、草木の緑もくすんでいます。
これを力づくで色補正したものが下の写真です。

1949井之頭公園カラーJPG

一人一人の顔や手足の肌色を補正し、草や木々の緑を補正してここまでカラー化しました。
この作業には時間がかかります。
一気に完成させるのはさすがに根気が続かないので、ぼちぼちと手の空いているときに作業しましたが、
連続でやっても数時間かかったと思います。

天国でココがつぶやいています。

年寄りの暇つぶしにはいいでしょ・・・




エクシブ軽井沢のコスパ利用研究

September.04 2023 シニア日記 comment(-) trackback(-)

8月27日から5泊6日で軽井沢のエクシブへ行ってきた。

今回はエクシブの最上級の部屋に泊まって、最もコスパの良い方法を試すことにした。

最上級の部屋はサンクチュアリ・ビラにあり、一泊¥33,000である。

エクシブのレストランで朝夕二食とる場合、.税サービス込で夕食のコースの最安値は@¥7,623、朝食のコースは@¥2,904。

したがって二人の一泊二食の合計費用は@¥54,054(33000+7623x2+2904x2)になる。

宿泊プランのディナーチョイスというのを使えば同じ内容が¥40,446となり大幅に割り引かれる。但し、このプランはエクシブで夕食のコース料理をとらなければならない。

さらに3泊以上連泊する場合、夕食はコースでなくアラカルトでも良いので、好きなものを何品か頼めば二人で¥10,000で済む。
二人合計の一泊二食が¥35,800となり、これが最もコスパがよさそうである。

ということで、この連泊プランで予約した。


宿泊した部屋はサンクチュアリ・ビラで、レトロで落ち着いた感じである。

ロビーには巨大な暖炉がデーンと居座って宿泊客を出迎える。


230830SVロビー

部屋に続く廊下はこんな感じ。

230830SV廊下

部屋は約121㎡もあり、広々としたリビングに

230827SV-6.jpg

居心地の良さそうなサンルームがついている。

230827SV-3.jpg

2ベッドのゆったりした寝室に

230827SV-2.jpg

あと三人は泊まれる和室もある。

230827SV-5.jpg

ジャグジーバスの浴室には洗面台とトイレ、シャワー室もある。

230827SV-4.jpg

おかーさんと二人で、「広いね~、贅沢だね~」「二人じゃもったいないね~」などと感激しあったが、
二日目からは目が慣れてしまったのか、あまり感心し合うことはなくなった。

到着した27日(日)の夕食は和食レストランの「花木鳥」で。
コース料理は量が多すぎるのでアラカルトにした。

まずビールを頼む。イカの塩辛みたいなものに大根おろし、いくら、なすなどの突出しが付いてきた。
お酒が進むおつまみである。

230827夕アラカルト-1

アラカルトでオーダーしたのは
旬菜三種盛り
お造り三種盛り
それに天ざる蕎麦
ざる蕎麦
を一品ずつ。これくらいで充分。美味しくいただけた。

230827夕アラカルト-2

店が誕生祝をプラスしてくれた。このお祝いは三日続いた。

230827夕アラカルト-3

28日(月)
朝食はゴルフに行くので7:15から早めのブッフェ朝食。


ワン友のMさんを誘ってグランディ軽井沢をおかーさんと三人で回る。

230828G軽井沢-1

前半の9ホールは無難に回れて、スコアは51にまとまった。

230828G軽井沢-2

しかし後半は13ホールを回ったところで暑さと疲労でギブアップ。クラブハウスに戻るには前をまわっている組を追い抜いていかなければならないが、キャディがついていなかったので手動運転が出来ず、どうしようかと迷っていた。
そこへちょうど、置き忘れたクラブを探しに来たゴルフ場の人がやってきたので、「熱中症でフラフラなんで、クラブハウスまで送ってもらえないか」と頼むと快諾。手動運転に切り替え、スイスイとハウスまで連れて行ってくれた。

夕食は予約が遅かったので、ブッフェ以外にとれず、まあいいか、とブッフェにした。
薄べったい牛肉ステーキは筋ばかりで噛み切れない。
お寿司は薄いネタで回転寿司より貧弱。
食べるに値したのはスモークサーモンとコーンスープくらい。
デザートのプリン、コーヒーゼリー、ヨーグルトはまあまあ。

この日も誕生祝の特別サービスがあった。

230828夕誕生祝

夕食後、翌日予約していたブッフェディナーをキャンセルして和食に変更してもらった。


29日(火)
朝食は和食のコース。
葡萄ジュース
お豆腐 (白ほたる寄せ豆腐 豆醤油)
野菜盛り(グリーンオーク 紫玉葱 紫大根 トマト 胡瓜 パプリカ 味噌マヨネーズ)
御 膳 (とろろ芋と汲み湯葉 蒸し鶏とポテトサラダ 煎り玉子 焼蒲鉾 柴漬け 鰯生姜煮 明太子 みどり大根卸し なめ茸滑子
馬鈴薯饅頭 蕎麦の実生姜餡 季節の干物 出汁巻き玉子)
御 飯(お 粥 - 又 は - 長野県産コシヒカリ白米 信 州 味噌の お味噌汁 葱 若 芽 お揚げ)
水菓子 (珈琲ゼリー ブルーベリー 花豆)

230829朝コース

夕食は妹と妹の娘夫婦が一緒で、ディナーチョイスプランの予約だったので、和食「花木鳥」のコースディナー。
<旬 菜>
玉蜀黍摺り流し 焼もろこし 汲み湯葉 オクラ
出汁ジュレ 山葵 小松菜と茄子揚げ浸し
烏賊わさび掛け イクラ クラッカーチーズ
スモーク鴨無花果 葱芋ソース 鯖小袖寿司
<吸 物>
枯節清まし仕立て 牡丹鱧 順才
叩きオクラ 梅肉
<造 里>
鰹 勘八 あおり烏賊 あしらい
<焼 物>
鱸 諸味醤油焼 玉葱摺り流し
蓮根ピーマン金平 翁葱
<冷やし煮物>
大船鮑と冬瓜スープ煮 南京 人参
共出汁スープ餡 振り柚子
<留 肴>
国産牛山椒鍋 葱 水菜 茸 紅葉卸し
<食 事>
玉蜀黍御飯 鮪山椒縮緬 香の物 赤出汁
<水菓子>
花豆あんみつ 寒天 白玉 小倉 黒豆
わらび餅 黒蜜 季節の果物
塩ミルクアイス

ここでも誕生祝のデザートが出た。
半分くらいしか食べられない。コース料理は無理である。

30日(水)
朝食はブッフェで軽く。
夕食はワン友のMさんと三人で、和食のアラカルトメニューで。

旬菜五種盛り
天ぷら盛合わせ
茶碗蒸し(Mさんのみ)
お任せ握り寿司(これはおススメ)

この組み合わせは大正解で、量も質も満足。

31日(木)
朝食はブッフェで軽く。

エクシブは4日毎に清算しなければならない。
フロントで清算書を見て驚いた。
予約したプランでなく、部屋代、夕食代、朝食代が別々に請求され、一番高い料金になっている。
連泊プランで申し込んだはずだが、どういう訳か調べてもらったら、
連泊プランの適用は9月1日からで今回の期間はディナーチョイスなら予約できたが、
アラカルトの時はディナーチョイスも適用されない。したがって部屋代・夕食代・朝食代が別々に請求される、ということだった。

エクシブの予約センタ―に電話で予約した時は連泊プランでアラカルト適用可能と確かめて、8月27日~31日の5連泊を予約したのだが、センターの担当者が連泊プランの期間を認識していなかったということだ。
エクシブ軽井沢の好意で、アラカルトの夕食でもディナーチョイスプランを適用してもらえた。


夕食はイタリアンのアラカルトで。

まず、前菜盛合わせ。ボリュームたっぷりである。

230831夕伊アラ-1

ピザはマルゲリータを。大きい!

230831夕伊アラ-2

パスタは牛肉と茸のリングイネ(ボロネーゼ)。すっごい量!

230831夕伊アラ-3

味に不満はないが、量が多すぎた。結局こんなに食べ残してしまった。


230831夕伊アラ-4


もし、またイタリアンのアラカルトをとるとすれば、前菜とオマール海老のパスタにしよう。

軽井沢エクシブのコスパ利用という観点からの結論は、
部屋をデラックススイート(スイートの大きい方の部屋)に2泊オーナーズデイ適用として、一泊二食が二人で¥31,850くらいで済む(この場合、エクシブで朝夕コース料理をとらなければならない)。
プランの融通を優先させるなら、素泊まりだけにして、食事はすべてホテル外でとるのが良い。宿泊代は一泊¥25,300.。
3日以上の連泊は素泊まりとオーナーズデイを組み合わせるのがコスパが良い。
エクシブのレストランは夏場は早めに予約しないととりにくい。特に中華料理の「翠陽」は今回全滅だった。




カメラ目線

July.07 2023 シニア日記 comment(-) trackback(-)
ココはカメラ目線のかわいい子でした。




090801-9.jpg

それも真正面から見つめるよりも、チラッと流し目で見たり、



100108-11.jpg

上目使いに見上げる目つきなんぞは、

100207-18.jpg

人間ならば銀座のクラブでも相当の売れっ子になるんじゃないかと思ったりしたものです。


120826-2.jpg



140626-4.jpg




150822-5.jpg




180504-6.jpg


ココに「バカ言ってんじゃないよ」とでも怒られそうですが・・・・。









ジャンプするココ

July.03 2023 シニア日記 comment(-) trackback(-)
ココは骨折前からお転婆でした。

骨折の包帯が取れてからは、有り余ったエネルギーが一度に放出されたようです。


007010ドリャ~!<>

放り上げた>タマゴちゃんを、あるときはムササビのごとく、


080325ヒョーイ!

