想像と空想は全く違う。
その違いは大変なものであるのに、これらを混同している人が多いのは驚くべきことだ。
空想家(無想家)に想像力など全く無い。
空想家は、自己中心的な欲望の想いに耽り、現実でもわがままで、多くの場合、食べたいだけ食べてぶくぶく太っていて、逃避癖があるのに、短気で執念深い。
なるほど、想像と空想の精神活動に、似たところが無い訳でもない。
では、両者の違いを明確に述べよう。
空想は自分の頭で考えている。しかし、想像とは浮かんでくるものだ。
空想は時間がかかるが、想像は一瞬だ。
空想というのは、自分がヒーローやヒロインになり、人々に崇められ、良い思いをするという欲望が土台にある。空想の世界の中では、自分は白雪姫のように世界で一番美しく、ヘラクレスのように無敵で、無償かつ最大の愛と崇敬を捧げる仲間がいる。
しかし、想像においては、そのようなものは全く存在しない。

空想は思いのままに起こすことが出来るが、それは何の役にも立たないばかりか、神聖なる意識との間に堅い殻を作り上げる。
想像は、流れ星のように、いつやってくるかは分からない。だが、それは荘厳で、心の穢れを祓う。なぜなら、それは神聖な意識からやってくるものだからだ。

想像が、いつ、心の扉を叩くのかは全く分からない。それは、起こそうとして起こるものではない。神の意志によらずして決して起こらない。
だが、それは、実に、空想をやめた時に起こりやすいのだ。
空想とは欲望である。欲望が無い人間に、想像がある。
優れたメルヘン作家に空想家は決していない。彼の描くストーリーは、頭で考えたものではない。心に勝手に浮かんだものだ。
アンデルセンに空想癖はなかった。彼は子供の頃から神話好きではあったが、彼の心の中の女神達が、彼に自発的に語りかけたのだ。彼に欲望がないがゆえにだ。
アインシュタインは、光と一緒に飛んだらどうなるのだろうかとは思ったが、そんな想像が不意に浮かんだのであり、空想したのではない。

エマーソンは、ギリシャ神話は想像ではあるが、空想ではないと言った。
まさにその通りだ。
あの壮大な話が、誰かが考えて作ったものであるはずがない。
羊飼いを生業としていた詩人のヘシオドスに、詩の女神ムーサが、彼に物語を授けた。
ムーサは、彼の心に飛び込んできた神聖な意識の火花である。それを、とりもなおさず女神の言葉と言うのだ。

想像力を得るためには、空想を捨てなければならない。
この逆のことを教えられた人が多いと思うが、その間違いがはっきりしたと思う。
空想は欲望であり、妄想だ。
ヒーローやヒロインと自己同一化して偽りの快感をもたらすようなゲームをしないことだ。これは速やかにあなたの想像力を破壊する。
映画やアニメ、小説、漫画はどうであろうか?
素直に、ただ見るだけなら害はなく、著者の想像と同調する場合もある。これらは、まさに、見るもの次第だ。
自分が面白いと思ったからといって、闇雲に人に奨めたりするようなら、既に空想(妄想)している。
そして、想像的な二次創作は良いのだが、空想的な二次創作は非常に悪い。この違いはもう分かるのではないかと思う。

再度、重要なことを言うと、空想を止めた時に想像が起きる条件が整う。
ただし、想像はいつやってくるかは決して分からない。想像は、全てのことと同じく、神の意志によってのみ起こる。
人に出来ることは空想だけだ。だから、それをやめて、神の恩寵である想像を待つことが出来るのである。









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