- 礫川全次著
- 価格 1700+税円
- 判型:46判、224ページ、並製
- ISBN 978-4-8265-0644-1
- 初版発行年月 2016年6月10日
- 発売日 2016年6月12日
内容紹介文
【例 言】
・本書は、「国会図書館にない本」を100冊選び、その各冊について、それがどういう本か、なぜ国会図書館にないのか、などについて考察したものです。
・各冊の紹介は、極力、簡潔を心がけました。表紙・扉などは、その本の個性をよく表現していますので、全冊について、図像を掲げました。
・100冊は、基本的に、礫川が架蔵しているものから選びました。選択の偏向は、蔵書の偏向ということで、ご諒承ください。
・記述の適否についてのご指摘、100冊の内容などについてのお問い合わせ等を歓迎します。
・「雑学」に徹しようとした本ですが、それに徹することの中で、見えてきたこともあり、そうしたことに、かなり筆を費やしてしまいました。ご意見などいただければさいわいです。
まえがき
昨年(二〇一五年)一〇月に、『独学の冒険』を出していただいてから、まだ一年も経っていませんが、今回、『雑学の冒険』という本を出していただくことになりました。しかも、この間、礫川は、『在野学の冒険』(本年五月刊)という論集にも、参加させていただいています。
ここに、『独学の冒険』、『在野学の冒険』、『雑学の冒険』という三冊が揃ったわけですが、まず、この三冊の関係について、ご説明しておきたいと思います。
『独学の冒険』は、独学に励んでおられる方々、あるいは独学を目指しておられる方々に向けて書いた本です。
この本をまとめながら、「独学」と「在野学」との関係ということを考えはじめました。独学者は、多くの場合、「在野」の学者ですが、「独学者」イコール「在野学者」とは限りません。また、「独学」イコール「在野学」というわけでもありません。
「在野学」とは何かという問題について、それを論じるにふさわしい方々に執筆していただいたのが、論集『在野学の冒険』です。「在野学」という言葉は、まだ十分に定着した言葉ではありません。しかし、同書に寄せられた論考を踏まえますと、「在野学」という言葉は、・「在野」の学者がなしとげた研究成果、・「在野の世界」(在野の知的空間)を対象とした研究、・「在野精神」に富んだ研究者による研究、これら三様のものの総称として、理解できるような気がします。
「在野学」と「雑学」との関係ですが、在野学を、もし上記・のように捉えた場合には、雑学と称するもののほとんどは、在野学に包摂されることになるでしょう。
さて、今回の『雑学の冒険──国会図書館にない100冊の本』ですが、もともとは、『独学の冒険』の第六章「独学者にすすめる百冊の本」のために、一〇〇冊の本を選んでいたときに思いついたアイデアです。ちなみに、「独学者にすすめる百冊の本」には、今回、「国会図書館にない100冊の本」として選んだ本が、六冊、入っています。
「国会図書館にない本」というのは、まさに種々雑多であって、それを列挙すること自体が「雑学」です。また、個々の本について解説してゆくことは、「雑学」という際限のない世界に迷い込むことでした。その一方、「国会図書館にない本」という「雑学」に徹することで、今回、はじめて見えてきたものもありました。これについては、本書第四章をご参照ください。
この本を書いているうちに、「雑学は、雑学の外に虚像をもつかぎりは、雑学でしかない」という言葉が思い浮かびました。言うまでもなく、吉本隆明の言葉「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、......」(「日本のナショナリズム」一九六五)のモジリです。
今回、『雑学の冒険』というタイトルに甘え、雑学の外に「虚像」を持とうとしたことがあったかもしれません。先ほどの言葉を復唱し、戒めとしたいと思います。
二〇一六年四月三〇日
礫川全次
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Q&A──なぜ、国会図書館にない本を問題にするのか
本書は、これまでにない角度から、「書物」について語り、「国会図書館」について論じています。そこで、あらかじめ、読者諸氏から発せられるかもしれないご質問を想定し、それにお答えしておくことにしました。いわば、Q&Aのかたちをとった導入篇です。
Q1・なぜ、国会図書館にない本を問題にしたのですか。
A1・多くの方は、国会図書館には、日本国内で発行されてきた、あらゆる本が揃っていると思われていることでしょう。しかし、現実には、国会図書館にない本もたくさんあります。まず、そのことを知っていただきたいと思いました。
