後藤先生
第9回 2008年11月22日 
作詞家という仕事」


講師:岡田 冨美子(おかだ・ふみこ)先生

筆名 岡田冨美子、岡田ふみ子、FUMIKO
津田塾大学英文科卒業
「怪獣のバラード」〜NHKステージ101のオリジナルソング〜でデビュー。
JASRACに届けている楽曲は1,500曲弱だが、訳詞した楽曲を加えると2,000曲は書いている。

【主な作品】
「ロンリーチャップリン」 鈴木雅之 & 鈴木聖美
TAXI」 鈴木聖美
「スシ食いねェ!」 シブがき隊
「真夜中のシャワー」 桂銀淑
「来夢来人」 小柳ルミ子

「作詞家という仕事」



はじめに

今日は皆さんにお会いできるので、とても楽しみに参りました。人前でこのような形で話すことは今まで躊躇していて、あまり引き受けたことがないので少し心もとないのですが、どうぞよろしくお願いいたします。

なぜ人前であまり話したくないかと言いますと、作詞家の仕事をしているととても好奇心が旺盛で、外に出掛けてあれもこれも見てやろうというような性格ではないかと思われがちです。そのうえ、私はすごくお酒のみで夜遊び歩くのが好きなのではないかと思われがちですが、実は出無精でとにかく平々凡々とした生活で、自分でもなんてつまらない人生なんだと思う生活を送っています。そして呑気で、苦労をかってまでする方ではありません。日本人はこういう場で話しをする場合、「こんな苦労をした」「こんな不幸な目に遭った」などというマイナスな部分の話をすると非常に受けると聞いています。私は苦節何年でも雌伏何年でもないので、皆さんに面白がっていただけるような話ができるかどうかわからないですが、とにかく話し始めてみます。

1. 作詞家になったきっかけ

まず私が作詞家になったきっかけですが、別になりたかったわけでも、なろうとしたわけでもなかったのです。大学を卒業して就職するのもイヤで、とにかく何もしたくなかったのですが、親が就職しないのだったら東京に置いてあげないと。広島が田舎なのですが、「首に縄をつけてでも連れて帰り、お見合いをさせて嫁に出す」と言われました。それで、お嫁にも行きたくないし仕事もしたくないとグズグズしていたら、卒業式が来てしまいました。やっぱり東京にいたいので、「毎日同じ時間に同じ場所に行くというような仕事ではなく、ちょっと自由な仕事を見つけてください」と親に言ったら、なぜかテレビ局のタイムキーパーの仕事を見つけてくれました。それで大学を卒業してTBSのテレビ局にタイムキーパーとして勤め始めたわけです。

そこで担当したのが音楽番組です。私は子どものころからピアノを習ったり、楽器もいろいろやっていたことから、譜面も読めて譜面の所見も聞けたので、割と楽しんでさせていただきました。そのうちに夜眠れなくて不眠症になりまして、眠れないままに詩をフッと書いてみたのです。それはたぶん、私が音楽番組を担当していたことがきっかけになったと思いますが、詩でも書いてみようかと思って書いてみると、一晩にいくつでも書けるのです。次の日もまた書いてみようと思うと、いくつでもまた書けるのでつまらなくなって、友達に「私、詩を書こうと思ったらいくらでも書けるんだけど、皆もそうでしょうね」と聞いたら、「いやいや1行書いたらもう2行目は出てこない。詩なんてそんなに簡単に書けるものではないわよ」と言われてびっくりしたのです。それで、「じゃあ私は作詞家になろうかしら」と思ったわけです。

