第111回 骸骨一巡
第111回 2019年6月
骸骨一巡
鈴木創士
一休宗純『狂雲集』(現在品切れ)
石井恭二『心のアラベスク』
大徳寺。一歩なかに足を踏み入れるとあたりの空気が一変する。さすがである。この感じはなかなか筆舌に尽くしがたいものがある。現代の観光京都においては稀なことであるかもしれない。だがここの空気はところどころとても古く感じるが、古代の古さとはまた趣を異としている。
一四一五年、彼は大徳寺の高僧華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、一休の道号を授かる。
有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る
一休み
雨ふらば降れ風ふかば吹け
一休はひと休みしては、この休みを破るのだ。煩悩と悟りの間には休みがある。休みながら休みを破ることは掟を破ることである。迷悟は、そしてわれわれは、いつも道半ばにして、道半ばのわれわれは閑居しているが、だからといってそれはたしかに不善を為すことではないはずだ。
鴉が鳴く。それを聞いてにわかに大悟したと伝えられる一休宗純。ほんとうの話であろうが、鴉がどうしたなど、ほんとうなのかと下司の勘ぐりをしてみたくもなるかもしれない。どちらであってもそんなことはわれわれにとって大したことではないが、それならば一休は鴉になれたのだろうか。鳴いた鴉は一休であると言えたのだろうか。
師はそれによって悟りの認可状(!)を授けようとするが、一休はこれを頑なに拒否した。さすが一休さんである。『狂雲集』を少しでも繙けばわかることだが、一休さんはなかなか肯首しない。一休の漢詩のなかに登場する女性との愛を除けば、ほとんどすべてについて肯定などしないのである。全否定である。当時の禅思想、高僧であろうとなかろうと、彼らの言動、しかも一休自身の宗派である当時の臨済宗についても然り。ぼろくそである。情け容赦はない。われわれが教えられた(これはほぼ隠蔽に近かった)近代日本文化による長年にわたるマルコメ味噌の一休はほとんど作り話であり、幼少時の一休さんがいかに利発な子供であったかということしか証明しはしない。その後、一休は入水による自殺未遂までやっている。
一四七四年、後土御門天皇の命によって大徳寺の住持に任ぜられ、老々の身ながら応仁の乱によって荒廃した大徳寺の再興に力を尽くすが、一休本人はここに住むことはなかった。当時の都は屍体の山であった。一休はそこを平気な面持ちで歩き回った。京田辺にひっそりとある酬恩庵一休寺(かつての妙勝寺)こそが寵愛する盲目の女性森女との住処であり、そこで一休は八十七歳で寂滅する。一休の墓所はそこにある。
三と世までつくりし罪も残りなく
ついには我も消え果てにける
かつて師がいた。弟子がいた。たぶんそうなのだろう。葛藤があった。戦いもあった。いつの時代も変わらない。だが私の目の前にある塔頭からは何の物音もしない。人も人の営みも消されてしまったかのように、人の姿はない。鴉も鳴かない。一休さんは薬草にも詳しかったと言われている。だが大徳寺の裏にはもう朝鮮朝顔は密生してはいないだろう。もう何十年も前のこと、座禅もやらないし、今もそうだが、何も知らなかった私がまだ若かりし頃、そんな話がまことしやかに囁かれ、大笑いする者たちがいた。禅思想はどんな風にも感知されたビートニックに似ていたのかもしれないが、実際には誰もが、ともかく私は、我関せずであった。
九年まで坐禅するこそ地獄なれ
虚空の土となれるその身を
虚空から一切のものが出てくるのであれば、幻覚はどんな風にでもあったのだ。停滞から停滞へは狭間があって、そこに空気があった。音楽があったり、文字が飛び交っていたりしたのだから、それでいいではないか。眠っていても、眠っていなくても、夢を見ることは必定なのだから、わざわざ思い悩むことなどない、と誰かが風の便りを聞いたように呟いている。