Q2・国会図書館に、あらゆる本が揃っているとは思いませんが、文献として貴重な本や、学問研究の上で必要な基礎的文献、専門書などは、だいたい揃っているのではありませんか。
A2・たしかに、その通りです。しかし、これには、少し補足が必要です。
一口に学問研究といっても、さまざまな分野があり、さまざまな角度からのアプローチがありえます。そして、プロ・アマを問わず、少しツっこんだ研究しようと思いますと、往々にして、国会図書館の蔵書では間に合わないという事態にぶつかるものです。
本書の第三章でも指摘しましたが、国会図書館には、柳田國男著、早川孝太郎編集の『女性と民間伝承』〔23〕(岡書院、一九三二)が架蔵されていません。この本を読むためには、国会図書館以外の図書館を探して、そちらに赴かなければなりません。この場合、できれば、この岡書院版と、戦後、柳田が再編集した実業之日本社版(一九四九)の両方を架蔵している図書館を探したほうがよいのですが、その理由については、第三章をご参照ください。いずれにしても、こうしたことは、在野の研究者にとっては、大きな負担をともなうことです。
もうひとつ、例を挙げましょう。戦前、「支那通」で知られた後藤朝太郎という言語学者がいました。私は今年(二〇一六年)になって、この後藤朝太郎が、敗戦直前の一九四五(昭和二〇)年八月九日の夜八時半、都立高校駅(現在の都立大学駅)踏切で、「轢死を装い暗殺」されたという事実を知って、衝撃を受けました。
これを私は、国会図書館で閲覧した論文で知りました。劉家〓【ピラミッド型に「金」三つ】さんの「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」という論文です(『環日本海研究年報』第四号、一九九七年三月、所載)。ところが劉さんは、この暗殺説の出どころを明記していません。しかし、その出どころは、おそらく、劉さん自身の論文、一九九八年一月に発表された「後藤朝太郎・長野朗子孫訪問記および著作目録」なのであろうという検討がつきました。
そこまではよかったのですが、その論文が載っている雑誌『環日本海論叢』第一四号が、国会図書館には架蔵されていないことを知ったときはガッカリしました。この論文は、実は、いまだに読めないままでいます。
同じような例が、いくらでもあるわけです。国会図書館は、アマ・プロを問わず、研究者にとって強い味方ですが、その蔵書は、決して万全なものではありません。
Q3・国会図書館の蔵書を万全なものにせよ、という趣旨ですか。
A3・いや、そうではありません。国会図書館の蔵書を万全なものにするなどというのは、とうてい、不可能なことです。
申し上げたいのは、こういうことです。国会図書館の蔵書が、広大な知的空間を形成しているのは事実ですが、その知的空間の中で、少しツッこんだ研究しようとしたり、気になっていた疑問を解消しようとしたりすると、必ず、壁にぶちあたります。国会図書館の蔵書が形成している知的空間というのは、固有のクセ、特有の歪みを持った空間であって、それゆえに一定の限界を持っています。「国会図書館にない本」を指摘することは、そうした限界を指摘することになると考えます。
Q4・国会図書館という知的空間のクセや歪みをよく認識した上で、その蔵書を利用すべきだという趣旨ですか。
A4・その通りです。特に、昭和前期(戦前・戦中)の蔵書を利用するときは、そうした注意が不可欠だと思います。
それから、たぶん、今のことと重なるのと思うのですが、この世の中には、国会図書館が形成しているようなアカデミックな知的空間とは別の、ある種の知的空間が存在しています。このことも、本書が指摘したかったところです。
そうした知的空間を、仮に「在野の知的空間」と呼んでおくことにしましょう。かつて、評論家の佐藤忠男さんは、「残念ながら図書館には下らない本が置いてない」という名言を吐かれましたが、そうした「下らない本」の世界も、この「在野の知的空間」の一部と言えるでしょう。そのほか、在野の研究者がこだわっている特殊研究、サブカルチャーの世界、「趣味」の世界、「怪しい本」の世界、「あぶない本」の世界などは、すべて、この「在野の知的空間」に含まれると考えています。
念のために申し上げておきますが、ここで、「下らない」、「怪しい」、「あぶない」などというのは、価値が低いとか、価値がないといった意味ではありません。「下らない本」、「怪しい本」、「あぶない本」などの世界も、ひとつの「知的空間」を形成しているという捉え方が大切だと思います。
Q5・アカデミックな知的空間と、在野の知的空間とは、対立する関係にあるのでしょうか。
A5・対照的な関係にあると言うことはできますが、対立しているわけではありません。
