人は、歴史とは盤石な確固たるもので、未来はわからないが茫洋(ぼうよう)と広がっているものだと思うかもしれない。だが本当は逆である。歴史は瞬間、瞬間に滅びさる時間に乗ったものだから可滅的なものだ。史料や遺跡や絵画・映像に残るものから再構成するしかない。それはその当時のそれそのものではないから、あくまでもヒューリスティックな(近似値の)ものである。だから現代人の希望や理想が入りこみやすい。これが入りこむと、今に至るまでの経緯と、今の姿がずれてしまうことがある。
マルクス経済史学者の失敗
未来は過去の経緯をはね板のようにして跳ばなければならない。われわれは日々それをしている。だからかえってせま苦しい。はね板の位置と方向性が私たちの足もとを縛るのである。希望は必要である。なければ跳べない。だが理想のほうは、往々にしてこれから先の方向性を誤らせるのである。
前者と後者の実例をあげよう。イギリス資本主義の起源の問題である。マルクス経済史学の大塚久雄氏は自由な独立自営農民のヨーマンが毛織物で儲(もう)けて資本主義を起こしたと学説化した。ところがその後の英国学界ではヨーマンが儲けると土地を買って地主化することがわかった。有力農民のジェントリの起こした綿織物工業こそが資本主義の起源だった。
大塚氏はなぜ失敗したのか。それはヨーマンとジェントリの階級闘争があり、下からの革命がないといけないのだと、マルクスの理想を追ったからである。だが大塚氏の説は日教組の支持を得て、それが間違いだとわかってからも増殖し続けた。現在の高校世界史教科書の何種類かに、まだそのまま生き残っているのだ。学生が可哀(かわい)そうである。早急な改定が望まれることはいうまでもない。
後者の例では宇沢弘文氏の『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)という著作をあげることができる。アメリカから多大な業績を持ちかえった宇沢氏はモータリゼーションが広まりつつある日本を見て、米国流の利益優先の考えが広がれば、日本の農村などのつながりや人間的な営みが壊されてしまうと真に危惧した。
杜撰な共同プロジェクト
今日、この本を読むと、「自動車はまさに生物体に侵入したガン細胞のように、経済社会のなかで拡大していったのである」(28ページ)などと、モータリゼーションを呪詛(じゅそ)する言葉で満ちている。そして、道路環境投資でかかる賦課は1970年代の物価水準で年間約200万円/台だという、べらぼうな社会的費用の数字を氏ははじき出してしまうのである。
筑波大学に赴任してしばらくたったころ、ひと回り上の世代の先生方から、帰りに駅まで車に乗せてほしいと頼まれて送ったことがある。あまりに頻繁だったので、なぜ免許を取らなかったのかと問うと、「『自動車の社会的費用』を読んでしまったからね。あれ読んだら免許取れないよ」とおっしゃるのである。理想は往々未来の先見性を狂わせるのである。
2011年1月に、日本・中国・台湾・香港・韓国の編集者の交流組織「東アジア出版人会議」がつくられ、東アジアで100冊の本を互いに翻訳しようというプロジェクトが始動した。日本、中国、韓国が各26冊、台湾・香港が22冊だと同会議のホームページ「国を超える出版の共有財産として、新たな地平へ『東アジア人文書100』(東アジア出版人会議編)刊行」(みすず書房発信)に書かれている。日本側の1冊目は宇沢弘文氏の『自動車の社会的費用』であり、2年前に中国語に翻訳されたそうだ。
韓国側の翻訳計画リストがすさまじい。いわく、金九『白凡逸志』、すでに翻訳が平凡社から出ている。咸錫憲『意味から見た韓国歴史』、これも新教出版社からの翻訳がある(おまけにタイトルの訳が間違っている。『神の意志から見た韓国歴史』が正しい)。李基白『韓国史新論』、これも学生社の訳がある。他の国の重複はあえて問わないが、新訳でも出して新たに広めたいのだろうか。どこが「新たな地平へ」なのか、その杜撰(ずさん)さにあきれるほかはない。
誰も語らない東アジア共同体
彼らは一体何がしたいのか。東アジアのことを互いに知ることもせず、専門家に問うてくることもない。誰がしているのか。朝日新聞1月8日付に「日中韓つなぐ100冊の輪」という記事があった。岩波書店元社長、筑摩書房社長、元平凡社編集局長などの錚々(そうそう)たる人物が名を連ねている。
この人たちは東アジアのことを知らない。ただ日中韓をつなぐ共同体がほしいという理想をもったアジア主義者なのだ。その共同体には前例がある。言わずと知れた「東アジア共同体」だが、今や誰もこの共同体構想を話さなくなった。私は12年前に『東アジア・イデオロギーを超えて』(新書館、読売・吉野作造賞)を著し、東アジア諸国の序列意識と反日のある限り同構想は不可能だと述べていた。理想は往々、助成金などの金を食うだけで終わるのである。(ふるた ひろし)