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第65回 ジャコメッティとジュネ

第65回 2015年7月





                          ジャコメッティとジュネ




                                                                        鈴木創士





ジャック・デュパン『ジャコメッティ――あるアプローチのために
鈴木創士『サブ・ローザ――書物不良談義



 通りは不安げで、灰色で、震える大気のこちら側で静まり返っている。オベルカンプ通りの先はメニルモンタン通りに変わるが、それは上り坂のまま未来からやって来る錯乱のように空までずっと続いていて、顔の破片が反射するように、あの世から射してくる細かな光に満たされているように見える。針のようにしだいに細くなり、最後には尖った先端だけになる道。最も不確かで最も軽く、時には最も重々しい、ありそうもない輝きを帯びる恒久不変の実在性。彼らが見たものを私もまた見たというのだろうか。非現実性としか言いようのないものがこの世には溢れている。それは向こうでもくもくと立ちのぼる空の雲のぎざぎざの縁のように、この世のものとは思えない鋭利で曖昧な美しさに縁取られているのがわかる。
 非現実の一種の縁飾りが時おり向こうに覗いている。私は事のついでのようにそれを見つめているが、それを表現することはできない。口でも手でも言ったり描いたりすることはできないのだ。色彩はほとんどない。暗い色彩すらない。レンブラントの描く装飾品のようには。とんでもないものを見てしまったのか。だが雲の立つ空はあまりに明るくて、私ははっとして、その明るさのなかで目を細めると、やはりそれはうまくいけば反射のなかに虹色が見えることもあるただの雲の縁でしかなかった。だがこの灰色の通りはそんな空や雲とははっきりとしたコントラストを示している。対照のなかには対称を破るものがある。まんなかには捉えどころのない亀裂が走っている。目には見えないだけだ。私たちに塵を軽蔑する権利はない。


 通りはすでに彫像であり、彫刻家が造らなかった彫像の雛形であり、それは縦にすくっと立っている。その立像はこれほど甘美で遠く恭しい通りのなかに空気のように充満しているが、実際には誰もその立像を目にすることはできない。ジャコメッティの立像でさえも。イマージュは実現されたのか。キリストは彼のイマージュの実現を阻もうとしたペテロを叱りつけたのだとジュネは言っていた。



 雨上がりのみぎり立像には鳥がとまりに来たこともあっただろう。目の端で水辺(みぎり)に映る日本の円い月を思い出す。請け合ってもいい、ジャコメッティは雨上がりの千夜一夜の視界が何よりも好きだったに違いない。実像などない。それは紛れもなく視界と呼べるものだったはずだ。このみずみずしさに反して、彫像はからからに乾いているようにしか、からからに乾くほかはないようにしか見えないのだ。
 彼は暗い映画館から出て、雨上がりの最初の数分間にそれを見たのだった。舞台のスクリーンではすべての記号が混じり合い、もうどの記号も意味をなさなくなっていたのに、映画館の暗い森を出た途端、すべては信じられないほど鮮明になり、記憶を消し去り、過酷だが風格のある、過ぎ去りゆく世界の一端を彼に見せたのだった。それが永遠に思えたのは、あまりに孤立しすぎた一瞬の出来事だったからに相違ない。



 ちょうどいま私の目から五十メートルくらいのところにある白く焼けてしまったような屋根の上に山鳥が墜落したところだった。ほとんど急降下だった。山鳥は猛暑のせいだろうか屋根の上でさんざんもがいた後でぐったりしていた。このまま焼け死んでしまうのだろうか。私は固唾をのんで見守る。死んだと思っても死んではいないもの、死なないものがある。山鳥はやおら身を起こすと思ったより長い羽をばたつかせ、それから日影にある黒い屋根のほうへ向かって飛び立った。
 だが今この通りに物欲しげに囀る鳥はいないはずである。


 パリの通りにはそれぞれひとつの人格があることがわかっているとしても、むしろさまざまな通りの人格は名前も持たずにどこからともなく現れるか、あるいはたまには暑苦しいほどのほとんど架空ともいえる歴史的登場人物のようなものであって、しかしこの通り自体は優しい灰色をしているのだし、見られれば見られるほどこちらを見返すのにそれでも消え入りそうな廃品同然の風情がある。だがここで急いで名指ししなければならないこの通りの人格とは、むしろ今はそこを歩くジャン・ジュネのことを指している。したがってジュネ自身にはあたかも重さも人格もないかのようであるし、彼は彼を無のなかに突き落とした誰かにもう似始めている。向こうにアーチ状になった奇怪な枝振りの大きなケヤキの木が見える。葉っぱは日の光を透かし、小声でさざめき、聞こえないくらいの死後の光の歌をうたう。昨日まではそこへ種々様々な鳥がやって来ていた。鳥たちは喧嘩をして羽を大きくばたつかせていた。