ある時は水中から飛び上がるイルカのごとく、そのジャンプ力には驚かされたものです。



お散歩に出ても、気持ちよく飛び跳ねる姿は、空中遊泳さながらで楽しい思い出です。



091010どうどうこれどう




120717ソレ~!




120717ふわ~!!


ココの骨折

June.03 2023 シニア日記 comment(-) trackback(-)

ココの誕生日が過ぎて間もなく、外出から帰宅して今居間に入った途端、

ココがキャリーバッグの中から飛び出して床に落ち、

キャイーン、キャーンキャーンと泣きわめき、あわてて動物病院へ連れて行きました。



左の前足を骨折していて、即手術です。

ほそーい骨で、難しい手術でしたが、何とか鉄板と針で固定。

070918レントゲン

一週間の入院で自宅に戻りましたが、

070918お座り

骨がくっつくまで4か月はこのままガマンです。

071030寝転び7


ところが、遊び盛りのココはじっとしていられません。

071125青卵14

折れたままの足で、飛び回るのではらはらの毎日でした。




ココの思い出(1歳まで)

May.01 2023 シニア日記 comment(-) trackback(-)
ココは1月17日にこの世を去りました。

16年余り、ココを中心とした我が家の生活に終止符が打たれ、老夫婦二人だけの寂しい暮らしになりました。

その寂しさにも慣れ、ココとの暮らしを冷静に振り返れるようになりました。



生後2カ月半のココが我が家にやってきたのは、2006年の11月です。

熊本のブリーダーさんから飛行機で送られ、羽田で出迎えられました。

061111パパママとボカシ

体重はわずかに650g。羽田から車で家に帰る途中、ココはお母さんの膝の上でお漏らししました。

家について、ケージの中に敷いたトイレシートに乗せ、「ココちゃん、トイレでシーシー」と繰り返し、ちゃんと出来たらケージから出してあげるようにして、トイレのしつけをしました。ココはお利口さんですぐに覚えてくれました。

061111-6.jpg

幼いトイプーはとても活発です。全速力で部屋中を駆け回り、卵ちゃんを追いかけ、紐をくわえて引っ張ります。

061118目をむいて紐引くココ

年が明けて、初めての旅行は軽井沢です。部屋の中でも冷えるので、服を着せて靴下をはかせたら犬とは思えぬいでたちとなりました。

070125靴下ニワトリになったココ

ココは外に出ると怖がって、なかなか歩いてくれません。下北沢は人通りも多く、色々な音がするのでびくつくのでしょう。
軽井沢では、それほどビビることなないのですが・・・・。

070329お散歩17首吊り


6月になるとイタリアから姪が娘二人を連れてやって来ました。


070623ガイア&ココ16

ココは初めのうちは抱きしめられても我慢していましたが、だんだんと子供から遠ざかるようになり、無理に捕まえようとすると歯をむいてうなるようになってしまいました。

この癖は生涯なおることはありませんでした。


070702アーニャ&ガイア-11

夏になると、東京の暑さを逃れて軽井沢です。

軽井沢の駅前にある軽井沢ショッピング・プラザには芝生の広い庭があるので、よく連れて行ったものです。


070824-3ぼかし

さて、夏が終わり、東京へ戻ってから大変な事件が起こりました。(次回へ続く)



酸素ボンベは自宅使用無理。

November.28 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
今月の17日、ココの呼吸が早くなり倒れこみました。

行きつけの病院で診てもらい半日入院治療。3回目の肺水腫による呼吸不全でだんだん悪くなっているとのこと。

自宅へ戻る時、酸素ボンベを借りてきました。

DSC02877.jpg

重さが10キロ近いシロモノです。フレイルの私には二階まで運ぶのに青息吐息です。

マスクを手で固定するため付き添わなければならない。夜もうかうか眠っていられない。

それに連続使用だと8時間で酸素を使い切るので交換しなければならない。

というわけで、酸素濃縮器をレンタルすることにしました。

DSC02878.jpg

これならケージを酸素室にして、らくちんです。

少々高くつきますが、命にかかわることなのでお金の問題ではありません。

今は酸素マスク着用しなくても症状が落着いています。

DSC02881.jpg




今週、軽井沢からの引っ越しが完了します

October.16 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
軽井沢の引っ越し作業も大詰めを迎えています。

221016パラ-2

東京へ宅急便で送るもの、車に積んで持っていくもの、こちらに残しておくもの、赤帽に運んでもらうものを分類・梱包し、
廃棄するものはゴミの種別に分別してゴミ処理場へ運びます。

221016パラ-1

窓の外の紅葉はまだ始まったばかりです。

221016パラ-3

見頃になる前に、軽井沢を離れることになりそうです。


ココは夜の徘徊が増え、ベッドの上では危ないので、床に一緒に寝るようになりました。

IMG_20220717_230623.jpg



車の移動も我慢がきかず、泣きわめきます。もう長時間の車旅行は無理なようです。

獣医さんは認知症で怒りやすく我慢できなくなることもあると、認知症の薬をくれましたが、
効き目はありません。

帰りの道中が思いやられます。




軽井沢の生活に終止符を打ちます

October.01 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
80歳になると頭と身体が動くうちに身辺整理しなくちゃ、と気になり始めます。

まず最初に手を付けたのが、東京と軽井沢の二重生活です。

年に四か月ほど過ごす軽井沢のマンションを売却し、残す家財と東京へ持ち帰る家財に分け、
引っ越しの作業に入りました。

このマンションは東京の自宅よりも住み心地が良く気に入っていました。

4パラディアLD

マンションには珍しく暖炉もあり、贅沢な造りです。

7パラディア暖炉

寝室が二部屋、トイレ、シャワーも二箇所にあり、大家族でもだいじょうぶ。

キッチンも広くて使いやすく、外食の少ない我が家では重宝しました。

8パラディアキッチン

軽井沢というと避暑地のイメージですが、秋の紅葉も素晴らしいのです。
紅葉が楽しめる10月は夏の喧騒も嘘のように静かになり、一番のお気に入りの季節です。

19パラディア北側景色
(北側寝室からの景色)

こんな軽井沢の生活に10月末で終止符を打ちます。




ココ何とか16歳になりました

August.25 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
ココは本日めでたく16才になりました。

人間の歳でいえば80才、ちょうど私と同じ年齢になりました。

このところ肺水腫や心臓の血液逆流、軽い腎不全などですっかり衰弱してしまいました。

体重もピークの2.3Kgから1.1Kgにほぼ半減し、おむつをしてほとんど寝てばかりです。

220825-1.jpg

足腰もすっかり弱り、よたよた歩きです。

その点、私も同じでコロナが終息しても普通に生活できるか、心細い限りです。

コロナのために寿命が3年縮み(多分その位は体力が衰えたと思います)、コロナ流行期間の3年が無駄に過ぎ、随分損した気がします。





新型コロナ第7波のピークはいつか?

August.22 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
新型コロナウィルスの第7波が猛威を振るっています。

第7波のピークがいつ頃になるのか、そしてその後の大底がいつになるのか気になるところです。

NHKの特設サイト「新型コロナウイルス 日本国内の感染者数」を使って、感染者数の7日間移動平均を分析すると、これまでのピークと大底は次のようになりました。


第2波ピーク: 2020/8/9: 感染者数1,381
第2波大底: 2020/9/24: ピークから大底までの間隔、46日 、 感染者数 428

第3波ピーク: 2021/1/11:大底からピークまでの間隔、109日、感染者数 6,495
第3波大底: 2021/3/2: ピークから大底までの間隔、50日、感染者数 978

第4波ピーク:2021/5/14:大底からピークまでの間隔、73日、感染者数 6,440
第4波大底: 2021/6/21: ピークから大底までの間隔、 38日、感染者数1,427

第5波ピーク: 2021/8/25:大底からピークまでの間隔、 65日 、感染者数 23,190
第5波大底: 2021/11/28 : ピークから大底までの間隔、95日、感染者数 96

第6波ピーク:2022/2/11 :大底からピークまでの間隔、75日、感染者数 92,791
第6波大底:2022/6/20 :ピークから大底までの間隔、129日、感染者数 13,987

大底からピークまでの平均間隔 80日
ピークから大底迄の平均間隔 72日

第7波の現在   2022/8/21  62日  感染者数 218,881
昨日現在では第6波の大底から62日しか経っていません。
一時ピークを過ぎたように見えましたが、昨日は前週比で100%を超えて過去最高と増加傾向に転じました。