よく知られていますように、柳田國男は、最初の単行本『後狩詞記』を、自費出版の形で出版しています。一九〇九年(明治四二)三月一一日発行、七〇ページの小冊子で、非売品扱い、発行部数は、わずかに五〇部でした。この本は、日向の椎葉村に伝わる狩猟伝承をまとめたもので、柳田みずから「随分風変りの珍書」と認めているわけですが(同書一〇ページ)、かなり特殊な研究であり、かなり趣味的な本です。
ところが、のちには、この本が、日本における「民俗学」という学問の原点として捉えられることになります。椎葉村の狩猟伝承という「在野の知的空間」が、日本における民俗学という学問の誕生をうながし、その学問はやがて、「アカデミックな知的空間」の一画を占めるようになりました。
この一事からも明らかなように、アカデミックな知的空間と、在野の知的空間とは、相互に重なりあう関係にあります。決して、対立しているわけではありません。ちなみに、柳田國男の『後狩詞記』は、今日、国会図書館に架蔵されています。柳田が帝国図書館に、この本を寄贈したからです。国会図書館のデジタルコレクションで、同書を閲覧しますと、表紙に「献 帝国図書館 柳田國男」という柳田の署名、「柳田國男寄贈本」という角印、「明治四二・五・一七」という丸印を確認することができます。
また、明治末期から大正期にかけて、大阪市の立川文明堂から発行されていた立川文庫は、典型的な大衆小説ですが、そのうちのかなりの点数が、今日、国会図書館に架蔵されています。これは、「書き講談」と呼ばれるもので、講談調で書かれた小説ですが、明治期には、実際の落語や講談を速記し、そのまま本にした速記本も、たくさん出版されています。こうした速記本もまた、国会図書館には、数多く架蔵されています。いずれも、在野の知的空間に属するものです。
つまり、今日の国会図書館という空間では、アカデミックな知的空間と在野の知的空間とが、間違いなく「共存」しています。少なくとも、対立はしていません。
Q6・「在野学」という言葉がありますが、これと「在野の知的空間」との関係は、どうなるのでしょうか。
A6・在野学という言葉は、まだ十分に定着した言葉ではありませんが、「在野」において、つまり「アカデミズムの世界の外」で、研究を続けている研究者の学問やその研究成果を指す言葉だと言ってよいでしょう。
最初に私が「在野学」という言葉を意識したのは、山本義隆さんの「十六世紀文化革命」という文章(『論座』二〇〇五年五月号所載)を読んだときでした。これは、二〇〇四年二月に、横浜市開港記念会館でおこなわれた講演の記録だそうですが、ここで山本さんは、近代の科学というものは、十六世紀に、在野の職人が、みずからが獲得した「知」を、日ごろ使っている「俗語」で記録したことに始まる、と指摘されています。
たとえば、当時の医者は、外科のような手を汚す仕事はやらず、手術をする、包帯を巻くといった仕事は、理髪師あがりの外科職人がやっていました。そのほかの職業においても、当然、同様のことがあったわけです。そして、そういう職人、技術者、船乗り、軍人、外科医(外科職人)といった人たちが、自分の仕事で行き当たった諸問題を、自分の頭で科学的に考察し、それを学術用語のラテン語ではなく、ドイツ語、フランス語、英語といった「俗語」で本に書きはじめます。──これが、十六世紀に起った大きな変化であり、これが近代の科学を生み出したということを、山本義隆さんは指摘されたのです。たいへん重要な指摘です。
この職人たちの学問が、まさに「在野学」です。ちなみに、この「十六世紀文化革命」の存在を指摘された山本義隆さんは、世界でも有数の「在野」の物理学者です。
さて、「在野学」といった場合、研究者が「アカデミズムの世界の外」に位置していること、その研究成果がアカデミズムもこれを認めざるをえないものであること、といったニュアンスが伴います。しかし私は、「在野学」という言葉は、これとは別の意味で用いてもよいのではないかと考えています。「在野学」という言葉を、アカデミズムが注目しない、「在野の知的空間」を対象とするような学問という意味で用いることも許されるのではないか、という意味です。
たとえば、柳田國男は、高級官僚の出身で、その意識や言動には官僚的なところもあったようですが、その学問的な立ち位置は、終始一貫して「在野」でした。同時に、その関心領域は、狩猟伝承、妖怪譚、山人譚、民間信仰、諺など、「在野の知的空間」に属するものばかりでした。柳田國男は、その立ち位置から言って「在野学者」と呼べるわけですが、私としてはむしろ、その関心領域が「在野の知的空間」であったという意味で、「在野学者」と呼ぶべきではないか、と考えているわけです。