 木の潜り戸を押して、ジュネは勝手を知った近所の人のように中へ入る。勿論、通りからこんなところへ入っていくのは始めてのことである。蔓薔薇が生い茂って、古い庭のタイルをほとんど隠してしまっている。タイルはすでに残骸であり、ずいぶん古びてはいるが、ところどころコバルトブルーと白と緑とオレンジ色とおぼしい色彩が残ってはいるのだけれど、このタイルが何のためのタイルの残骸なのかはわからない。図らずも庭師はここに埋葬されているのだ。蔓薔薇を剪定する彼の指先がジャコメッティに乗り移り、朝を迎える。石膏のかけら、縄、麻屑、ちぎれた針金が落ちている。ジュネは昼間の押し込み強盗のように、それとも神殿内の物売りを蹴散らすイエスのように、ずかずかと遠慮なくさらに庭の奥へとわけ入る。ほんのりと汗をかいて光った禿頭の後頭部が揺れているのが見える。ジュネの着ている白黒の派手なチェックのコートはクロード・モーリアックからの頂き物である。クロードの妻はプルーストの姪孫だったが、このコートは勿論プルーストのものではなかった。


 それほど広いとはいえないこの中庭でジュネは尿意をもよおす。ジュネは口元にほんの少しだけ笑みを浮かべ、音程のはずれた鼻歌をうたいながら(古いシャンソンだ)、蔓薔薇の茂みに向かって立ち小便をする。まるでずっと青春期にいるみたいに、つまり生まれたときから年老いたままの古代人のようだ。小便は光を浴びて空中に弧を描いている。濡れたのは薔薇ではなく古びたタイルだった。後にパレスチナの地で同じことが起きたように、立ち小便の直立不動のまま、彼は何かしら光に導かれ、空に鼻を向け、パレスチナの地ではフェダイーンたちが手渡してくれた毛布のなかにいたように、自分のコートのなかにじっとして、何かの渦のなかに捕らえられていくのを感じる。この渦はそんなものがあるとして大気の眩暈に似ていなくもない。途轍もないことが起きたのかもしれなかった。彼は何かに慰められていたのだろうか。幸福だったのだろうか。ヨルダンの川が流れる音がする。ジュネは凍えている。わけても季節を感じる大気の感触、風のそよぎ、オリーブの木々のあいだから何年か前に見た、あるいは何年か後に見ることになる埃にまみれた女性たちのぼろぼろの民族衣装、空と土と樹々の色、軽やかな酩酊、純真な少年たちの目の輝き、あらゆるものが透けて見える、突然、笑いさざめくものすべてが耳のなかに波浪のように押し寄せ、死体とともに、モーツアルトのレクイエムの冒頭が切れ切れに聞こえ始めたのだ。
 ジャコメッティのアトリエにいるときとは反対に、ここではすべてがまるで真実ではないかのように見える。死体から死体へと飛び越えて行かねばならなかった。写真には写らない蠅と屍衣の皺とあれらの臭気とともに。死にゆく人々の死はそのまま世界の死である、とジュネは語っていた。


 ジャン・ジュネは、狭い中庭にいながら、そこは古代ローマの遺跡の風穴だと直観する。だが風穴ではない、ただの穴ぼこなのだ。どちらかといえば薄汚くも見える雑然としたこの庭の地下にはきっとそれがある。埃と砂、土と乾いた血だけがある。彼ははっとする。乾いた風が、恐ろしく古い風が、太初の時間の闇から吹いてくる。かつて国家であったものの屑が風に舞っている。カエサルの見た空、ギリシアの哲人たちが地面に吐いた唾。賽は幾度となく投げられたし、乞食の知恵というものがあった。砂を噛むような日々だ。ジュネは神の狂人たちとも言っていた。あれらの狂人たちに囲まれて、柩の蓋は閉まっていた。彼は墓の平石を恐れていたのかもしれなかった。
 それにこの世の生とは反対のものがあったのだ。蔓薔薇は生い茂り、そもそも名前すらわからない遺跡は実際にはどちらを向こうとも跡かたもない。欲望が輪を描き、そこを通り過ぎた者たちがいたのだろうか。モーツァルトはほんとうに永遠の休息、もうひとつの生を願ってこの曲を書いたのだろうか。すべては未完のままだ。すべての遺跡は架空なままのもののなかでわれわれの喉元を締め上げる。血がごぼごぼいう音が現実の琴線を隠蔽する昨日の出来事のように聞こえる。怒りの日々。軽い狂気の発作。心に呟くものがある。臨終のみぎりはミサではなくオペラに似ているとジュネは言いたかったのだろう。なぜなのか。画布は灰色に塗られ、すでにとっくに落ち着きを失っていた。何かが動揺していた。染みだらけの絶対的実在。ひとつの実在性。それを前にして、ジュネは死に絶えた古い土地の遺跡の上で凝固する。石膏のように。


