2008.7.11
生まれて初めての歌舞伎鑑賞をしたのだが、感想どころではない。
久しぶりにまいったよ。書かずにはいられない。
歌舞伎へはある男性から誘われて行くことになったのである。
うちのブログをお読みくださっているかたである。
大学の先生で年齢は40を超えている。
先生のブログを拝見すると、きれいな奥さんがいると書かれている。
お子さんもふたりいらっしゃるらしい。
そんなかたぎの人間から歌舞伎に誘われたことをとても光栄に思った。
よろしくお願いしますと返信した。
この先生と今日歌舞伎座で「義経千本桜」を観た。
歌舞伎はやはり無学なわたしには理解できなかった。
帰りに寄った喫茶店で事件は起こった。
この先生が大声で怒鳴り散らすのである。あれは罵倒という形容がぴったしである。
ふざけてるのかと目を見るとマジである。
目になみだまで浮かべて激昂していらっしゃる。
突然、豹変したのだ。
「おれは文学研究に命をかけてるんだ。おまえはなにもわかっていない!」
直前まではお互い笑顔で話していたのである。
切れたという表現がいちばん適切かもしれない。切れる中年だったのか。
「おまえ、おまえ、おまえ」と大声で騒ぐのである。
「初対面の人間におまえはないでしょう」
わたしは先生に諫言(かんげん)したが聞き入れてもらえない。
先生がしきりに文学研究と口にするので恥ずかしくて仕方がなかった。
銀座の喫茶店で文学研究と連呼するのは羞恥プレイに近い。
意見の相違があったとすれば、どうやらこの「文学研究」である。
(もっともいまから考えたら、
先生はわたしを「やっつける」のが当初からの目的だったのかもしれない)
「本の山」をご覧いただいたらわかるよう、わたしは大学の文学研究を重んじていない。
文学者が死にもの狂いで生みだした作品をテキストなんぞと言い換えて、
安全な場所から観察するのがどうしてそんなに偉いのかわからない。
なにより文学研究は読んでもおもしろくない。生きるうえで役に立たない。
(文学作品はたしかに無用の長物だが文学研究よりはまだ役に立つ。
――人を励ます。――人を慰める)
文学研究に比べたら三流ライターの書いた笑話のほうがよほど価値があると思っている。
これが正しいのか誤りなのか答えはない。人それぞれである。
人によって正解は異なる。とはいえ「本の山」の読者は、
わたしとおなじ考えのかたが多いのではないかと思っている。
わたしはこういう人間である。これは年齢から考えても今後変わることはないだろう。
うちのブログをお読みになればわかることである。
この先生はわからなかったようなのである。
先生はフランス中世の文学を研究しておられる。
わたしでも知っている作品の有無を質問したら「ない」とのことである。
先生はいまのところ努力報われず大学の専任職には就いていない。
非常勤の語学教師としてあまたの学生を指導している。
「いまでもその研究をしているんですか」
おそらくこの問いを発したとき、わたしの顔がニヤニヤしてしまっていたのだろう。
先生は敏感に反応した。
昼日中、銀座の喫茶店で大声で怒鳴るという凶行に相成ったわけである。
グラスを何度か倒すほど興奮しておられた。
数年前の荒れていたころのわたしだったら、
すぐさま目の前のビールを相手の顔にかけていたことだろう。
殴りかかっていたことは確実である。
哀しいかな、いまは良くも悪くも丸くなっている。
怒ってるな、と先生の興奮がしずまるのを待つしかない。
幾度か笑いにまぎらそうとはしたのである。
「(相手のコーヒーを指して)それアルコール入ってるんですか(笑)」
先生はわたしをにらみつけたままであった。10歳も年の離れた後輩を(先生も早稲田卒)。
「おまえ、人間はものを知りたいって本能があるだろう?」
先生は荒々しく文学研究の意義についての講義を開始したが、
不勉強なわたしには先生の教えが理解できない。
テキストを連発するのには辟易した(テクストなのかもしれない)。
「テキストって言葉を使うの恥ずかしくないですか?」
わたしは自分の感覚を正直に申し上げる。先生は怒鳴り返してくる。
「おまえはな、本を人より多く読んだからってなにかわかったと思ってやしないか。
人生経験を積んだからって、だれよりも、ものをわかっていると考えているだろう。
よくものを考えているからって、おまえ、おまえはな、おい、舐めてるんだよ!」
大学の先生のご発言である。
ふつう反対だろう。これは大学人が一般人に言うことではない。
一般人が大学の先生に、本ばかり読んでなにがわかるか、と問うのが通常である。
(わたしより読書量が少ない大学の先生ってなんだ? なら大学なんて辞めてしまえ!)