ちょうどそのとき、ある高名なアレンジャーの先生のマネージャーの方が、私のことを「冨美子ちゃん、冨美子ちゃん」と呼んでくださっていたのですが、「いつもつまんなさそうな顔をしてTBSに来ているけども、ほかに何かやりたいことがあるの?」って聞いてくださったのです。それで私は口から出まかせに、「最近、作詞家になろうと思っているの」と言ったら、翌日仕事を2つ取ってきてくださった。当時ヤマハ音楽振興会というところがあって、かなり積極的にフォークソングなどのレコードを出したりつくったりしていたのですが、そこがブルガリア音楽祭とハンガリー音楽祭に出す曲はあるが詞がないので、詞を書いてくれる人を探している、というのを聞きつけて仕事を取ってきてくださったのです。そして詞を書いたところ2つとも評判が良くて、両方とも1位と2位に入賞しました。それで俄然、「新しい作詞家が出てきた」というふうに思われたのです。私のデビュー曲は『怪獣のバラード』という曲ですが、NHKの当時とても流行っていた『ステージ101』という若者向けのポップス番組でオリジナルを書いたり、英文科出身であれば英語もできるだろうから訳詞もやってほしいと言われて、仕事を始めました。

『怪獣のバラード』というのはいきなりそこそこ売れました。当時、NHKは作詞者、作曲者の名前をちゃんとクレジットで画面に出していたので、「岡田冨美子って何者だ」ということになり、レコード会社やプロダクションの人たちが私を探して仕事を頼んでくださるようになりました。

そのときは、「ユニークな作詞家が出てきた、個性が強い、新しい」と言われて私も大変褒められていると思いました。でも今から思えばその「ユニーク」というのが癖もので、ユニークというのは目新しいとか奇抜であるというようなイメージで捉えていましたが、「きれいな様式を備えていない、無茶苦茶な作詞家が出てきた」と言われていたのかなと思う節があります。というのは作詞を始めて25年くらい経ってやっと、私は作詞には様式や決まり事があること知ったからです。作詞家教室に通ったことも、先生についたこともなかったので、基礎を知らないまま作詞を始めてしまっていたのです。自分では独自の世界だと思っていますが、評論する人たちにとっては、非常にユニークだけれども様式美をなしていない詞だというふうに揶揄されていたかもしれません。

当時はまだ、先生が弟子をとる時代でした。作詞家志望や作曲家志望の人たちは、作詞家教室に通ったり、大御所の星野哲郎先生や石本美由起先生のところに弟子入りして教わったと聞いています。ただその後、この前お亡くなりになった日本を代表する作詞家の阿久悠さんや、まだお元気でご活躍中のなかにし礼さんなどはお弟子さんをお取りになったという話は伺ったことがないので、そこら辺から少し時代が変わってきたのではないかと思います。先ほど反畑先生がおっしゃったように、レコード会社が専属の作曲家・作詞家をとらなくなったころから、阿久悠さんやなかにし礼さんなど、伸び伸びと縦横無尽に活躍なさった方がたくさん出てきたように思います。

2. 私の作風は我流

私は演歌の様式をなしていなくても、演歌歌手が歌えば演歌だと思っていました。あるとき演歌を頼まれて書いたら、レコーディングのときに歌手が小さな声で、「こんなの演歌じゃない」とディレクターに文句を言っているのです。私はそう言われても、「演歌歌手に書いたのだから、これは演歌ではないか」と思ったのですが、それから25年くらい経って、あのとき歌手がブツブツ文句を言っていた意味がわかりました。「演歌の様式美を整えていない歌は演歌じゃない」と言ったのだなと。しかし皮肉にもその曲は中の上のヒット曲となり、その歌手の代表作になっています。皆さんはご存じないかもしれませんが、石原純子さんの『三日月情話』という曲です。

このように私は我流で歌を書き始めたのですが、駆け出しのころは仕事がものすごく多くて、1日に 78曲は書いていました。顔を洗ったり、歯を磨いたり、朝ご飯を食べたりしていたら気が散ってしまうので、朝起きてすぐに23曲書いて、それから顔を洗ったり身支度を整えてまた23曲書く。そしてあともう1曲となったときにお酒をちょっと飲んでから書いて、さあ寝ようかという感じの仕事の仕方でした。とにかく本当に一杯書かされたので、自分もそれに応じて書くことができるようになりました。