世の中はまどろまで見る夢のうち
見でやおどろく人のはかなさ
驚きはそれはそれで新しいが、最後に驚くことは馬鹿げている。空気を含むものは何もない。空気は木々の間、あの松の枝間、あるいは閉じられた山門のあたりに偶然あって、澄み切ったまま凝固してしまったかのようなのだ。だからそこを吹き抜ける風もまた涼しい。観光でやってきたそぞろ歩く異国の人たちも少人数の西洋人ばかりのようで遠慮がちなのが面白い。かなり暑い日だったのに、境内の道はひんやりとしていた。このひっそりとした錯覚がまた楽しい。
先日、千利休の菩提寺である大徳寺聚光院に出向いたのだった。大徳寺は二回目だったか、はじめてだったのかよく覚えていない。そこでやまと語りべ奉納公演「利休と等伯」という催しがあって、それを見にやって来た。語りべはやすきひろこ、楽の音は箏、笙、打楽器は私の友人であるユンツボタジ。
千利休切腹の後、ほとんど無名だった絵師長谷川等伯の悲哀、敵対する天才の誉れ高い狩野永徳のことが語られる。語りべの語りは、鴉の鳴き声ではないが、格別の声であった。誰でも出せるものではない。
本堂には松永と永徳の襖絵がある。そこが会場であった。永徳が下絵を描き、利休が整えたという庭があった。沙羅の木。松。苔。石は黙して語らない。茶室は古く、三畳のきわめて簡素なもの。紫陽花の小さな花が活けてあった。書院にはなぜか千住博の新しい襖絵があったが、イヴ・クラインを思い出した。
それにもかかわらず禅林には何もない。まずは何もないことを言い表せなければならなかったのかもしれない。至難の技だ。空気は凛として、人など寄せつけない。永徳発案の石庭は平凡なものに思えたが、私の見立てが間違っていたのだろうか。だがこんな思いつきなど、雨が降ったりしていれば、また違ったものになっていたかもしれない。
一五九一年に秀吉が利休に切腹を命じたのは、大徳寺三門の等身大の利休の木像が秀吉の逆鱗に触れたからだと言われているが、私にはにわかに信じがたいものがある。その死の原因については諸説あるけれど、千利休がじつは生粋のキリシタンだったからではなかったのか。私は以前からそう思っていたし、いまもそう考えている。気まぐれで小心者である当時の秀吉が最も怖れをなし、最も理解しがたく、最もまるめこむのに難渋し、最も嫌ったことである。バテレン追放令はすでに発布されていた。
利休が理不尽な死を迎えた同じ年、ヨーロッパから帰国したばかりの天正少年遣欧使節団の四人の少年たちはすでに青年になっていたが、聚楽第で秀吉に謁見し、ジョスカン・デプレの曲を演奏披露する。彼らの立派な態度に感心した秀吉は、彼らが本物のキリスト教徒であったにもかかわらず、家来に召しかかえたいと提案するが、少年たちは丁重にしかし断固としてその申し出を退ける。彼らのひとりは天を指差して言った、「私どもの天主さまはあそこにおわしますゆえ…」。その後の彼ら四人の苦難の運命は人の知るところである。
ここ数年前のことだが、堺で発見された掛け軸には、外国の宣教師たちに取り囲まれ、十字架の形をした大きな杖をもつ千利休が描かれていた。いずれにせよ利休の首はあの一条戻り橋に晒された。
臨済宗大徳寺は独特な場所である。他方、家康によるキリシタン弾圧の禁教令は南禅寺の崇伝の影響のもとに起草された。これまた臨済宗であった。
一休と利休。百年を挟んだ二つの休止。茶の湯。安んずる者は休まない。一休たちは休みをとって、それを破った。
桜木をくだきて見れば花もなし
花をば春の空ぞ持ち来たる
何ごともみな偽りの世なりけり
死ぬるというもまことならねば
(最初を除いて引用はすべて『一休骸骨』による)
これがほんとうに一休の言葉であったなら、ほとんど無神論である。無神論の萌芽といった穏やかなものではなかった。
いつかは知らぬが、ある元旦の朝、一休さんは竹竿の先に髑髏をぶらさげて歩いていた。「ご用心、ご用心」、と言いながら。そのときも鴉は鳴いたのであろうか。