もうひとつ。人生経験は年少者が年長者に反論することである。
長生きしたからって、偉そうなことを言うな。
ところが、このときは40過ぎの先生が若輩のわたしをこう攻撃するのである。
悲劇的なことを経験したからって(母のことだろう)舐めた口を聞くな。
舐めるなと再三、この早稲田大学の先輩から叱責されたのを覚えている。
うっかり舐めたことを言ってしまう。「人生や社会を舐めるのが文学じゃないですか」
これは本意ではない。いきおいで出てしまった言葉である。
この大学の先生からすると、わたしは人生や社会を舐めているらしい。
「おれは文学研究に命をかけているんだ!」
喫茶店中に響きわたる絶叫である。先生はわたしという存在を全否定する。
「おまえはな、小さな穴のなかにいるんだよ。新しくものを知ろうってところがない。
だから、文学研究が理解できないんだ。
もっと新しい世界があるってことに気づけよ。ものを知ろうとしなきゃ駄目だ」
怒鳴ることをやめない早稲田大学修士の先生はこの場をどうしずめるつもりなのだろうか。
わたしは唖然としていた。いちおう具申する。
「人間はわかりあえないんじゃないかな」
さすがにわたしも丁寧表現はやめていた。
「持って生まれたものが違うから仕方がないと思う。
おれなんて所詮、焼き鳥屋のせがれだからさ」
先生は反論する。「ならおれだって公務員の息子だ」
久しぶりにエキサイトした人間を目の前にして、少しわたしはどきどきしていた。
この先、いったいどうなるんだろう。
こちらは妻も子もない。たとえ殺されたっていっこうに構いやしないのである。
40過ぎの男なら、
初対面の相手を乱暴に罵倒することの意味をわかっていないはずがない。
どのようにこの場の始末をつけるつもりなのだろう。
こんないさかいがあったのを記憶している。
文学研究の価値について先生の熱弁の途中である。
先生が「装置」と言ったのである。意味不明の文章でたまに見かけるあれである。
大学は……なんたらかんたら……知の装置として――。
ふきだしそうになった。
「装置ってなんですか? そんな言葉を使って恥ずかしくないですか?」
またもや先生はにらみつけてくる。「ぜんぜん恥ずかしくない!」
このときはわたしもにらみかえす。「なら装置なんてどこにあるんだ!」
お答えはいただけなかった。もしかしたら大学の研究室にあるのかもしれないと思った。
なんの脈絡もなかった。突然、先生は携帯電話を一瞥するとこうのたまったのである。
「いまから幼稚園の娘を迎えに行かなきゃならないから帰るわ」
わたしはどう演技しようかとっさに決めた。
大げさなため息をつき「いやだ~」と呻(うめ)いた。
人間なんていやだ。文学なんていやだ。なにもかもいやだ~である。
先生は無視して去っていった。わたしは時間をかけて余ったビールをのみほした。
いったい今日はどういう日なのだろう。
フランス語の先生が「本の山」に興味を持ったのは小谷野敦がきっかけだったという。
先輩は、(わたしの恩師)原一男監督とも多少の縁があることから
メールを出すつもりになったという。
わたしはなにもしていないのである。
あちらが一方的にこちらを歌舞伎に誘い(料金はむろん別)、
そのうえで一方的にわたしを非難して去っていった。
いまわたしは孤独なやけ酒をのんでいる。罵倒されたのが口惜しくて仕様がない。
他方、あの先生はいまごろ美人の奥さまと、ふたりの娘さんに囲まれ笑っている。
このままで済むのだろうか。
妻子もちの先生はほんとうにこのままで済むと思っているのか。
わたしも果たしてこのままで済ませられるのだろうか。
こうまで侮辱されてこの先輩に復讐しないと誓えるだろうか。
いな、耐えねばならぬ。ストリンドベリは言う。「此の世は只遍路である」――。
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