叱ってもらえることの重要性2
2010年10月18日(月) 8:14:51
昨日のさなメモ「叱ってもらえることの重要性」にいろいろ反応をありがとうございます。
その中で書いたお稽古事エピソードだが、内田樹先生が去年こんなことを書いていたことをツイッターで教えてもらった。愛読ブログなので読んだはずなのだけど忘れていた。リンクもするけどちょっとだけ引用したい。
昔の男たちは「お稽古ごと」をよくした。
夏目漱石や高浜虚子は宝生流の謡を稽古していた。山縣有朋は井上通泰に短歌の指導を受けた。内田百閒は宮城道雄に就いて箏を弾じた。
そのほか明治大正の紳士たちは囲碁将棋から、漢詩俳諧、義太夫新内などなど、実にさまざまなお稽古ごとに励んだものである。
植木等の歌に「小唄、ゴルフに碁の相手」で上役に取り入って出世するC調サラリーマンの姿が活写されているが、1960年代の初めまで、日本の会社の重役たちは三種類くらいの「お稽古ごと」は嗜んでおられたのである。
なぜか。
私はその理由が少しわかりかけた気がする。
それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。
本業以外のところでは、どれほどカラフルな失敗をしても、誰も何も咎めない。
そして、まことに玄妙なことであるが、私たちが「失敗する」という場合、それは事業に失敗する場合も、研究に失敗する場合も、結婚生活に失敗する場合も、「失敗するパターン」には同一性がある、ということである。
私はこれまでさまざまな失敗を冒してきたが、そのすべては「いかにもウチダがしそうな失敗」であった。
「ウチダがこんな失敗をするとは信じられない」というような印象を人々に残すような失敗というものを私はこれまで一度もしたことがない。
すべての失敗にはくろぐろと私固有の「未熟さ」の刻印が捺されている。
だからこそ、私たちは「自分の失敗のパターン」について、できるかぎり情報を持っておくべきなのである。
そして、そのパターンを学ぶためには、「きわめて失敗する確率の高い企て」を実行するのだが、どれほど派手な失敗をしても「実質的なペナルティがない」という条件が必要なのである。
御意。
ボクも同じところで同じような失敗を繰り返す。
ボクの場合、小学校5年のクラス運営で手痛い失敗をした。いまでも忘れない。
そして同じような失敗を会社に入ってから二度やっている。痛すぎた。トラウマになりそうだ。でも、これはボクにとって「いかにもサトウがしそうな失敗」なのである。わかっていたのに同じ轍を踏んだ。シミュレーションを怠ったのが敗因である。そして誰かにその欠点を叱り飛ばされるというお稽古事などを持っていなかった。
世に「お叱りバー」「叱られスナック」なるものがあるという。また、銀座には社長を叱り飛ばすママも大勢いるという。これらに通う人々は「叱られることが快感」というマゾ的性癖もなくはないだろうが、どこかで本能的に、「欠点」「未熟さ」=「失敗するパターン」をシミュレーションしに来ているのかもしれない。
私たちは「自分の失敗のパターン」について、できるかぎり情報を持っておくべきなのである。
なるほど。
お稽古事を始めようかな。自分固有の「未熟さ」を常に目の前に掲げて自覚しておくために。