非常に大雑把な見通しを立ててみましょう。

大底からピークまでの平均間隔80日を当てはめると、第7波のピークは9月8日となり、その後大底までは平均間隔72日を当てはめると、11月19日となります。(厳密には過去7日間の移動平均で計算しましたから、正しいピーク、大底は上記の日付より3.5日早い日となります)

以上をグラフ化したものを下に示します。

新型コロナ感染者数グラフ

上記の予想は最も早い場合のピークと大底で、第7波の高さを考慮に入れれば、恐らく1カ月くらい後ろにずれ込むのではないかと思います。

同窓会など大勢集まる会合は、11月中旬以降12月中旬までくらいの開催を目安に考え、第7波のピークを確認した段階で大底の時期を再検討した上で開催日を調整すればよいと考えています。


「消えた部隊長」

August.17 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
終戦記念日がある八月は、テレビ番組も戦争関係の番組が多いですね。
私自身は昭和20年の八月に3才になったばかりで、覚えているのは防空壕の土のにおい位です。

私の父は中国で6月に召集され8月に終戦となり、所属部隊が武将解除され、収容所に入れられました。
その時の思い出話を「消えた部隊長」という題で書き残してありましたのでご紹介します。

「消えた部隊長」

(一)

支那式暖炉の灰落しの中に抛りこんでおいた馬鈴薯のこげる匂が微かに鼻をつく。「もう焼けてるんじゃないか」と私が声をかけると兵長の北川が火掻棒で灰にまみれた小粒の薯を三つ四つ掻き出した。「あつつ、あつつ」と手の上で灰を落して皮をむき、口の中へ抛りこんで「あ、ほんま、よう焼けとるわ」そう言いながら手ばしこく薯を掻き出し、皿に盛って私にすすめてくれた。
私は書きかけの「大隊新聞」の「内地雑報」が一段落したところで筆を措いた。この新聞は、口泉鎮の収容所に入れられた独立第二十七大隊の将兵に、敗戦後の故国の様子を報せたり連合国に占領されていても日本内地の秩序は一般的によく保たれて居り、俘虜達の間に私語かれるような忌わしい占領軍の掠奪や暴行はほとんど起っていないことを教え、マッカーサー元帥の統割の下に新しい民主主義の芽が育とうとしている事を判り易く教えるのが目的である。兵隊達は何よりもニュースに餓えている。ともすると日本が受けた戦禍を極端に考え過ぎ、食糧危機を実際以上に深刻に思いつめてしまう。廃虚の中の飢餓地獄であり、復員兵は片っ端から戦犯として登録され、占領軍の苛酷な使役に追立てられいると思い込んでいる者も多かった。
ガリ版刷の大隊新聞は私が丸尾大隊長に具申して始めたものだ。丸尾少佐は、私の説明が終わらないうちに、判った、やってくれと言った。そこですかさず幾つかの条件を並べた。
①  専用の部屋が一つほしい。
②  助手を一名つけてもらいたい。
③ 感度のいいラジオを提供すること。
④ 中国語と英語の初等講座を設けるので、大隊の中でそれぞれ堪能な兵隊を探してほしい。
⑤ 各中隊長に新聞の趣旨を話し、兵隊の結束を計り、意欲を盛上げるため投稿を募集してもらいたい。
⑥ 発行部数は二〇〇部程度、五人に一部ぐらいの割で各部隊に配る。
⑦ 発行は旬刊としたい。
部隊長はあっさり条件をのんでくれたので事はすらすらと運んだ。
敗戦の年が終り、翌二十一年の一月三日に「二十七大隊新聞」第一号が、ザラ紙四頁刷で産声を上げた。
新聞の反響は思ったより大きく、確かな手応えがあった。復員の時持って帰りたいから、一部づつ余分にもらえないか、と頼みにきた下士官もいた。それは駄目だ、復員船に乗る前に米軍の検閲に引っ掛かるよ、と私は説明した。だから新聞は各隊ごとに必ず回収して焼却してもらうことにしている。もし隠して、そんなものがアメ公に見つかったら、天津あたりで抑留されるかも知れないぜ。こう威かすと下士官の髯面が硬ばった。判った、判ったよ。此処まで死なずに来て抑留されちゃあたまらねえもんな。でも伊藤さん、その復員の事ですが、いつ頃になるのかなあ。
そりゃあ蒋介石にでも聞くんだな、と私は笑った。笑いながら、ちくっと胸を刺すものを感じた。復員の日程は、大隊本部はおろか旅団司令部にまでのばした私の情報ルートにも掛ってこない。ということは、はっきり言えば、まだ日程そのものがない、と思わなければならない。

北支方面軍の他部隊や、中南支部隊の復員は二十年の十月頃から始まっているらしい。こうした場合、奥地部隊を優先的に、天津上海などの復員基地に集結させるのが普通だが、船腹の関係で、港に近い部隊を先に帰すとしても、奥地部隊は引揚港へ向って動き出してもいい筈だ。それが、他部隊は知らず、この北支那第一軍に属する一万五千の将兵は山西省北の各地収容所で冬を越そうとし、天津方面への移動の気配は全くない。
何かある、と私は感じていた。ポツダム宣言の無条件受諾によって、日本軍は全戦線で武装解除され、一部戦犯を除いては速やかに復員しなければならない。それが建前だが船腹や陸地輸送能力の問題とは別に、第一軍の収容地区には、無理にも日本軍俘虜を引留めておきたい無気味な理由があるようだ。
その事について親友の下島上等兵と話したことがある。下島は第二中隊命令受領の伝令で、私が通信班の伝令をしていた頃、同じ伝令室で枕を並べ毎晩のように寝物語をした間柄だ。下島が藤枝市の出身であり、私の妻が伊東市川奈生れだったので、下島の話し方に静岡地方一般の訛りがあることに親しみを感じた。十七年徴兵の正規兵で十九年の初め丸尾大隊に配属された古参上等兵だが、私の方はは二十年六月、勤務地張家口で現地召集された星一つの初年兵である。と言っても年齢は下島より十も上の三十二才で、意地の悪い班長や兵長などに言わせれば「うまく兵隊を遁れて、娑婆で散々甘い汁を吸って来た老頭児(ロートル)兵」であり「鉄砲の打ち方も知らない員数兵」という訳だ。事実、入隊後二ヶ月の掃討作戦や、駐屯地オルドス平原の小部落から四百粁、砂礫と草原を十日間歩き続けた惨たる撤退行軍では、鍛え上げた古兵と「娑婆でしたい放題をして来た」老頭児兵の違いをいやという程味わわされた。然し、その撤退にも何とか耐え抜き、大同南方の、炭鉱で有名な口泉鎮の日本人社宅村 既に日本人社員は大同市中に引揚げ、百数十棟の家族宿舎はもぬけの殻だった についたのが八月二十五日。此処で初めて日本の無条件降伏を知り、「日軍徒手官兵収容所」という看板をぶらさげた炭鉱社宅村に腰を落ちつけてから、わたしは古参上等兵や下士官連中との距離を少しづつ縮め始めた。命令受領の伝令という役柄は普通かなり年期の入った兵隊から選抜される。まして通信班命令受領者の佐古軍曹というのが、実戦経験はともかく、書いたり読んだりが全く苦手で、昼間から命令受領室の一隅に寝そべり、呼集ラッパが鳴っても、伊藤行ってこい、と寝たまま怒鳴るだけの男だった。私は他の受領者と駆けつけ大隊副官が口述する命令を筆写し、ほかの連中がもたついている間に書終わり、副官から命ぜられて伝達命令の復唱をする。林副官は、よおし、命令終り。解らん奴は伊藤に聞け、と言って立去る。一月足らずで、通信班長の副池曹長が佐古軍曹を原隊に引揚げ、わたしを正式命令受領者として副官に申告した。伝令なしの、二等兵の命令受領など前代未聞だが、副官は、まあいいだろう、と承諾した。