夜眠れないから詩を書いていたときはアマチュアでしたが、頼まれた仕事を締め切り通りにこなせることができるのがプロなので、私にはたまたまそれができる力があってプロになれたのだと思います。駆け出しのころは軽々と仕事をしていて、何も考えないでも鉛筆が動くような感じで書いていました。頭の中で考えるよりも鉛筆の方が遅く、字が間に合わないくらいのスピードで言葉が溢れてきたころもありました。昔は作詞家と作曲家が分業みたいな形でコンビを組んで仕事をしていました。しかし今はシンガーソングライターが増えてきたために、作詞家・作曲家という専門職は演歌では残っていますが、ポップスではそういう仕事が少なくなってきました。

3. 仕事の量の変化と作品への思いの変化

たくさん仕事をしていたころは作品について深く考えることもなく、できたらパッと忘れて次に取り掛かるというやり方をしていました。確かに早くできた方がヒット性が高く、どうだろうと思うところがあっても、まあいいやくらいにしておいた方がなぜかヒットした。それはどうしてかと私は最近考えていたのですが、たぶん作品に隙があるからだと思うのです。100%満点というものをつくってしまうと、聞き手の入り込む隙がなくて、こちらのイメージを100%与えてしまう。しかし、「あそこはちょっと直したいな」と思うところがあった方が、聞き手は想像力を掻き立て、作品に対する思い込みも激しくなっていくという良い循環ができるのだと思います。

昔のように軽々と書いていた方がヒットする可能性があったように思いますが、このところ昔ほど作品をたくさん書かなくなって、一曲一曲に対する思い入れが強くなりました。暇だからそうなのか、それとも作品に対するグレードという意味で完璧を求めるようになったのかもしれませんが、書いても書いても直したくなってしまって、これではいけないなと。直したくなるのであれば、本当は直して完璧なものに仕上げればいいのですが、歌というのは完璧な方がダメなのではないかと思ったりしています。

ただ、小説家の小説ではなく日記風のものや雑文などを読むと、小説家にもものすごく推敲される方と、筆の勢いで書いてしまわれる方がいらっしゃるようです。それはそれで両方の個性だと思いますが、私の場合は出だしのころの個性と最近の個性がちょっと違ってきたように思って、昔に帰りたいなと思い始めています。

ということで、最初は夜眠れないときの暇つぶしに詩を書き始めた私ですが、それでも作詞が趣味だと思った時期はありません。仕事だから書き続けられる、これを書いてくださいと頼まれるから書く、そして締め切りがあるから書き終えるという感じです。もし仕事でなかったら詞なんか書いてないだろうし、人の詞も読まないだろうし。作詞家になっていなかったら、ただブラブラ何かしていたような気がしてなりません。

4. 詞先とメロ先の違い

私が作詞家だと知ると大概の人は、「朝書くのですか、夜書くのですか」「詞が先ですか、メロディが先ですか」と聞かれます。私はメロディが先にあってそれに詞をつける方が大好きです。詞がなければ曲が書けないから詞を先にくれ、と言う作曲家もいらっしゃいますので、そうなると曲が先な方が好きな私とでけんかになって、「あなたが先に書いて、私は後がいいわ」と言ったりすると、大抵は1曲ずつ交換しようということになります。なぜ私は曲が先の方がいいかというと、詞が先だと最初から全てのイメージを白紙の上につくらないといけないから。けれども、いいメロディというのは黙って聴いているだけで言葉が浮かんでくるもので、メロディが言葉を語ります。『ロンリーチャップリン』という曲も、2番まで詞を書くのに30分くらいしかかかっていないと思います。ヒット曲をたくさんお持ちの作曲家に聞いても、売れたものは5分くらいでできたと言われます。ワンコーラスが3分ですから、作曲家はイントロも間奏も考えない。おまけに1番のメロディは2番と一緒なので、3分か5分もあれば十分に1曲書けるわけです。ですから、ずいぶん割のいい仕事だと思いますが、いいメロディが詞を語るように、いい詞はメロディを漂わせているので、作曲家がいい詞が欲しいと言われるのも頷けることです。

しかし、いつも言葉がポンポン出てくるわけではなく、煮詰まってしまうこともあります。私は煮詰まったらその日は仕事をしません。すぐやめて、思いつくときを待つのです。そんなときは、「何でこんな下手なメロディを私にくださったのかしら」と憎んでしまうのですが、そのうちにフッと思いついて、その憎たらしいメロディに面白い詞が付いたときには、「やっぱりいい作曲家だな」と評価し直しますし、私も立派な作詞家だなと自分を評価します。