 ジャコメッティがジュネに言ったことには一理ある。立像を造って、それを地中に埋めてやるというのだ。彫像の記憶を、そしてわれわれの記憶を消してしまうには手っ取り早いやり方かもしれなかった。埋葬の際には、誰が彫像に土をかけるのだろう。パスカルが言ったように、それはそのまま「どうか彼にとって土が軽からんことを」ということを直接意味するわけではないが、埋葬の次の日のお天気を私は思い浮かべてしまう。二千年か三千年のあいだ。雲ひとつない晴れ渡った青空。言い知れぬ恐怖を味わった人たちがいる。瞼は閉じられることを拒否している。死者たちに差し出された彫像は、しかし空の下のあらゆる儀式をまぬがれてはいても、それでいて私たちをとても古い儀式のひとつの端緒につかせるのだ。恐ろしく溌剌としたものがある。金輪際もう誰も何も覚えてはいない。生命が極端に蓄積されると、後には生きるべき時間は一秒たりとも残らない。死者たちに差し出すために、死者たちが必要である。それを書き、描くのだ。過ぎ去った時代が、存在が限りなく欠如するようにあったのだろうか。少なくとも彼が象るものには。


 中庭の引き戸を開けて階段を上がる。神殿がそこにある。いや、神殿であってそうではない。ネクロポリスの黒い西瓜。それは人の頭だった。アトリエの扉を開ける。新しい、見たこともない自由。髑髏の眼窩のなかの執拗な眼差し。それは死んでいるのに、最も生きているものだった。この埃だらけのアトリエの隅に小さな立像たちが打ち捨てられてあるのはわかっている。その目はじっと見ている。こちらを見てはいないはずなのに、間が悪いことにこちらを見ているのだ。眼差しは部屋中に充満する。彫刻というものにはそもそも何かしら禁忌を思わせるものがある。なすべき仕草など何ひとつないではないか。身じろぎしないもの、動く気配を見せる前からずっと不動であったもの。ここにはどちらかといえばみすぼらしい二人の男しかいない。アルベルト・ジャコメッティとジャン・ジュネ。投げ出されたように乱雑に部屋に置かれたこれらの彫像は彼ら以外のすべてのものを取り除く。彼は素描を始める。空白に何かが付与される。何かが付与されなければならないのではない。ひとりでに、いや、ひとりでにではなく、何かが付与されるのかもしれない。そんなことは滅多に起こらず、とても稀なことだが、そうなのだ。素描が優雅なのではなかった。とんでもないことだ。充実しているのは描線ではなくむしろ白のほうだ、とジュネは言っていた。素描は何かを存続させることではけっしてない。それなら、たしかにその通りではあるけれど、モデルだった彼は無のなかの無であったことになる。それを言祝ぐために、絵が描かれることもあるのだ。


 ジュネはスツールに腰掛け、ジャコメッティのほうを向いている。彼らは友人である。少しでも動くと大声で文句を言われる。煙草を吸って一からやり直しだ。死を狩り出すように、からだはどこまでも弛緩している。硬直していなければならないのに。大変な作業だ。からだに命じたからだが抜け出して、明日の通りを歩き回っている。彼がプロのモデルのようにできるはずもない。ジュネはポケットのなかを探る。ネンブタールの錠剤が二、三錠残っていることはわかっている。その点では間違うことはほとんどない。ジュネは自分の半身を探すようにポケットに手を突っ込み、ジャコメッティがトイレに立ったとき、微笑みをうかべてズボンをちょっとだけたくし上げ、それをすかさず飲み込む。窓からモーブ色の空が見える。半ばオリエントの地とはやがてそこへ行くことになるヨルダンのことだったのか。


 残りの世界のすべてと離れて彼がいる。脱色したようなジャコメッティの目。彼が万人と同じに、等しくなる一点を逆にモデルであるジュネが見つめている。それがあるいは醜さかもしれないとしても、ジュネは何かの番人ではない。自分だけが見分け、見破った光と影の分岐線があるのだ。このままスツールに座って、夕日の最後の光の名残りのように、できるだけ遠くにまで退却しなければならないのだと考える。笑い転げていたのは誰だったのか。言うまでもなく死は何度となく確実だったのだ。この埃だらけのアトリエで、引き潮の浜辺が見えるようだった。



 空っぽの空間をつねに見ていたいと思う。それに憧れる。ほんとうなのか。だが庭園は荒れ果てて、見るかげもない。木立の下ではいつも裏返しのトランプを、あの駆け引きの続きをやっている人たちがいた。監獄はへこんでいる、とジュネは言っていた。これを最後に見たと言ってもいい、いや、その都度、そう言い切ることのできる世界の最後のイマージュというものがあって、モデルのジュネはジャコメッティの瞳のなかにそれを覗き込んでいたのだ。砂漠に散らばる銀河の下で、ジュネは小熊座のなかのいつもの場所にある北極星を見ていた。

 あるインタビューで尊敬する人は誰かとジュネは訊ねられる。彼はためらうことなく即座に答える。
 「アルベルト・ジャコメッティ」。

 

*以上の文章はジャン・ジュネの著作『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室)、『恋する虜』(人文書院)、『シャティーラの四時間』(インスクリプト)の幾つかのページを元にしている。鵜飼哲氏をはじめとして訳者の方々に感謝を申し上げたい。

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