命令受領になっても二等兵なので伝令室で寝起きした。相変らず下島上等兵が隣りに寝て、わたしが張家口の商社に居た頃の波瀾に富んだ経験談や、二十年三月、敗戦の近いのを感じて張家口から女房と二人の子供を連れて日本へ帰り妻子を川奈の母親に預けた上単身東京で会社の用件を果して五月上旬、再び張家口へ戻った話、在京中兄の疎開先、鶴見の寺尾の丘から、四月十五日夜の大空襲で、焼けただれる東京西南部、川崎鶴見などの重工業地帯の猛炎を一晩中眺めていた話などを話すと、下島は感に堪えぬように合槌を打ちながら熱心に耳を傾けた。三年兵にしては純粋で、喋るよりも聞き上手な男だった。
命令受領から部隊長付という、一般の兵制にはない特別の役割を仰せつかって丸尾少佐の宿舎の隣りに一室当てがわれて移転したのは十一月初めの事だ。下島は時々暇を見つけて訪ねて来た。復員関係の情報について少しでも聞き出したかったのだ。
その下島が二、三日前、妙なことを言い出した。
「なあ伊藤さん、おらあたちはこのまま抑留されて、日本にゃ帰れねえなんて噂があるけど、あんたあどう思う?」「そんな馬鹿なことはないさ」と私は言下に否定した。「そんなことすりゃあ明らかにポツダム宣言違反だ。アメリカや蒋介石が黙っちゃいないよ」
「けどよ、現に俺達は戦わされてるじゃあ。おら中隊でも死んだ奴はいねえけんど、負傷者は三人も出たしよ」
下島の言うのは事実である。昨年十二月以来共産党八路軍の活動が俄かに活発になった。国民党系の傳作義(ふさくぎ)軍を豊鎮、朔縣などで破り、晋北地帯の中枢大同に封じこ篭めて三方向から圧迫を加えているという情報は、丸尾少佐や林副官の対話の断片からも私には読みとる事が出来た。十二月に入ると四回も日本兵俘虜に非常出動が命ぜられた。武装解除を受け小銃も手榴弾も手許にはない。一括して武器庫に保管され中国兵が警備している。非常呼集がかかると日本兵達は武器庫に駈けつけ、中国兵から一人々々に小銃と弾薬を渡される。時には四五人がかりで重機関銃を引張り出すこともある。頼りなげな中国将校の命令で、日中混合部隊が、時には徒歩で時には十数台のトラックで口泉鎮の部落から出動してゆく。小村落に侵入した八路軍を追払ったり、大同から太原へ通じる幹線鉄路の寸断を狙う共産軍を撃退するのが目的だ。下島の言う通り、各中隊から或程度の損害も出ている。動揺を恐れて発表は秘しているが、五中隊二名、一中隊一名の戦死者を出していたのだ。私は「部隊長付」という役目柄、歩哨に立つこともなく、まして非常出動したこともないが、共産軍の攻撃は日増しに激しく、国民党系地方軍閥の旗色が頗る振わないことは充分判っていた。もともとこの地区は国共合作時代から共産軍の勢力が強かったし、日本軍の降伏と共に始まった国共内戦では、西北、東北地方に次いで、共産軍が着実に制えている地域だった。まして張家口を中心とする南地区にはソ聯外蒙の連合軍が終戦の直前大挙侵入し、国民党の抗議を拒けて居すわっている。この勢力を背景に、内蒙地帯に散在した八路軍が大同を大きく包囲する態勢を取り始めたのだ。太原迄の鉄路破壊など雑作もないことだが、傳作義のために遁路をあけておくというのが、共産党ならずとも、どうやら中国古来の戦法らしく思えるのだ。

馬占山軍を加えて大同地区の国民党系兵力は二万五千と称されるが、旧日本軍はこれを雑軍と呼び、装備士気共に極めて劣悪、十五、六の少年兵から六十過ぎの老兵まで含んでいる。兵隊になっていれば何とかその日その日の喰物と寝る所だけはある。雀の涙ほどでも給金は出るという理由だけで掻集められたのが半分以上だから誠に雑軍という名にふさわしい、頼りにならぬ軍隊だったのである。こんな連中と、要所要所に狩出された僅かな日本兵だけで延々二百粁の鉄路を護り切れる道理がなかった。
「何たって八路(パーロ)は恐いよ。あいつ等蜘蛛の巣のように連絡の網を張っててよ、日本兵の手薄なとこをよおく知ってて、必ず叩きにくるからなあ」と下島は言った。「これじゃあ日本軍を帰すことも出来ねえずらよ」
「そんなことを中隊の中で話し合ってるのか」私は下島の顔色を窺った。
「おらあ中隊だけじゃあねえさ。此の頃じゃあどこの隊だってみんなそう思ってらあ。俺たちや中国の内戦に否応なしに引張りこまれて身動きもとれねえってな。一体、旅団本部や第一軍のお偉方あ何してるだかね」
わたしだって同じ思いでじりじりしている。四ヶ月経っても貨車一輌廻して寄越さぬ裏には地方軍閥の思惑が搦んでいるに違いない。しかも問題は大同地区だけでなく、第一軍主力が抑留されている山西省太原
つまり山西軍閥の巨頭閻錫山(えんしゃくざん)が何を考えているか、ポツダム条項をどこまで忠実に履行する意志があるかにかかっているような気がする。しかしこの事は下島には話さなかった。その代りに、
「なあに、貨車の手配がつけば輸送も開始されるよ。日本の捕虜を内戦に引張りこんだらアメリカやソ聯が黙っちゃいないさ」と自分でも確信のない言葉で下島を慰めた。
「そうかなあ」下島ははっきり不信の色を浮べて、「でも伊藤さん、みんな大隊新聞の記事なんか信じちゃいねえよ。あんなのは兵隊が八路の方へ逃げ出すのを抑えるための出鱈目だなんて言ってるぜ」
「そう思いたい奴には思わせとくさ。だけどなあ下島君、八路の宣伝に踊らされるなよ。部隊長も言ってる。復員は必ず完結させる、それが指揮官の絶対責任だってな」
下島は不信を表明するように薄ら笑いを浮べて帰って行った。かなりの兵隊が下島の言うように、新聞の情報を信じていない、ということは私にとってかなりのショックだった。ラジオで聴取った日本内地のニュースをもとにして、嘘や煽動めいたことを書いた覚えはない。そんなことより兵隊の最大関心は、いつ帰れるかという事だ。復員兵を満載した何輌かの貨車が太原方面へ出発するのを自分達の眼で見たいのだ。
英語や支那語の講座なんかどうでもいい。民主主義など糞喰らえである。
北川兵長が鉄筆をガリガリ言わせながら、小まめな字体で原紙を切り始める音を聞きながら、私は畳敷の社宅にごろりと横になった。窓から瑠璃色の深い冬空が見える。近くの山は一木一草もない褐色の巨大な岩塊であり、その向うには青味を帯びた山脈が望まれ更に遠く紫紺色の連山が空に接している。ゴビ砂漠との境界をなす陰山山脈である。毎日見る眺めだが、雄大な、パノラマのように鮮明な色彩の重なりに、新しい郷愁をそそられる。疲れて少しまどろみかかった時、北川兵長に起こされた。部隊長から呼出があって、すぐこいというのである。


(二)

独立第二十七大隊はオルドス平原の中心、托克托(タクト)に大隊本部を置き、和林、涼城などに中隊を分駐させて関東平野ほどの広さを千人足らずの兵力で守って来た守備隊だった。大同に司令部を置く独立混成第百六旅団の指揮下にあり、更にその上は太原を本拠とする北支方面麾下の第一軍である。大隊長丸尾三勇少佐は三十五才。二十年十一月大尉から少佐に進級したのでポッダム佐官などと陰口をきく者もあるが、鹿児島県指宿(イブスキ)の出身で、一七五糎七五キロ瓩の堂々たる偉丈夫だ。相手を射すくめるような鋭い眼差しや、意志の強そうな真一文字に結んだ口許には、広大な防衛前線を寡兵で守り通し、敗戦の朝から十日間、豪雨と暑熱、泥濘と黄塵の数百粁を、雑軍や八路軍の執拗な追撃を拒けて、集結地口泉鎮へ見事な撤退をやり抜いた冷静さと豪膽さが秘められている。一面、将校連と会食する時など、大口を開けて肚の底から哄い、磊落で意外な親しみ易さを見せたし、わたしらに話しかける時などちらっと見せる眼付に、子供っぽい悪戯っ気を含ませたりする。私もこの部隊長に対してはいつもながら、畏敬と親愛のまじった不思議な気持にさせられる。
二十年六月、張家口で召集された三十二才の初年兵だった私が、現在のように部隊長付、言うなれば部隊長顧問のような役割を与えられ、一般の兵隊とは格違いの待遇を受けるようになったのには一寸した経緯がある。
厳しい冬の前触れを感じさせる十月半ば、通信班長の福池曹長から、大隊で一番碁の強い者は申告しろという命令が出たという話を聞いた。おかしな話なんだ、と関西で鉄鋼所を経営していて召集されたという班長はにやにや笑いながら説明した。
「丸尾部隊長の当番兵いうのがなあ、何でも日本碁院の五段の梶原とかいう二等兵なんやそうや。それでなあ、部隊長は先日大同へ行った時、旅団長と碁を打ってこてんぱんに負かしたらしいんやけど、つい得意になって、梶原の話をしてしもうたらしいんや。それでお前、梶原二等兵は旅団本部転属や。旅団命令ちゅう訳やからどうもならん。そこで負けん気の部隊長のことやで、躍起になって碁の強い兵隊を探しとる、とまあこういう訳や」
私は班長の顔を暫らく眺めているうちに考えが決った。当時私の碁力はせいぜいアマチュアの二、三級。プロの五段には九子をおいても相手にならない。第一、大隊で一番強い者は申し出ろと言ったって、大会でもして決める訳ではなし、どんな打手がいるか判らないのだから何とも奇妙な話だ。しかしそこがツケ目でもある。
「班長、私を申告して下さい」
「ふうん」と福池曹長は唸った。「お前どの位の腕前やね」
「いいところ二級ぐらいです」
「そらーあかん。その程度の奴ならどの隊にでもうじょうじょしとるで、恥掻かされたら、こっちまでが阿呆らしくなるわ」
「大丈夫です。ほかに申告する者はいませんよ。いたらそれと勝負つければいいじゃないですか」
「心臓やなあ」と班長は顎をなでたが、「まあええわ、副官殿に申告しといたろ」と引受けてくれた。