仕事というのは自分を正当化し、そして自分を客観的に見つめる目と自分の力を信じる目がないと持続することができません。会社の中に入って歯車の1つになろうと、私たちのように個人的に仕事をしていこうと、自分の力を信じてやれるという自信があって、自分への正しい評価ができないと、プロフェッショナルとしての仕事はしていけないのではないかと思います。

皆さんの中にも詞を書く方がたくさんいらっしゃると思いますが、皆さんも書くと「自分はなんてすばらしいんだろう」と思うと思います。自分が書いたものは何でもすばらしいし、そう思ってもいい。しかしプロフェッショナルになろうとした場合、自分が書いたものは自分の前ではすばらしいが、世の中に出したときに何点くらいかという正しい評価ができないと、世の中に打って出ることはできないのではないかと思います。

話はちょっとそれますが、先ほど大学を卒業するときに田舎に帰ってこいと親に言われたと言いましたが、逆に高校を卒業して上京するときに2つ決めたことがありました。1つは「寂しいと思わない」、もう1つは「自分の中からジェラシーという感情を捨てる」ということ。寂しいという気持ちが自分の中にあると、しなくてもいい恋愛をしたり、つるまなくてもいい人間とつるんだりして、自分の弱さをカバーするためにイヤなものを背負いこんでしまうのではないかと思ったからです。

また、ジェラシーというのは自分と他人を比べることから始まり、あの人より私は劣っている、だから悔しい、あの人が嫌いというふうになる。でも自分が他人と比べないという意味での絶対者であれば自分であり続けることができるし、自分自身を絶対評価することができます。昔から私はジェラシーが一番醜い感情だと思っていて、それがなくなることが素敵な人生を送れる1つの条件ではないかと思っていました。

その決め事は割と成功して、自分の人生をとてもきれいなものにしたのではないかと思うのですが、この歳になってまだお嫁にも行っていないし、男の人と一緒に暮らしたこともないので、寂しいという感情を削ったことが本当に良かったのかどうかはちょっと疑問です。結婚したてのころは皆、「岡田さんも早く結婚なさったら」と言われたのですが、40歳を過ぎると、「いいわね一人で。結婚なんてしなくてよかったわね」と大概の方が言われるので、今まで一人で暮らしてきたことが良かったのか失敗だったのかは、まだはっきりわかりません。

5. 書き始める時が考え始める時

作詞家には大きく2通りあって、コンセプトから入る作詞家と、自分の感情で書く作詞家がいると思います。コンセプトから入っていく作詞家で一番に思いつくのが阿久悠さん。阿久さんは詞を書く前に世の中や時代を分析し、そして歌い手を分析して今何をぶつけたらどう展開してどうなるか、ということを一生懸命考えて詞をお作りになった。もう1つのタイプとしては、なかにし礼さんが一番いい例かと思いますが、情緒的で非常に感情の奥深いところ、そして男と女の機微をうまくお書きになる。私はなかにし礼さんの方なのですが、阿久さんの詞を見ていると、阿久さんがこの詞を昨日お書きになっても、1週間後、1カ月後にお書きになっても、これと同じ詞が上がってくるだろうなという気がしてなりません。

私とどう違うかと言うと、私の場合は書き始める時が考え始める時で、1行目の最初の言葉を思いついたら1行目ができあがり、1行目が2行目を生み、2行目が3行目を生むというような詞の書き方で、書き始める前には何も考えていないのです。ということは、例えば「詞を書いてください」と頼まれて、今日と明日と1週間後に書くもの、あるいは1週間後の朝書くものと夜書くもの、またどこで書くかによって詞が全く変わってくるような気がするのです。そのとき頭に何がひらめくかという一発勝負的な詞の書き方なので、いつも私は書き始める時が考え始める時ですし、取材も旅行もしません。

