東坊城和長
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東坊城 和長(ひがしぼうじょう かずなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。参議・東坊城長清の長子。官位は正二位・権大納言。日記に『和長卿記』、著書に『内局柱礎鈔』・『桂林遺芳抄』・『元号字抄』・『明応凶事記』・『永正九年若宮御元服記』など。
- ^ 『大乗院寺社雑事記』文明3年2月13日条
- ^ 『宣胤卿記』文明12年正月10日条によれば、同日に将軍足利義政への参賀に訪れた公家の中に典薬頭である和長の名前がある。
- ^ 平安時代に文章博士の官位相当は従五位下とされていたが、この時代には五位では文章博士には低すぎるとみなされていた。
- ^ 湯川敏治「戦国期における公家裁判の一例 -唐橋在数殺害事件顛末を中心に-」(初出:『史泉』69号(関西大学史学会、1989年3月))・改題「唐橋在数事件顛末」(所収:湯川『戦国期公家社会と荘園経済』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0744-9 第3部第2章))
- ^ 当初は章長のみの任命であったが、その場合に菅原氏内部の官位の序列を乱してしまうことや師である和長の立場と功績が考慮され、同時の任命とされたという(伊藤、2012年、P122-123)。
- ^ 同じく和長の自著である『諷誦文故実抄』でも自作の文章に関しては悪い点を多く指摘している。
- ^ 『和長卿記』延徳4年9月21日条
- ^ 『和長卿記』『芥拾記』明応5年12月1日条
- ^ 足利義晴の元服の際の勘文を作成したのは和長であったが、実際の提出段階で管領で義晴の烏帽子親になる予定の細川高国の異論があり和長がこれを受け入れたところ、和長が偏諱とするのには良くないと考える「義晴」に決定してしまった(『和長卿記』大永元年7月28日条)。浜口誠至は「義晴」は和長の考案ではなく、実は細川高国の案でそれを勘文に入れるように和長に要求したと推定する(浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版、2014年) ISBN 978-4-7842-1732-8 P108-110)。
- ^ 『和長卿記』明応5年6月15日条など
- 1 東坊城和長とは
- 2 東坊城和長の概要
- 3 系譜
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