Q7・今回の100冊は、どのようにして選んだのでしょうか。
A7・基本的に、自分が持っていた本の中から選びました。『かたわ娘』〔1〕と『女性と民間伝承』〔23〕以外は、すべて礫川の蔵書です。この本を書いている間に掘り出した本、古書店から取り寄せた本が、それぞれ一冊あります。
Q8・今回の100冊を選ぶ際に、おもしろそうな本を選ぼうということを意識しましたか。
A8・最初は、なるべく、おもしろい本を選ぼうと思っていました。これは、やってみてわかったことですが、国会図書館にない本を100冊探すというのは、そう簡単なことではありませんでした。何とか、130冊ぐらい探し出しましたが、ほとんどそれで精一杯で、おもしろい本を選ぼうなどという余裕は、とても、ありませんでした。
しかし、その130冊のすべてが、私にとっては、おもしろかったのです。130冊から、おもしろくない30冊をはずしたというわけではありません。130冊のすべてがおもしろかったところを、あえて100冊に絞ったのです。
ただし、読者が(若い読者の方が)、これらの本を「おもしろい」と感じてくれるかどうかは心配です。
Q9・「国会図書館にはない本」に、何か共通する特徴のようなものがありますか。
A9・あるような気がします。一口に言えば、「自己主張」が強いということでしょうか。これは、実物を見ていただかないと理解していただけないかもしれませんが、今回集めた130冊は、そのどの一冊も、オーラのようなものを発しています。どの一冊からも、著者あるいは関係者が、その本に賭けた情念のようなものが伝わってきました。まず、それを感じたのが、装丁です。今回、あらためて装丁の大切さを知りました。また、手触り、紙質、版面、活字などからも、そういったものが伝わってきました。
Q10・この本のタイトルを、『雑学の冒険』としたのは、どうしてですか。
A10・本書、特に第三章を見ていただくとわかりますが、本書は基本的に、「国会図書館にはない100冊の本」を素材にした「雑学」です。100冊の本それぞれから、無数の「雑学」を引き出すことができます。
これを、あえて『雑学の冒険』としたのは、ひとつには、雑学というものも、その世界に沈潜し続けていると、ある瞬間に、何か、思いもかけないものが見えてくるということがあるからです。
たとえば、『マツチパズル・テキスト』〔40〕という小冊子があります。いつ入手したのか、まったく記憶がありません。また、いつごろに発行されたものなのかもハッキリしません。よくわからない本ですが、しかし、調べているうちに、いろいろなことがわかってきました。そして、これが、戦中期のものであると気づいた瞬間、表紙のデザインの意味が理解できました。
また、ここ数か月、「国会図書館にない本」という雑学に沈潜していましたが、その結果、国会図書館を頂点とする日本の「知」の在りかたに、改良すべき問題点が、多々あることに気づいてきました。この本を書き始めたときは、まさか、国会図書館・公共図書館・大学図書館を中心とする「デジタル化資料送信ネットワーク」を展望することになるとは、予想すらしませんでした(第四章を、ご参照ください)。
そういうわけで、『雑学の冒険』というタイトルは気に入っていますし、看板に、それほどの偽りはないだろうと考えているわけです。
目次
目次
例言
まえがき
Q&A──なぜ、国会図書館にない本を問題にするのか
第一章
たとえば、どんな本が国会図書館にはないのか
1 世に数冊しかない本
2 新版か偽版か
3 「書き講談」と「新講談」
4 古書目録あれこれ
5 国会図書館にあるかないか
第二章
国会図書館にない本は、どのようにして生じたのか
1 帝国図書館が設立されるまで
2 明治後期および大正期
3 昭和前期(戦前・戦中期)
4 戦後占領期
5 独立から今日まで
第三章
国会図書館にない100冊の本を紹介する
1 私家版・非売品など(一三冊)
2 通俗科学、サブカルチャーなど(一二冊)
3 ローカルな話題、地方出版など(一一冊)
4 戦中期の出版物(九冊)
5 戦後占領期の出版物(七冊)
6 内部資料、受講用テキストなど(八冊)
7 小冊子、小型本(八冊)
8 雑誌の付録(七冊)
9 児童書、学習参考書など(一〇冊)
10 独習書、参考書など(六冊)
11 その他(九冊)
第四章
書物を愛する方々へのメッセージ
1 国会図書館にお勤めの方々へのメッセージ
2 公共図書館の閲覧サービスについての展望
3 古書業界で仕事をされている方々へのメッセージ
4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ
終 章
雑談の楽しさ、無駄の効用
国会図書館にない100冊の本(年代順)