よく小説家は大嘘つきだと言います。見てもいないことを見たように書く。作詞家は小嘘つきで、作詞家も見ていないことを見たように書くことができます。けれども、大嘘つきと小嘘つきの違いは原稿の枚数だと思います。作詞家の友だちは、この前初めて小説を書きました。今まで原稿用紙1枚で商売をしてきたから、「小説家はすごい、400枚も500枚も書かなければいけないから大変だ」と言っていました。

私も皆から小説を書けばと言われますが、原稿用紙1枚で仕事してくると行間を削ることばかり考えてしまいます。作詞家の世界には、「3行で書けることを4行で書くな。4行で書けることを5行で書くな。5行で書ける詞を6行で書くな」という言葉がありまして、「いかに行間を削って無駄を省き、言葉のエッセンスだけで感情や情景を伝えるか」というのがテクニックなのです。歌は3分間のドラマと言いますが、それを何時間ものドラマに作り替えることはとても大変なことだと思います。そして逆に、小説家が歌の詞を書こうとすると、削ることができないので難しいという話を聞くことがあります。

6. ヒット曲の一人歩き

書いた曲は独り歩きを始めるものです。『来夢来人』という小柳ルミ子さんの歌は、枚数的にはそんなに売れなかったのですが、私が今まで書いた中で三本の指に入る好きな詞です。「来る夢、来る人」と書いてライムライトと読ませるタイトルですが、その歌が出たころ日本中に「来夢来人」というスナックや喫茶店ができ、街を歩くと「来夢来人」という看板をたくさん目にするようになって、うれしい反面奇妙な感じがしたものです。『TAXI』という鈴木聖美さんの曲では、詞の最初で「TAXIに手を上げてGeorgeの店までと」とタクシーの運転手に告げるのですが、私が行ったことも見たこともないGeorgeという店のマスターが、「あれはうちがモデルで、あの詞はうちでできた」と言っているという話もよく聞きました。このように歌がどんどん独り歩きして、私の知らないところで人の心に残っていくのは、仕事としてもやりがいがあるし楽しいことだと思います。

ここでまた雑談になりますが、作詞家、作曲家という仕事は写真が表に出たりテレビに映ったりしないので、よく偽物が出ます。15年くらい前が私の偽物の花盛りで、「あるスナックに岡田冨美子がよく来ているらしい」という噂がありました。私がそこに行ったことはないと言ったら、「うそでしょう? 毎晩のように来て飲んでるらしいわよ」と言われたり、「池袋の向こうの方のスナックに岡田冨美子が来る」と言っているが、そこのマスターは私の顔を知っているらしく、岡田冨美子を名乗る人物が偽物だとわかっているのにお客として居てもらった方がいいから、「あなた偽物でしょう」と言わないでいるという話も聞きました。

今までの偽物で一番面白かったのは、武道館を一杯にするあるロックシンガーの話です。その人とは電話でちょこちょこ話したことはあっても会ったことがなかったので、あるとき武道館のコンサートを観てみようと思って行きました。すると、始まる前にプロダクションの方が楽屋で挨拶してやってくださいと言われるので挨拶に行ったのです。そこで彼が、「岡田さん、僕あなたに会うのは初めてですよね」とおっしゃったので、「ええ初めてですよ。電話ではちょこちょこお話ししましたよね」と答えました。それからコンサートが終わって打ち上げのときに、「実は僕、岡田さんに会ったことがある」とおっしゃったので、「私は初めてよ、私は本物よ」と言ったら、ニッポン放送の番組に生で出たときに、岡田冨美子ですと言って楽屋に来た人と話したが、話が面白かったので電話番号を交換して自分の仕事部屋に遊びに来てもらい朝まで話し込んだとのこと。「私、あなたの家には行ったことがないし、そのときの人は私じゃなかったでしょう」と言ったら別の人だったとおっしゃったので、「あなた偽物に会ったのよ」ということになりました。どんな話をしたのかと聞いたら、詞の話がすごく面白かったのだと。ですから、その人は私の事を研究してよく知っているのでしょう。私になりすまして、そのロックスターと一晩語り明かしたらしいです。