三日程して班長が呼びに来た。大隊長の所へ一緒に行けというのである。道々の話では、やはり他に申告した兵隊は一人も居なかったらしく、とにかくその伊藤という兵隊を連れとこいということになったらしい。
四、五人の将校の真中に部隊長の大きな身体があった。班長の申告を聞いて肯づき、わたしに向って、上れと言った。
「現地召集の兵隊か、お前」と部隊長は鋭い眼で私を見た。はい、そうです、と答えると、「碁は強いか」と訊いた。
「はい強いです」と私は悪びれず答えた。
「梶原とどっちが強いか。プロの五段だ」
「解りません。まだ打ったことがありませんから」
部隊長は急に顔を崩して笑い出した。強(きつ)い眼が何とも言えぬいたづらっぽい柔らかさを湛えているのに初めて気づいた。部隊長は、「じゃあ先ず副官とやって見るか。林中尉、碁盤を持ってこい」と上機嫌で言った。
盤をはさんで林副官と私が坐った。
「副官殿は梶原五段に何目でお打ちでしたか」と聞くと星目(九子)だと答えた。では九子置いて下さい、と私は言って白石を引寄せた。
プロの指導を受けていただけに副官の筋は中々よかった。手堅くて突け入る隙がない。数十手進むと、黒のどの石も危なげなく、此のまま打進めたら三、四十目は引離されそうだ。私は肚を決めた。プロなら絶対打たない無茶な手を、右辺黒の大石のど真中に打込んで見た。
「何だ、ひどいことをやるねぇ」と林中尉は早速この白を取りに掛かる。十数手、喰うか喰われるかの激しい混戦になり、ついに黒がボロを出した。大きな見損じで分断された黒の大石が頓死したのである。打ち終って数えて見ると六十目余り白の勝である。
「こりゃすごい、梶原より強いぞ」と部隊長が大声を上げた。梶原五段は同じ九子で副官や部隊長と打ってもせいぜい二、三目しか勝てない。それを伊藤は、いきなり六十目も勝ってしまうんだからものすごく強い。こういう計算なのである。
これで正式に部隊長の碁の指南役と決まり、宿舎も将校室の隣り、当番兵の溜りに変わった。毎日呼出がある度に丸尾少佐や副官其の他の将校の碁の相手をしていればいい。特別待遇で将校食を給与された。
大隊本部の経理将校は石井という東大在学から志願した若い主計少尉だった。米や白麺(小麦粉)などの主食は充分貯えがあったが野菜や豚肉鶏卵などは中国側からの配給もなく自力で調達しなければならない。無論、聯銀券や蒙幣(蒙古政府紙幣)などは紙屑同然になっている。唯一の購入法は、大同兵站部から引取って来た多量の衣料品の一部を食糧と交換するだけである。中国語がほとんど解らず、物価事情にうとい石井少尉が中国の仲買人につけこまれて悩んでいる事が私にもよく解った。私は張家口在勤当時、生活必需品の購入配給や物価調整に当っていたので、こうしたことはお手のものだ。「石井少尉、一緒に行ってあげましょう」と折を見て助力を申出た。

綿布、綿、蒲団、靴下、手袋などの品ごとに、豚肉鶏肉、卵などとの交換比率を書上げ、仲買の商人共に押しつけた。商人達は怒ったり罵ったりしたが、結局入札という事になると、手の平を返すようにこっちの交換比率を呑みこんだ。どうやらこれで、これまでの二倍以上の食糧が入手できると言って石井は眼を輝かして喜こんだ。
石井少尉からこの報告を聞いて丸尾大隊長は何か考えていたが、私の肩を叩いて「貴公、その肩章を取ってしまえ、大隊長顧問だ、階級章は邪魔になる」と言った。
こうして、大隊の中で唯一人、階級のない兵隊として私は将校達からもある程度敬意を払われながら、部隊長の相談役としての地歩を固めて行ったのである。勿論それでどうという目的があったわけではない。あけすけに言ってしまえば、不寝番や歩哨に立たされず使役も免除され、十二月に入って始まった非常出動にも狩り出されず、将校並の食物と充分な睡眠時間を満喫でき、さまざまな情報に最も近い位置に居た上、毎日を何よりも退屈しないですむという特典を享受できたことに満足していたわけだ。
この非常出動とは、共産八路軍が大同守備の傳作義軍に急襲をかけてきた時に劣勢の傳作義を応援するため、我々捕虜の日本兵を狩り出すことだった。我々にはポツダム協定違反として拒否することはできない。
部隊長室には鳥原一等兵も呼ばれて、私の来るのを待っていた。丸尾少佐はこれは貴公等だけに話すことだ、ほかには誰も知らぬ重要な話だからそのつもりで聞いてくれ、と真剣な面持で前置した。鳥原は召集前、蒙古政府多倫(ドロン)駐在の警察官で、中国語は一等通訳の資格を持っている上、諜報活動についてかなりの経歴があり、目はしの利くすばしこい男である。ある点、丸尾少佐は正規将校達よりこの男の方を買っていたようだ。
「タイリュウ載笠中将について聞いたことがあるか」と部隊長は二人の顔を見た。わたしには心当りがない。鳥原も眉を寄せて考えていたが、知りませんと答えた。
「ランイ藍衣社というのは知っとるだろう。ドイツのゲシュタボに当る国民党の組織だ」二人がうな首肯づくのを見て「その最高指導者、つまり藍衣社の頭目が載笠将軍だよ」最高の秘密警察として、中共軍の脅威のまとであり蒋総統の親衛隊でもある藍衣社十万人を統率しているのが載笠中将である。総統の絶対的信頼を受け、国民政府の軍官上層部に隠然たる勢力を持っている、と部隊長は説明した上、
「その載笠から呼出しが来たんだ」とつけ加えた。
私は鳥原と顔を見合わせた。
「戦犯関係ですか」
鳥原が顔色を探ると少佐は愉快そうに眉を揺って笑った。
「とんでもない。招請状だよ。国民軍への」
と言って一通の封書を二人の前に投げ出した。赤い罫のある用箋に、毛筆で認められた手紙には、マルタイジン丸大人の国民軍参加を希望する、将官としての地位を約束する、と言った内容が読みとれ、達者な手で載笠と読める署名もある。半信半疑の私たちの顔色を見て、少佐は手短かに経緯について語った。

