人間中心主義を超えて:デジタルネイチャーへ
早いもので、2016年も1/4が過ぎ去ろうとしている。テクノロジーの時代だと思う。Atlasは雪原を歩行し、イ・セドルはアルファ碁に敗れた。AAAS(アメリカ科学振興協会)年次総会の基調講演はCrispr-Cas9のジェニファー・ダウドナ博士で、市販品のVRキットは市場に出荷されるのを待っている。
この3カ月に積み重なったニュースだけで、いくつもの可能世界が描けてしまう。計算機身体が人のように動き、知的ゲームを人と楽しみ、遺伝子というプログラム言語のコンパイラーが流行し、個人の五感が包括されつつある。
昨年末に刊行された「魔法の世紀」の最終章で、人間中心主義の脱構築された世界、計算機自然:デジタルネイチャーについて述べたが、この世界はまさにテクノロジーのイデアを基軸にして人を脱構築しようとしている。
1974年、21世紀を前にしてメディアアートの父、ナムジュンパイクは“Electronic Super Highway”(記事トップ写真)として将来発展するだろう電信の究極系=インターネットについて語り、それが人にとっての次なる大きな踏み切り台になると言った。
そして、今我々は1989年、ティム・バーナーズ=リー卿から始まるウェブ文化を踏み台に、インターネット経済を発展させ、1991年にマーク・ワイザーの語ったユビキタスコンピューティングの時代、IoTの時代を超えて、次の世界に踏み出そうとしているのだ、それは人の踏み切り台ではなく、人間中心主義からその次のパラダイムへの踏み切り台だと思う。モノと人や環境と人といった人間ー機械系の価値観が崩れようとしているのだ。
テクノロジーの変化が我々に求めようとしている事実はおそらく下記の四つだ。
2.心はやがて人工知能によって実証され解体され記述され得る関数である。
3.五感を再構成することで個人やコミュニティによって違った現実を定義しうる。
4.計算機発展以降、ヒトは世界を観察し解釈を与えうる唯一知性ではない。
1981年、アメリカの社会批評家モリス・バーマンは著書「デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化」の中で下記のように述べた。
マックス・ウェーバーが指摘するようにテクノロジーによって世界が脱魔術化された。しかしそのテクノロジーが専門化を繰り返し脱魔術化されていく過程を例示し、デカルトのような人間中心知性主義から、ベイトソン的な脱人間中心、ヒト(心/体)モノ自然の関係性型世界観への移行を語った。
昨年の「魔法の世紀」の中で語った魔法とは、バーマンのいう魔術のことであり、関係性を記述しうるもの=計算機がさらなる魔術化を進行させた果てに、計算機定義の超自然がありうるという論だ。なぜ、今そういう議論が必要なのだろうか、デカルトの時代を振り返ってみたい。
神が死んだあとに残った人間性
デカルトが1637年、「方法序説」の中で語ったのは、キリスト教によって規定されていた哲学のパラダイムが、17世紀初頭のコペルニクスーガリレオ的転回によって崩れ去ったあと、人間の知性を中心として哲学を再構築する人権宣言のようなものだと思う。その後にホッブスが「リヴァイアサン」を著したり、ジョン・ロックが社会契約説によって自由について語ったりしたのも、神託=スコラ哲学以後の人間中心発想、そして活版印刷以後のイメージ共有型社会による発想に根ざしていると言えるだろう。
活版印刷のようなメディアの誕生、誰かの考え方を伝え共有し、共同幻想を持つことで社会を保とうとする時代、そんなイメージ共有社会は500年ほど続いた。そして最後の150年は、エジソンのキネトスコープから始まる映像文化によってマスメディアが強化され、20世紀を映像の世紀にした。そして、20世紀の大戦によって生み出されたコンピュータ技術は、21世紀をインターネットの時代に変え、イメージ共有社会からの脱却を生み出そうとしている。
この脱却はデカルト以後の最も大きな脱構築の一つだと思う。我々はキリスト教の後ろ盾を失った哲学のように、人間性を失った先にある次の科学哲学を構築する時期に来ている。
人はイメージや記憶の共有によって得られる共同幻想を捨ててどこに向かうのだろうか。メディア論や芸術論自体も変わっていくのではないだろうか。映像の世紀のメディア論は、人間を中心に構築されたものだった。マーシャル・マクルーハンの「メディア論」は身体性の拡張に根ざしたものであったし、ジェームズ・J・ギブソンのアフォーダンス議論も身体や視点抜きでは語れないものだ。