あるときは男の子が電話をしてきて、「岡田さん、僕です」と言うので、「私あなたを知らない」と言ったら、「どうしてそんなにしらばっくれるのですか。あんなに仲良くしていたのに」と泣き出してしまいました。それで、「私とあなたはどこで知り合ったの?」と聞いたら、クラブで知り合ったと。岡田冨美子は作詞では食べていけないのでクラブでバイトをしている。源氏名はチコちゃんで、店外デートをしたりエルメスのスカーフを買ってあげたりしたのだが、急に居なくなって連絡が取れなくなったということでした。それでどうしたのかと思っていたら、「私引っ越したの」と言って1年ぶりに電話が掛かってきて教えてもらった番号に電話したのだと。顔が売れていなくて名前だけが作品のように独り一人歩きしていると、そんな面白おかしいことがたまにあります。

7. 私とJASRAC

私がなぜJASRACに関わり始めたかと言いますと、実は私は不安神経症をわずらっており、外に出掛けられないという症状がひどくなっていました。元々の原因は、大学生のころに目の前でタクシーが人をはねるのを見たことなのですが、阪神大震災が起こってから急激にひどくなり、道を歩いていても「いま地震が起きたらどうしよう」と考えたり、電車やタクシーに乗っていても怖くて心臓がドキドキして、目的地に着くまでに23回降りないといけない。もともと出不精で友だちがうちに遊びに来て、一緒にお酒を飲んだり遊んだりはしていたのですが、どんどん外へ出掛けなくなっていました。それで、友だちが集まって、もうちょっと社会性を持たなければダメだということになり、JASRACの評議員への立候補を勧められました。JASRACに関わり、もう少し広いところで業界のことを考えてみることから始めたらどうだろうとのことでした。

このように、応援してあげるから立候補しなさいと言われて立候補し、当選させていただいてJASRACの評議員になったわけです。そして2期目から理事をやり始め、今では文部科学省の文化審議会の委員や、その文化審議会の下の組織である著作権分科会の委員もしています。そしてそこで、著作権全般のことや作家の権利について主張したりしています。

著作権というのは目に見えない権利です。歌はラジオやテレビから流れ、空気を伝わって耳に入るものなので、どれくらいのコストが掛かっているのか、これを書くためにどれほどの苦労があったのかということまで思い浮かべるようなものではありません。ですから、「著作権は邪悪な権利だ」と声高に言う人もいますし、「著作権料を取るなんて欲張りだ」と言う人もいますので、権利を主張するのがとても難しいのです。

産業界、電機業界なども実は著作権に対して非常に理解が薄いのですが、特許については産業界でいろいろ持っていて、中でも知的財産の所有権についてはすごく主張します。電機業界には、自分の権利は主張しても作家の権利は知らぬ存ぜぬというようなところが結構あって、せめぎ合いで非常に苦労しています。

それから、「私的録音録画補償金制度」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。CDは自宅で使うためならダビングしてもいいのですが、10枚コピーして友だちにあげるためにはコピーしてはいけないなどの決まり事があります。そして、自分のためにコピーすることを許す代わりに、デジタルテープや機器には補償金が付いています。その補償金を主張するにしても、電機メーカーが作家に協力的でないので少しも前に進みません。作家の権利がどんどん細っていくと、作曲家や作詞家、シンガーソングライターになっても、十分に食べていけないのではないかという危惧が出てきます。やはり文化を創造した人の権利は保障され、再生されるときはその権利が利用される。そしてその人は別の作品がつくれるというようなリサイクルの輪をつくるためにも、権利が正当に評価されるべきだと思いますし、著作権思想がもう少し普及する時代が来てほしいと思います。

ただ、この前小室哲哉さんの事件がありました。著作権であんなに大金持ちになる人は10人もいないと思いますが、ああいう事件があって著作権に対する悪いイメージができてしまうことが非常に怖いと思っています。

