心霊写真の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 22:54 UTC 版)
実用的な写真技術の発明は1839年フランスの画家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが開発した「銀板写真法」が最初である。1884年に写真フィルムが発明され、写真技術が大衆化する前に、「心霊写真」は登場した。 1862年、アメリカのボストンで交霊術師として知られていたガードナーがある写真屋が撮影した自分の写真に12年前に死んだ従兄とよく似た姿が写っていることを公表した。 最初の撮影霊媒であるウィリアム・マムラーの「心霊写真」は驚異の的となり、彼のスタジオには人々が殺到したという。しかし、マムラーの「心霊写真」は不正なものであるとの告発により裁判で訴えられた。公判では写真界の有力者たちが「重ね写し」する手法について証言した。 また、その後「心霊写真」はヨーロッパでも注目を集めた。1874年、フランスのパリで写真館を経営するエドゥアール・ビュゲー(英語版)が「心霊写真」を発表し、大評判となった。しかし、ビュゲーも写真制作における詐欺行為のかどで逮捕され、裁判にかけられることとなった。ビュゲーは公判において「二重露出」という方法を使っていたことを白状し、一年間の禁固刑と500フランの罰金刑を課せられた。この刑が確定した後も識者を含む多くの人はビュゲーの霊能力を信じ擁護したという。 発明直後から「写るはずのないものが写る」といういわゆる「心霊写真」が多くあり、一時大ブームとなった。当時の心霊写真は現在のそれと異なり、非常に鮮明に「霊」が写っているのが特徴である。肖像写真においてもどちらが「被写体」でどちらが「霊」か見紛うほどに鮮明であったという。 そのため、心霊写真を偽造する写真師も多く現れ、多くの偽造心霊写真もあった。しかし、当時は写真における「ピクトリアリズム」という一種の偽造的手法で写真芸術を作るという手法があり、偽造そのものに対してさほど大きなアレルギーはなかったと推測される。 日本で初めて心霊写真を撮影したというのが前述の1879年(明治12年)の三田弥一のものである。さらに1909年(明治42年)になって作家の羽化仙史こと渋江保が日本国外の心霊写真研究を日本に紹介した。ただしこの頃の日本では心霊写真とは言わずに幽霊写真などと言っていた。このように心霊写真自体は第二次世界大戦前から存在したが、当時は写り込んだ人の姿を死んだ身内などと解釈し、大切にする風潮があったようである。戦後、カメラの一般家庭への普及に伴い、旅行先などで撮影した写真に「霊が写っている」と騒がれる事例が増加した。 1917年7月、イングランド北部の寒村、コッティングリーに住む二人の少女が妖精と戯れる写真を撮ったと大きな話題になり、心霊研究家のエドワード・ガードナーや心霊主義に傾倒していた小説家のアーサー・コナン・ドイルらが本物と認めた。しかし、66年後の1983年、姉妹は絵本の妖精の絵を切り抜いて作ったものだと告白した。 詳細は「コティングリー妖精事件」を参照 1922年には「心霊写真」も蔓延を憂慮していた奇術師らが「神秘委員会」と称するチームを作り、当時評判を呼んでいたバン・コーム、デーン夫人などの「心霊写真家」らのトリックの多くを暴いた。 日本で有名になったのは1970年代になってからで、女性週刊誌や主婦向けのテレビのワイドショー番組、つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』など少年雑誌で取り扱うようになった。1974年(昭和49年)からは二見書房で恐怖の心霊写真集シリーズを出した中岡俊哉が第一人者となっていった。心霊写真は岩の上や茂みの中に顔が見える、不思議な光が写っているといったもので往々にして不鮮明であるため、一般人には真偽の判定が難しく、宜保愛子や織田無道、池田貴族といったいわゆる心霊研究家による鑑定というシステムが成立した。 また撮影された「霊」は通常、撮影者・被撮影者とは無関係であるため愛着の対象とならない。1970年代に中岡俊哉は心霊写真に因縁や祟りはないとしていたが、1980年代になってからは転換し、撮影者・写真の所有者に災い(霊障)をもたらす存在という言説も流布していく。1980年代前半には下火となるが、1986年(昭和61年)以降再び女性誌で心霊写真の記事が掲載されるようになりブームを迎え、テレビのワイドショーで夏の恒例企画として放送されるようになったのもこの頃である。 21世紀に入りデジタルカメラが普及するに従い、フィルム送りのミスによる多重露出がなくなったこと、受光部がフィルムカメラよりコンパクトなためレンズフレアやゴースト(レンズフレアの一種で光の輪や玉のように見えるもの)等の暗室内面反射が減ったこと、レンズがコンピュータ設計され精度が格段に向上していること、オートフォーカスによりピンぼけなど発生しにくくなったこと、自動露出の高度なプログラム化により光量不足がなくなったことなどのカメラのハイテク化がいわゆる心霊写真を駆逐するようになり、テレビ番組や週刊誌で取り上げられることも次第に少なくなっていった。近年では、写真編集機能を搭載したフォトレタッチ系画像編集ソフトウェア(市販のPhotoshop、フリーのGIMPなど)により、一般個人でも比較的簡単に写真を加工できるため、心霊写真を捏造し、ネタとして楽しむという趣旨のウェブサイトも見受けられる。 心霊写真とは、それまでの日本の歴史上の概念にない新しい霊の現れ方であると歴史研究家の原田実は主張している。それまで日本で霊というと「誰にも姿が見えない霊」「誰にも姿が見える霊」「祟るなど因縁のある者にのみ現れる霊」の3つしかなかったが、肉眼で見えなかった霊がカメラという特殊な技術を通して見えるようになったというのである。原田はこの特殊な技術で霊が見えるというのが霊能者という概念を生み出したとしている。 漫画家の西岸良平は、『鎌倉ものがたり』の主人公である一色先生に、幽霊は精神的存在であり人の目に見えてカメラでは写らないのが自然だと語らせている。
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