しかし、現在我々は身体を超身体化/脱身体化/合身体化し、「一人称的視点と向き合う自然」といった唯一知性観を脱した。それはテクノロジーの変化が我々に承認させようとする事実の一つであり、インターネットが我々に促すテクニウム (編注※ケヴィン・ケリーが著書で提唱したテクノロジーの「生態系」を指す造語)的な変化、デジタルネイチャー化する計算機の自然圧力でもある。
この変化に纏わる様々な事象を整理し、受け取れるようにしておくことは多くの人々にとって、自らの哲学的、そして情報科学的立脚点を持つことにつながるだろう。共同幻想を脱した時代には個人一人一人のビジョンが重要であり、「整理」や「フレーム」、「パラダイム」という名のプラットフォーム化が、前時代のビジョンという名のコンテンツと同様に重要になっていくだろう。
今回の機会ではそういったフレームを提示することに注力したい。それはただネットの中に流れていくバズニュースを読み飛ばすのではなく、流速の早い今だからこそ、それらを収納するフレーム自体を提供することはできないだろうか。読むのに思考体力を必要とするかもしれない、しかし、脳へのフレームのインストールにはその努力が欠かせない。
貧者のヴァーチャルリアリティ
人間中心主義からの脱却をデカルト以後の最大の転換と言ったが、デカルト以前の我々の世界認識を捉え直すため、宗教のことを思い出してみよう。原始宗教や宗教社会学については先に挙げたマックス・ウェーバーの貢献が大きく、著作も多い。原始宗教の定義については所説あるが、「まじない(儀式・儀礼)」を共通幻想生成機として持つことが大きな特徴である。
我々は洞穴や狩猟を行う小さな社会性と生と死が織りなす中で、原始宗教を生んだ。その後の農耕の発明はより大きな協調動作や暦の制定を促した。それにより大規模集落に統治機構や規範が必要になった、その中で我々は占術やシャーマニズムを発展させてきた。
社会規模と宗教の教義の緻密さには密接な関係がある。キリスト教や仏教が一つのプラットフォームとして機能したのは、カール・マルクスの定義した上部構造、すなわち下部構造=労働の裏返しとして成立したのではないか。つまり、上部構造と下部構造の関係だけではなく、下部構造の要求する仕様としての宗教、人の精神補完装置としての意味が大きいのではないか。それは「貧者にとってのヴァーチャルリアリティ」として語りうるものだったのではないかと最近、僕はずっと考えている。ジャガイモを「貧者のパン」と呼んだ論があったが、現実を自由に振舞うことのできない人々にとっての現実が有史以来ずっと存在したのだ。
ここでいう貧者のヴァーチャルリアリティとは、自らが主体的に決定できない構造的弱者(例えば、為政者に対する農民)が、希望を持って生きて行くための精神的支柱のことである。具体的には、例えば念仏を唱えることで極楽浄土に転生することや教会で聖書を読みあわせることによって神の国を想像することなどが、日々の辛い生活に拮抗するためのソフトウェアとして人々にインストールされていったのではないだろうか。
それらは、極めてヴァーチャルリアリティに似ている。リアリティを生きるために、実体の確認が不可能な死後の世界を提示し、それを想像の中で実体に近づけていく、ヴァーチャルリアリティを現実に対するフィルタとして作り出す方法だ。勧善懲悪な審判がやがてやってくるという色眼鏡を通して世界を見させることに成功すれば、それは為政者にとって都合の良い規範を作り出すことができる。
映像の社会の中では、マスコミュニケーション上のコンテンツで語られるドラマや映画みたいなファンタジーもヴァーチャルリアリティとして振舞っている。つまり自分を現実から投射可能な世界だ。その意味ではディズニーランドも結婚式もヴァーチャルリアリティと言えるのではないだろうか。イメージを共有し作り出すための装置がイメージ内で完結するとき、それはヴァーチャルリアリティであり、その消費活動がもし何らかのプラットフォームと収益構造を生み出すならばそれは貧者のヴァーチャルリアリティになりうる。
映像装置と身体
1891年にエジソンが発明した映像装置キネトスコープが覗き込むタイプのデバイスだったのに対し、1894年にリュミエール兄弟が発明したのは壁に投影するタイプの映像装置だった。投影タイプの映像装置は、コストの面でキネトスコープを圧倒し、すぐに主流になった。このとき、投影装置の暗さから、劇場は暗転され、我々は身体への知覚を喪失した暗転空間の中でイメージに注視することで目とスクリーンの間の可視光通信を行うようになり、大画面や一つのコンテンツを共有する文化に至った。