産経新聞に「朝の歌」というのがあり、80歳のお年寄りから、やっと字が書けるようになった子どもたちまでの素晴らしい詩が毎朝載っています。人間は皆詩人で、いい歌、いい詩を誰もが書けると思います。ですから、皆さんもぜひ一度書いてみてはいかがでしょうか。そして、自分が「この詩はすばらしい」と思えばすばらしく、人に見てもらって褒めてもらえばまたうれしい。人に見てもらうのが恥ずかしければ見せなくていいのですから、自分の心の中で体の中で、言葉を編むことの面白さをぜひ体験してもらいたいと思います。

8. 最近の歌詞(ポップス)の傾向について

世の中は非常に物騒になっていて、秋葉原であんな殺人事件があったり、毎日のように子どもが親を殺したり、親が子を殺したりというような凄惨な事件が起こっています。なのに、最近流行る歌に非常にきれいな歌が多いのが不思議でなりません。凄惨な事件が多いということは、人の心がすさんでいるということ。そして孤独が蔓延していることではないかと思うのですが、例えばSMAPの『世界に一つだけの花』とか、とにかく友情を信じたり、夢の実現を信じたり、人の優しさをうれしく思ったりするようなきれいで前向きな歌がとても流行っています。昔から「歌は世につれ世は歌につれ」と言われてきましたが、世の中とはかけ離れた虚構の世界、きれいごとの世界が歌われていているのに、すさんだり孤独だったりする人たちの本当の孤独を歌う歌がちっとも流行らないのはなぜなのだろうかと思うのです。

今のすさんだ世の中が見せかけで、本当はみんなきれいな心を持っているのだろうか。それともきれいな心を持つことに憧れて、そういう歌が流行るのだろうか。どちらが本当かといえば、どちらも本当だと思うのですが、やはり、この世の中の現状と歌詞の世界の流行りのギャップが気になってしょうがありません。

歌の力を信じるならば、きれいな歌が人の心を浄化してくれることを願うばかりですし、本当にそのような時代が来るのであれば早く来てほしい。しかし一方で、心の闇の部分を叫ぶ人たちの歌がもう少し出て来てほしいと願わざるを得ません。歌の力というのは心に活力と安らぎを与え、人生に花を添えるものであると信じています。歌を書いてきて良かったなと思いたいし、もっと人の心にしみとおり、人の心に残っていく歌を書き続けられたらいいなと思っています。

―以下、質疑応答―

Q. 最近、「一人じゃないから」や「大丈夫」などストレートな歌詞を歌うアーティストの曲が売れていると思う。私はバンドで作詞・作曲をするのだが、このようなストレートな表現が嫌いというかできない。ひねくれとはまた違うがストレートではなしに、人に歌詞をしっかり届けてかつ受け入れられることは可能か。あればテクニックなどもお聞きしたい。

A. この質問は最後に述べたことに非常に近いが、私も「一人じゃないから」とか「大丈夫だ」とか、別れた人に「ありがとう」なんてニコニコしながら言える人が何人いるんだろうと思う。別れたら悲しいし泣く。そういう気持ちではないかと思うので、「一人じゃないから大丈夫だ」というような嘘っぽい世界は、私もあまり好きではない。けれども、それが売れるから皆そういう詞を書くのだろう。この質問をくれた人は、ひねくれているのではなくて非常に素直ないい人なのではないかと私は思う。自分の思っていることを書き、そしてメロディをつけてしっかり歌えば受け入れられるはず。

テクニックというより、バラードを書いてみてはどうか。どんな作詞・作曲の曲をつくっているのかわからないが、自分の思いをきちんと伝えるためには、バラードがいいのではないかと思う。詞の世界は自分が思ったことを書けばいいので、人におもねたように書くと人の心を打たない。プロが売るために書くときはそうすればいいが、今は自分の思ったことを思った通りに書く方がいいと思う。

Q. 学生時代に経験しておいてよかったと思うことを教えてほしい。

A. 学生時代はものすごい量の本を読んだ。文字通り乱読で、タイトルくらいは覚えているが内容は全く覚えていない。覚えていなくても、何かの形で自分の細胞の中に入ってきているのではないかという実感はある。詞を書いていて、昔読んだ本が自分の肥やしになっている思うときが度々ある。