五年前のことだ。彼がまだ新参中尉で、蒙旗地帯の貝子廟(べいずみやお)特務機関分隊長だった頃、共産匪に追われて分遣隊へ逃げこんで来た便衣の中国人があった。
四・五人の部下は殺されたり捕われたりして、進退窮まった挙句、日本特務機関へ転がりこんだのである。四十代半ばのこの男は、藍衣社の満蒙地区責任者載笠だと名乗った。八路軍の内蒙工作を妨害し、農民を国府側につなぎ止め組織化する狙いで潜入したのだという。九分九厘成功しかけた時、八路側に通報するものがあって急襲された。同行した部下が身を挺して防戦する隙に、辛くも包囲を切抜け執拗な追撃をかわしながら一か八か、丸尾中尉の懐に飛びこんだのだという。
むろん国・共とも、日本軍の当面する敵であった。正規兵であろうと便衣の密偵だろうと敵に変りはない。ぶち込むのも殺すのも分遣隊長の意のままだった。
特務機関に勤務するだけに、丸尾は藍衣社について或る程度知っていた。将来日華関係がどう変化し、どう終熄するか解らないが、藍衣社の果す役割は大きなものがありそうだし、現に関東軍や支那派遣軍の上層部には、この蒋介石の親衛隊と秘かにルートを持ち、行詰った事変処理の方向を模索している者もあると聞いていた。便衣に身をやつしていても載笠の面(つら)魂は将来藍衣社の中堅となるだけの凄味が感じられる。生死を預けた丸尾中尉と談笑し、出された食事を悠々と平らげ、すすめられた煙葉を旨そうにくゆらしている。
どこまで連れて行けば安全か。
丸尾が訊くと、張家口の駐蒙軍司令部まで連れて行ってほしい。司令部には面識のある高級将校がいるから、北京経由で南京に送ってもらえるだろう。南京に着いたらそこから重慶迄のルートは何とでもなる。載笠は自信があるらしく微笑を浮べて答えた。
貴公を助ける事は日本軍の為にプラスとなるのだろうか。
むろんだ、と載笠はきっぱり答えた。いづれ日軍と国民党とが協同して共産軍と戦う日が来る。
丸尾中尉はそこまで藍衣社幹部の言葉を信用したわけではないが、とにかくこの窮鳥を助けることに決めた。堂々たる押し出しと、丸尾が今でも敬愛している郷土の英雄、西郷南州にどことなく通じる太い眉や大きな眼などに魅かれたのかも知れない。
温かみのある分厚い掌で丸尾の手を握りしめながらあなたの好意は決して忘れまい、と載笠は言い、丸尾の手配した日本軍の軍服を着込み、分遣隊の兵隊に護られて張家口へ去った。数年経ち、その載笠が藍衣社の頭領となり、蒋介石の片腕として南京を中心に、重慶、武漢、上海、北京、長春などと縦横に飛廻っていることを太原の特務機関から聞いた時、丸尾は、大きな掌の温みと、中国人には珍しい大きな眼を思い出した。
その載笠が音信を寄越したのである。いや、単なる便りではない。俘虜収容所から脱出して南京へ来いというのだ。手紙は藍衣社の張り廻らされた連絡網を通じて部隊長の手許に届いた。「すると部隊長は」と鳥原は喰い入るような眼で少佐を凝視めた。
「むろん行く心算だ」と断固たる口調で少佐が答えた。
「そう返事を書いてやったよ」
「でも、どうやって南京まで行くんですか」と私が口を挟んだ。
「先ず厚和(現在のフフホト呼和浩特)へ出る。厚和は馬占山軍が制えていて、国民党の飛行場がある。小型機で、南京までは三時間もあれば行けるんだ」
厚和までの百五十粁は、藍衣社側で馬車(マーチョ)や便衣食糧一切を手配し、部落から部落へ張り廻らしたルートを利用し、八路軍の包囲網を潜って安全に案内するという。
「貴公等に此の話をしたのはだな」と丸尾少佐は鋭い眼で二人を見た。「俺と一緒に行く気があれば連れて行こうと思ったからだ」
「何をするんです。私達は」
半ば少佐の言葉を予期していた私が訊くと、
「手を貸してもらいたいのだ」と即座に部隊長が答えた。仕事は幾らでもある。作戦の指揮や、旧日本軍との連絡、日本軍兵器の接収、米軍との接衝、山のような仕事がある。君らがその気になれば、少なくとも藍衣社の佐官級に推薦してやれる。これは雑軍の少将や中将とは比べものにならない権限をもつものだ。
「どうだ、やるか」と少佐は光る眼で二人を見ながら言った。
鳥原は勢込んで「やります」と即座に答えたが、私はとっさには心を決め兼ねた。独り者の鳥原と違い私には実家に預けた妻子がある。いろいろ障害はあろうが、此の儘じっと待っていたら内地への生還の望みは充分考えられる。載笠中将との奇縁は確かに面白いが、結局は国共内戦の渦中に身を投じ、どれほどの危険とどの位の歳月を掛けねばならぬか見当もつかぬ。そんな立場に自ら飛込んでゆくことに強い躊躇(ためらい)を感じた。第一に、大隊長が口泉鎮を脱したあとの大隊はどうなるのだろうか。心中の動揺を隠して、藍衣社の迎えの者が来るのはいつ頃か、と訊いた。
「三月の中旬だろう」と少佐が答えた。
「何故私など必要なんです」
「貴公等なら必ず役に立つからだ」 と部隊長は明快に答えた。先ず中国語や英語の力。現地生活の経験、兵隊だけで何年支那にいても何の役にも立たない。民間人として中国民衆と共に生活した経験が重要なのだ。それに加え、新しい考え方、状況に応じて頭を切換えてゆく能力、特に国際感覚。こう言った特殊の能力を私ら二人にに期待しているのだと部隊長は一語一語力をこめて説明した。
「判りました。連れて行って下さい」
少佐の強い眼に引きこまれたように私は答えてしまったが、その直後に悔が胸をいっぱいにした。内地の飢餓と混乱は終戦直前の東京を見て来た私には充分想像できたし、妻子の安否だって今の所はっきりしてるわけではない。伊東の市中から山一つはなれた静かな漁村だけに、空襲の被害などはなかったろうが、占領軍の規律がどんなものか本当は判らないし、餓えた被災者の群が餓狼のように地方へ流れ出したら治安の維持も甚だ心許ない。生き永らえているなら、これからも母親達の温い庇護の許で何とかやって行けるだろうが、わたしにしてみれば、復員の機会を自ら捨てて、妻子を見殺し同然にするのは辛い限りだった。
丸尾少佐は、二人が賛同したので満足した。鳥原については中国人並の支那語のほか、機知と行動力を買っていたし、私に対しては英語の力と企画力の点で使えると考えたらしい。今思えば、碁の指導などといって私を近づけた狙いも此の辺にあったのかも知れぬ。その時が来たら連絡するから、口を固くして心の準備を整えておけ、と言って、前祝いのつもりか、取っておきの老酒(ラオチュー)の栓を開けて二人に振舞ってくれた。

一月の終り近く、部隊長に呼ばれた。丁度新聞の第三号が刷上ったので、二三部持って部隊長室をノックした。脱出計画が意外に早く具体化したのだろうか。来るものが来たような不安と期待でわたしは緊張した。
丸尾少佐は新聞に一通り目を通して、よかろうと肯づいたが、急に顔を上げて
「これから太原ゆきだ。貴公も一緒だぞ」と例の鋭どく光る眼で私を見た。
「太原?厚和じゃないんですか」
「いずれ厚和へも行くさ、しかし、その前に先づ太原だ」
「それも載笠将軍の指図ですか」
部隊長は首を振った。太原行は載笠とは何の関係もない。しかし、大隊千名、いや旅団六千名の生死に拘わる問題として、太原の第一軍司令部に行き、片ずけなければならぬ仕事があるのだと少佐は説明した。
案じていた通り太原のエンシャクザン閻錫山、大同のフサクギ傳作義など地方軍閥の将領が、手許に転がりこんだ日本軍捕虜をあっさり手放すには、周辺の戦況が逼迫しすぎていた。
大同にしろ太原にしろ、日本軍が引揚げてしまえば、その間隙を埋めるように八路軍が侵入してくるのは、誰よりも閻錫山等の軍閥が知り抜いている。重慶南京方面から国民軍精鋭の応援が来るまで、日本将兵を極力引留めて重要拠点だけは確保しておかねばならない。そう言った国民党軍閥将領の考え方は解らぬでもないが、怪しからぬのは、第一軍司令部内の一部将校連の策動である。
部隊長の話によると、太原の司令部将校は帰還派、つまり復員促進組と、残留派、つまり国民軍に組して八路軍と戦おうという一派に分かれ、数ヶ月激しく対立しているらしい。残留派には高級参謀以下佐官以上が多く、戦犯として追求されそうな経歴の持主や、兵隊を喰い物にして地方軍閥に恩を売り、泡よくば此のまま中国に居すわって相応の地位にありつこうと考えている連中の集りらしい。復員派はほとんど下級将校で、数の上でも残留派に圧倒されていた上、つい最近、復員派の先頭に立って奔走して来た高級副官伊東中佐が、残留派との激論の末、斬殺されるという不祥事が発生した。このまま放置したら司令部は残留派の跳梁に任せ、復員の望みも全く絶たれる恐れがある。
至急誰かが太原へ急行して事態の解決に当らねばならぬ。丸尾少佐は旅団長から、お前が行け、と命ぜられたのだという。
「すると厚和ゆきは?」
「その後だ。そっちはまだ時間がある」
部隊長はきっぱり答えた。脱出して南京の藍衣社に投じる前に、部隊長として預った日本将兵の復員を軌道に乗せる責任があった。
「何故私が?」
と訊くと、少佐は眉を吊上げて、にやっと笑った。
「交渉相手は日本の将校だけじゃない。山西軍閥の古狸とも話し合う事になりそうだ」
部隊長は直接閻錫山との談判まで考えているらしい。そんな場合、現地仕込みの支那語が役立つ上、現地事情に詳しい私を相談相手にしたかったのだ。
夕食後、分厚い綿の入った中国服に着換えた。太原では残留組の目をくらますために、中国人に変装した方が安全だからだ。

(3)