我々は、1965年のアイバン・サザランドによるHMDの発明や、1985年のジャロン・ラニアー(編注※コンピュータ科学者、作家。「バーチャルリアリティ」という呼び方を考案した。著書に「人間はガジェットではない」)による第一次VRブームを経て、2010年代になり、やっと視野角の広くコストの安いバーチャルリアリティを手にした。
1960年代の様々な取り組みが結実しようとしている時代だとも言える。現在のITスポーツの萌芽であったようなものも1966年に取り組まれているし、サイバネティックセレンディピティという展覧会(世界初のコンピュータアート展覧会)が1968年に存在していた。つまり、1960年代のマルチメディアは身体性とデータの関係性を問い直すものであったが、その暫定的実装としての2次元スクリーンを用いた技術がパーソナルコンピュータの普及とともに社会にインストールされていったのだ。
今我々はスマートフォンの普及により、HMDでもコストを安く作ることができるようになってきた、Oculusの持つ単レンズ光学系に見られるように、シンプルなレンズのみであとはソフトウェア的な画像変換によってVRを作り出すことが出来るようになったのだ。
このコロンブスの卵的発明はハコスコやGoogleカードボードに見られるように、今誰でも安いVR装置を購入することを可能にした。この装置は、今まであった貧者のヴァーチャルリアリティを更新しうる。一人一人が低コストで別の世界を目指すことができるようになるからだ。
ここで持ちうる大雑把な仮説としては、共同幻想を失った我々は共同幻想が回帰しうる10万人程度の世界を7万個作り出し、70億人を分割することで暮らしていくのではないだろうか? その中で我々は現実に帰属する時間と、各々の現実に帰属する時間を住み分けながらうまくやっていくのではないだろうか。
そこで最近着目しているのが、ユートピアである。トマスモアの「ユートピア」が書かれたのはデカルト以前、1516年のことであるが、そこの世界に宗教観は存在していない。完結された世界があるだけだ。ユートピアは進歩が止まった世界として描かれることが多いが、メディアの発展なき世界も進歩のない世界と同義だから、おそらく個別のコミュニティはユートピア的に振る舞うのではないかと考えている。
楽観的シンギュラリティ:魔法の世紀へ
魔法というパラダイムは様々なところで誤解を生みながら伝わっているところがある。それは、科学技術とまじないの対比構造の中の魔術という意味ではなく、煌びやかで楽しそうなものという受け入れ方をされている節があるが、その言葉の印象自体はぼくは最近一周して気にいるようになった。
ブラックボックス化した科学技術社会は一見すると、コンピュータの奴隷のように人が振る舞うように見える。しかし、それを魔法と捉えるか奴隷と捉えるかによって出来る印象の差はかなり違うのではないだろうか。魔法の世紀とするか、奴隷の世紀とするか。今我々に求められていることは、シンギュラリティへの恐怖を掻き立てることなく、人と機械の調和した、そして人間中心主義を超越した計算機自然の中で、新たな科学哲学を模索していくことである。
我々は今、何が便利になるかという価値観だけで計算機の進歩を捉えることができなくなった。それは道具としてのコンピュータが環境になり、そして人と構造的にカップリングした調和的計算機環境に移行したからである。計算機の進歩はその独特の文化的構造ももたらすようになった。それは計算機が社会の中にプラットフォームを形成し、プラットフォームが越境されることによって発見される文化の更新性が一瞬のアートのように振る舞うからだ。
しかしながら、我々はその度々発生する越境を楽しめる程度に計算機文化に成熟しつつある。単一のコンピュータシステムに支配されるような誤解を解き、機械と人との間で対局を持ち、観戦することもできるようになってきた。機械の振る舞いに人らしさを感じ、我々はその感情によって自らの人間性を逆定義することも珍しくはない。日々目にするテクノロジー進歩はインターネットの新陳代謝だ。
共同幻想が脱構築された今、ビジョンはカリスマの手を離れ、個人個人が別のビジョンを持つことを求められている。今、我々に必要なのは、信じるに足るパラダイムやフレームであり、各自の幸福論やビジョンを追求する、生き方を求められている。
これは不幸か? いや、幸福が脱構築されただけなのだ、早くその先を、奴隷の世紀としてニヒリズムに浸ることなく、魔法の世紀に胸躍る世界を見ていきたい。そのフレームを提示できればと考えている。
(落合陽一)