Q. 私は作詞家に対して「言葉のスペシャリスト」というイメージを持っているが、先生は日本語の特別な勉強をした経験があるのか教えてほしい。

A. 日本語の特別な勉強はしていない。自分で自分のことを言うのは恥ずかしいが、感情や直感力が割とあるのではないかと思う。そして、それらを表す的確な言葉の語彙を自分の中にたくさん持っているのではないか。それは本をたくさん読んだことから身に付いたもので、詞を書くための特別な勉強は、演歌の様式などを知る以外はしていない。ものごとに対して自分なりの感想を持ったり、自分の気持ちをうまく伝えたいと思ったり、人の気持ちをうまく汲み取りたいといった日常的なことがとても大切なのではないかと思う。

Q. 私は最初の質問を先生にとても聞きたかったので事前に質問させてもらったが、やはり売れるために書いているのだということがわかった。

A. 暗い歌だと売れない。「皆一人じゃない」「僕たちが仲間だ」「夢は叶う」といった決まり文句が入っていると、皆元気づけられるという傾向にあると思う。私はこの質問をとてもいい質問だと思い、今の流行り歌の嘘が見抜けている人だと思った。

Q. 残虐な事件が起こっているのに歌の世界はきれいだというのは、何か麻痺しているような気がする。歌を聴いてきれいな気持ちになれば救われるが、外に出たらまた汚くての繰り返し。それをどこかで食い止められるような詞を書きたいと私は思うが、先生はそのようなきれいごとを意識して書かれることはあるのか。

A. 仕事なので、求められればきれいごとを意識して書くこともある。熊木杏里さんなんかはそういう意味で頑張っている。自分の本当の気持ちを吐露し、きれいな世界でないところでしっかり自分を見つめておられる。もし私が曲も書けて歌が歌えたら、ああいう歌をつくって歌いたい。

Q. 私は『怪獣のバラード』がすごく好きで、歌詞がとてもわかりやすいと思う。わざと抽象的な言葉を用いて作詞することに対して、どういう意見をお持ちなのか聞かせてほしい。

A. 抽象的な詞を書く人というのは、バンドの人たちが多いと思う。パンクやハードロック系が多いと思うが、そういう人たちの歌は、言い切ってしまえば自己満足の世界で、広く皆にわかってもらわなくても、わかってくれる人たちがわかってくれたらいい、というところでつくったり歌われたりしている。詞も本人が満足しているのであれば、それでいいのではと思う。

Q. 最近、森山直太朗さんの『生きてることが辛いなら』という曲が放送規制に掛かったと騒がれていたが、私はちょっと納得できなかった。これもすごくストレートな歌詞だと思うが、彼のストレートな方向性がなかなか受け入れられなかったことについて、どのように思われるか聞かせてほしい。

A. 私も放送規制が掛かったときはびっくりした。そして、新聞に歌詞が全部載っていたのでよく読んだ。あれは要するに、責任を取りたくないマスコミの自己規制。全部聴いてもらえば、「死にたければ死ねばいい」と言っているのではなく「死ぬな」と言っている歌なのだから、そこら辺の理解力がない人たちが自己規制を掛けたことに、非常にばかばかしい時代だなと思う。なぜあのようないい歌を、フルコーラスかけて聴かせないのかと思った。1行だけ聴いて死ぬ人が出たら困るということだから、あれは世の中の大人がダメだ。

賞味期限内のものを食べたのにお腹が痛くなったという人が出るといけないから、賞味期限をうんと短くする。そして、まだ食べられるものをどんどん捨てさせている。話の質はちょっと違うが、この件もそれと同じような自己規制だと思う。もう少し大らかな気持ちで世の中を見渡してみたらいかがかと放送局には言いたい。

Q. 音楽業界で仕事をしていく中で、女性としてイヤだったことや頑張ったことなど、何かエピソードがあれば教えてほしい。

A. 実力の世界なので、しっかりと自分なりの力を出して仕事をしていけば、バカにされたりいじめられたりはしない。仲間同士で尊敬しあって曲をつくるのは大変楽しいことだった。だから、ちょっと普通の世界とは違うかなと思う。ただ、女性が少ないことは確かである。

以上





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