大同太原間を結ぶ鉄路の口泉鎮站(えき)まで十人程の兵隊に護られながら歩いた。此の鉄道はほとんど閉鎖状態で、客車も貨車も動いていない。少佐等の太原乗込のために、ディーゼルエンジン付の大型トロッコに乗りこむ。トロッコは枯れた高梁畠の中をひた走り、一時間程で鉄路は登り坂に掛った。漆黒の空に、星だけが鮮やかにきらめいている。幽かに、行手を阻むような嶮しい山の稜線が望まれた。名にし負う五台連山の一角である。防寒外套を着、防寒帽で口も鼻も覆ってしまっても、山地を切り裂いて進むせいか、向い風は肌に突刺り、耳も鼻も手足も感覚を失って痛みすら感じない。
急坂にかかり鉄路はつづら折りに蛇行する。この頃から霙まじりの風が強くなり、トロッコのライトが照らす数十米の視界は模糊(もこ)とした白一色となる。十数名を満載したトロッコのエンジンは喘ぎ、風と霙に逆らいながら急坂を這い登った。二時間余りの苦闘で峠を乗越え、鉄路は山西盆地に向けて一気に下る。急に弱まった風は切りつけるような寒気を失い、防寒外套の下で微かに皮膚感覚が戻って来た。
それから太原に着くまでの二時間は睡魔との戦いである。
夢と幻覚の間をさまよう間、エンジンの音だけが単調に響き続け、泥のような眠りに陥いるのを妨げた。
翌朝。太原站の近くでトロッコが停り、部隊長と私は、兵隊を残して市内へ潜入した。護衛兵とトロッコはかねて連絡しておいた復員派の将校が、二人の帰る時まで保護してくれることになっているという。
丸尾少佐等は、出迎えた数名の若手将校の案内で、市内の汚ない旅館に入った。彼等の太原入りは残留派一味には極秘にしてある。
万一、潜入が知られたら生きて大同へ帰る保証はない、と将校達が語った。切迫した空気が、ぴんと、私にも感じられた。
私を旅館に残したまま少佐は三日ほど続けて外出した。誰と何の話をしているか判らない。帰ってこない夜もあった。
勝手の知れぬ街の中をうろつき廻ることもできず、少佐の戻るまでじっと身をひそめていると気の狂いそうな不安に悩まされた。
五日目の朝、少佐は早目に起きて、今日は一緒に行こう、と言った。どこへですか、と聞くと、こうもと河本さんの所だと少佐は答えた。「河本さん?あの山西産業のですか」
「そうだ。残留組を焚きつけてるのはあの人だという噂がある。真偽を確める必要がある」
私も山西産業についてはよく知っている。北支開発の子会社で、占領中の山西省一帯の重軽工業を統括していた特殊会社だ。その理事長が元関東軍高級参謀河本大作(当時大佐)である事も聞いていた。河本大佐こそ、昭和三年、満州軍閥の巨頭張作霖の列車を奉天附近で爆破した張本人である。初め親日的だった張作霖が、関東軍の野心を見抜き、次第に離反したので、当時の高級参謀河本は、自己の責任で張を爆殺したのであった。張作霖の死は、偶然の列車事故とか、共産匪の仕業などと表面言い抜けたが、事の真相はほとんどの日本人及び中国人に知られ、いわば、公然の秘密だった。河本はこの事件で関東軍を辞め北支に潜行したが、張作霖の謀殺は更に三年後の満州事変へと発展する。
x x x
その河本大佐が、太原地区の国策会社理事長に治まっていたのは、むろん北支軍官の推薦だったのだろうが、彼が敗戦後もなお太原に踏み止まり、国民党に接収された山西産業の顧問格をしているのは何かいわくありげだった。丸尾少佐も案外河本あたりが残留将校組の黒幕じゃないかと睨んでいたのだ。
洋車(ヤンチョ)を飛ばして、閑静な市街の一角にある河本邸を訪れた。閻錫山から提供されたという立派な支那家屋で、院子(ユアンズ)(庭)も広く、二人の中国人下男とだけの暮しには広すぎる程の贅沢さである。それよりも、応接室に姿を見せた河本氏の風貌に私は心を打たれた。六十を越えたらしい、白髪と深い皺の中に、鉄の意志と激しい行動力を持つ往時の策謀家の面影を探し求めようとした ― すっかり期待を裏切られた。私が見たのは、大きな椅子にゆったり腰を下ろし、にこやかな笑いの中に、様々な人生を眺めつくして来た人の達観、余生をこの山西の地に静かに送ろうとする諦念だけである。
この老大佐は既に、かっての野心、策謀の一切を捨てて、自分が愛した国、中国の奥深い町に最後の安息所を求めているように見受けられた。
丸尾少佐は率直に切り出した。 ―  先生は、山西省に日本軍を引留めるために、第一軍の将校に働きかけているという噂があるが、実際はどうなのか。
大佐は香り高い茶を勧めながら静かに答えた。
「それは誤解です。日本の将兵は一人でも止まるべきではない。日中両国の為にも内戦に加わってはならぬ。それが私の持論です」
「大同や太原が八路に陥されてでもですか」
と少佐が重ねて訊いた。
老大佐は微笑を浮べゆっくり肯づいた。中国内戦の勝敗は、中国の民衆が決めるだろう。民衆の心を提(とら)え、民衆と共に戦う者が最後の勝利を握る筈だ。
この答は丸尾少佐には気に入らなかった。中国の共産化などという事はあってはならぬし、またあり得ぬ事だった。西北や河北地区それに山西晋北など局地的に共産軍の優勢は認めるが大局的には、各地で日本軍の兵器を接収し、その上米軍の優秀な装備を補給されている国民軍の大兵力が共産軍を粉砕するのは時間の問題ではないか。
「その辺の見透しについては、それ以上議論したくありませんな」
と河本氏は遮った。
「それでは貴公が、復員を望まれるのか、残留を希望するのか解らなくなる」
「無論復員です。少なくとも一般将兵は」と少佐は答えた。
「そうですか」老大佐は肯づいた。
「それなら梁炎武将軍に会われると宜しい。閻錫山の参謀長です。紹介状は私が書いて差上げよう」
丸尾少佐と私は、河本邸を辞すとその足で、山西軍閥の巨頭閻錫山の司令部へ向った。衛兵は、便衣を着ていても明らかに日本人と解る二人を訝りと警戒の眼で見たが、河本氏の名刺と紹介状を見せると忽ち納得し、態度も丁重になった。
参謀長室の隣りの小応接間で待つ程もなく梁炎武少将が入って来た。
四十前後の精悍な風貌には、一見、日本将校を思わせる厳しさと気短かさが感じられた。

用件はどういう事か、と一言の前口上もなしに参謀長は切り出した。
日本軍の復員について相談したい、と丸尾部隊長が答え、私はそれを通訳した。
日軍の復員はポツダム宣言に基き国民党中央の指令で行われる、と梁少将が答えた。我々とは何の関係もない。
大いに関係がある。第一軍の復員が遅れているのは貴官等の妨害工作によるものだ。部隊長が云い返すと梁参謀長の浅黒い顔が赫く染まった。
我々は何の妨害も加えて居らぬ。貴官は何を根拠に左様な事を言われるか。
太原の日本軍高級将校と貴参謀部の間に密約があり、秘かに残留工作を進めている事を証言する者が大勢いる。
それは誤伝だ。日軍の一部に残留希望者がおるとは聞いているが、我々が強制もしくは工作したものではない。
閣下はポツダム宣言を尊重されるか。
勿論だ
それでは至急俘虜送還の配車要請を南京に申出ていただきたい。
此の地域の軍事情勢に対する配慮が必要だ。日軍引揚の間隙に、紅軍中共軍が突込まぬ様対策した後に復員実施をするのは、現地軍判断に委された権限である。
閣下は遠廻しに言われるが、その真意は日本軍をできるだけ山西大同地区に留めて、共産軍の侵入を防ごうとする事は明白で、これはポツダム違反ではないか。
極東情勢を考え、中国赤化を防止しようという我々に協力できないのか。
赤化防止については充分理解する。但し、日本将兵の強制抑留が降伏条件違反なので残念ながら協力しようがない。
日本人としてではなく中国に帰化したものなら差支えない筈だ。
それは強制ではなく、本人の自由意志で帰化した場合に限られよう。
その通りだ。そのような希望者が多数出るように善処してほしい。身分待遇については充分考慮するつもりだ。
最低何名ぐらいの帰化希望者を考えて居られるのか。
七千名。第一軍の約半分を希望する。
その数については保証できぬが、努力する事をお約束しよう。
最後に丸尾部隊長は厳しい表情で、次のように伝えるよう私に命じた。
自分は第一軍司令官の代理として閣下と交渉したものである。本日の約束に着いては互に誠意を以って遂行するものと信じる。
同時に、本日以降、閣下と第一軍司令部将校との間で、本日取決め以外の接渉は厳重に慎んで戴きたい。
その履行を見守るため支那派遣総軍より宮崎参謀が数日中、南京より飛来し、閣下と打合せの予定である。
梁少将は片手を差出して丸尾少佐の手を握り、網籠に入れた中国製の葡萄酒二本を贈った。
通訳を勤めた私は、部屋の暖気のせいばかりでなく、汗びっしょりになった。
それでも総軍の参謀まで動かした丸尾部隊長の動き方に肚の中で舌を巻いた。

口泉鎮に戻った私は、全身全霊を打込んで「山西特務団の理念」という標題で、日本兵の帰化残留希望者勧誘の檄文を書上げた。文章は記憶していないが、次のような趣意だった。
「中国赤化の脅威を説き、新しい日中関係の樹立の為に、中国が如何に旧日本兵の勇猛な戦闘力と優秀な頭脳を求めているかを知らせ国府による内戦の平定が成り、日中関係が正常化した時、帰化将兵諸君は、日中平和の懸橋として、燦然たる栄誉を胸に飾って帰国するのだ。男子たる若者よ、諸君の青春を、この意義深い壮挙に賭けて見ないか!」
原稿は大同の旅団本部に送られ、数日のうちに印刷され各隊に配られた。
帰国か残留かを巡って、どこの部隊でも将校兵隊の区別なく議論がつづいた。
強制を禁じたので血腥ぐさい騒動はなかった。誰もが自由意志で、荒廃した祖国へ帰るか、中国兵を指導して内戦を勝抜き、栄誉と若干の生活の根拠を掴んで故国へ帰る日を待つか、選択することになった。
二月の終に、私と鳥原は少佐に呼ばれた。
「厚和脱出の件だがな」と少佐は言った。
「見込が失くなった、糸が切れたよ」
少佐の昏い顔を見て二人は次の言葉を待った。
「載笠氏が死んだよ、南京附近でね、飛行機が墜ちたんだ」
「それで一切おじゃんというわけですか」
「密偵からは、復報を待てと言って来たがね、あの大物に死なれては望み薄だな」
「部隊長はどうされます」と鳥原が聞くと、少佐は苦笑を浮べて首を振った。
「特務団にも残らないんですか」
「残らん。今の俺の任務は先ず日本部隊の復員を見届けることだ」
鳥原は不満そうだったが私は、何故か心中ほっとしたものを感じた。

三月末、特務団希望者が纏められた。
山西地区三千百名、大同地区八百名、計三千九百名とという話である。
梁炎武少将が望んだ七千には及ばぬが、第一軍全員の約四分の一に当る将兵が帰化して残留を希望したのである。
軍上層部さえ意外に感じたほどの結果であった。
下島上等兵が私を訪ねて来た。檄文に感銘し残留に決めたという。
藤枝で倅の帰りを待つ両親の話をして、激しい望郷の想を燃やしていた下島の唐突な決心に驚いたが、下島は下島で、若い兵隊の胸を抉るような檄を書いた当の私が、
「俺は復(かえ)るよ、独り者じゃないんだ」
とさらりとしているのに驚いた。
「大きい声じゃ言えんがね、残留者はある意味で犠牲なんだよ。復員促進の為のね」
私はあたりに誰もいないのに声を落して言った。
「内戦は一筋縄ではいかんらしいよ。共産軍は民衆を組織して大衆の力で革命をやりとげようとしているし片方の国民政府側は民衆支配の旧思想から脱け切れず上層部や中堅が腐敗し切ってるのだ」
「そこまで知ってるあんたが何故あんな檄を書いた」と下島はとがめるように言った。
「命令だよ、部隊長の」
「とにかく俺は残る」
と下島は私の説得に耳を傾けず、それでいて、私が残らないことにかなりのショックを感じながら立ち去った。

四月の中旬から復員用の配車があり、大同地区の日本兵達は見る見る少くなった。
残留組は青い特務団服を着て中国軍兵舎に移り、四月の末には旅団司令部要員だけが最後に残った。丸尾少佐が司令部付を兼任したので、私は少佐と共に最終列車に乗り込んだ。
大同站を出発する時、中国人群集が口々に罵り、一人二人が線路の石を掴んで投げ始めると忽ち、何十人という男達がそこに和して礫の雨を降らした。
丸尾少佐も大きい石を一つ喰らって頭から血を滴らせていた。
私は綿布の梱包の間へ身体を潜りこませた。
七年間、中国に暮らし、中国人と親しみ、日華親善と蒙疆地区の開発に、自分なりに尽して来たと思い込んでいただけに、最後の場面で中国人が示した憎悪の深さに、裏切られたような苦しさを噛みしめた。
しかし冷静に考えれば、私を含めすべての日本人の武力以外の努力は、結局砂の上に描いた絵に過ぎなかった。一波寄せたら忽ち掻き消されてしまう果敢(はか)ない絵だった。
所詮、中国民衆が自ら望み、自ら選んだ種子でない限り、支那の土壌では育つ筈がなかったのだ。

危険と空腹と迫害に満ちた一月余りの引揚行程を終えて二十七大隊の復員組が佐世保に上陸したのは、二十一年五月末である。
丸尾少佐は私の手を握りしめて言った。
「東京と言ったな、君は。じゃあ此処で別れよう」
「落着いたら手紙を書きます」
と私も部隊長の手を握り返した。
呆気ない別れだった。
鳥原とも慌ただしく別れてしまった。
日本の土を踏むと、誰もがそわさわと落着かないのだ。
どうやら川奈へ辿りつき妻の母親や兄姉の温かい労りを受けながら、再生の路を模索した。
仕事の根拠を得たので妻子を連れて東京へ移った。七月に入り、丸尾少佐を始め旧大隊の将校達に手紙を書いた。多くの返事が来たが、少佐だけからは何の音信もなかった。林副官などは、君なら部隊長の行方を知っている筈だ、ほんとうの事を教えてくれと言って来た。
結局、丸尾少佐については、誰もその後の消息を知らない事が解った。
私としては自分なりに、少佐は復員船に乗って再び中国へ引返したに違いないと思っている。載笠将軍は事故死したが、何等かの伝手を得て、国民政府軍の中に働き場所を見つけたか、それとも残して来た山西特務団の仲間に加わって、何人かの戦友と共に戦死したか、その消息は、戦後三十五年を経た今では、もはや知る由もない。
(完)

秀吉の朝鮮討ち入りとウクライナ戦争

May.24 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」の中に豊臣秀吉の朝鮮討ち入りについて次の様に述べたくだりがあります。

秀吉は朝鮮を厳密な定義での外国であるとおもっていたかどうか疑問であった。九州の北方にある準九州的な地帯という程度の認識だったために、九州征伐で島津氏を威服せしめたと同様、朝鮮もまた日本国の統一者であるかれの威光のもとに威服すべきものだと無邪気におもっていた。
 この時期の秀吉は、かつて物事に用心ぶかかったかれとは別人のようで、すでに精神病学の対象ともいうべき自己肥大の妄想傾向が濃厚であった。かれは大明国を征服するつもりで、朝鮮をして道案内せしめようとしたのである。
 が、現実の朝鮮国は秀吉の朝鮮イメージとはちがい、まったくの外国であった。しかも中国を宗主国として中華文明圏にあり、これがために文明という基準において日本を伝統的に軽蔑していた。乱入した秀吉軍は、朝鮮をして道案内させるどころか、朝鮮の宗主国である大明国の大軍と戦わざるをえなかった。この結果、朝鮮の山河は荒廃し、秀吉政権は諸大名から飽かれて継続せず、大明国もこの戦費のために疲弊してその倒壊の主たる原因になって、三国ともなんの益もなかった。

秀吉をプーチン、朝鮮をウクライナ、大明国を EU と置き換えると、現在のウクライナ戦争とそっくりですね。

朝鮮討ち入りについての解釈は司馬遼の歴史観ではありますが、「歴史は繰り返す」という言葉を思い起こさせます。


さて、わたくし共夫婦はココを連れて軽井沢へ来ています。半年ぶりの訪軽です。

家に閉じこもる生活が2年以上続き、足腰がすっかり弱ってしまいました。

わたくしだけでなく、おかーさんも、ココもすっかりよたよた歩きです。

それが、軽井沢72ゴルフの西コースと東コースでハーフでもまわれればと思ってプレイしたところ、

足がつることもなく18ホールを無事まわることができました。

ゴルフボールのあとを追いかけまわすと、我を忘れて歩いてしまうようです。

おかーさんはゴルフボールにヒモをつけてけっ飛ばしながら散歩すればいいと言っています。




「消えてくれ」 ー プーチン

April.24 2022 シニア日記 comment(-) trackback(-)
4月16日のTBS報道特集で印象に残った言葉があります。
インタビューアーの「プーチン大統領に何と言いたいですか?」との問いに、即答で「消えてくれ」。
この言葉の主はロンドン在住のロシア人作家でボリス・アクーニン氏。
「プーチンのロシアと本当のロシアとは全く違う」として、ロシア国外にいる600万人とも言われるロシア人に、ブーチンのウクライナ侵攻を糾弾し、ウクライナ支援を呼びかける「本当のロシア」という活動をネット上に立ち上げた人です。

ウクライナ侵攻前、プーチンは世界に向かって戦争はしない、と言っていました。侵攻が始まってからも、民間人虐殺はフェイクだと言い続けています。国内の言論統制により国民には真実を隠し、残虐なウクライナ軍から自国民を保護するための軍事行動だと国民をだまし続けています。ウクライナ領土内でロシアの支援を受けて独立宣言しているルガンスク州とドネツク州の一部では、親ロ派軍とウクライナ軍とのつばぜり合いが続いていたのは確かですが、それを一方的にウクライナの残虐行為だと難癖をつけて乱暴狼藉をはたらくなど言語道断の行為です。
フィンランドのサンナ・マリン首相も「プーチンは大うそつきとしか言いようがない」と不信感をあらわにし、これまでの中立的な立場から、NATO加盟に方針転換をはかっています。

「人間の衣を被った悪魔」ではないかとさえ思わせるプーチン。ときおりその皮が薄くなって、悪魔の顔が表に出てきたような錯覚さえ覚えます。この世に悪魔がいるとしたら、まさにプーチンのような存在でしょう。「人間とは思えない」という声が世界中から聞こえてきます。「消えてくれ」というアクーニン氏の言葉が一日も早く実現することを祈るばかりです。





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