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第57回 一休さん、狂った雲を見る

                                                          第57回 2014年12月


                       

一休さん、狂った雲を見る
                                        
                                        
                                                                      

  鈴木創士




一休宗純『狂雲集
石井恭二『正法眼蔵 覚え書』『花には香り 本には毒を』『心のアラベスク




 初秋、一休さんのお寺に行った。京田辺のなだらかな山あいにある酬恩庵一休寺である。もう夏が終わりかけていた。前日は台風、その日は台風一過の青空で、夕方になると肌寒いくらいの風が吹いていた。鎌倉時代が終わる頃、ここは戦火にかかり廃寺同然になっていたが、15世紀の半ば、一休禅師がかつての遺風を慕い、再興した。一休はここで示寂し、遺骨はそのままこの寺に葬られた。





 山門を入ってほどなくすると一休さんの墓所がある。学者のなかには一休宗純が後小松天皇の落とし胤であることに疑義を挟む人がいるようであるが、一休さん自身も父である帝のことを詩に詠んでいるし、この墓所がいまでも宮内庁の管轄になっていることからしても、一休皇胤(こういん)説が正しいことは明らかである。こんな取って付けたような懐疑を抱く御仁は、よほど心理的抑圧の強いヘボ学者かコンプレックスの塊りみたいなガリ勉パラノイアか何かなのだろうが、彼らが何を言おうが、べつにどうでもいいことである。一休さんはそんな学者の浅知恵などどれも歯牙にもかけなかったはずなのだから。このような人たちが一生懸命、学問とやらに奉じているのは、じつに微笑ましい平和な光景である。

 「一休は皇族の出自である。母方は南朝の藤原氏の血筋であるが、北朝の後小松天皇に仕え、側室として寵愛されて身ごもったことから周囲に妬まれ、彼女は南朝の刺客であり、天皇を殺そうと謀っていると讒言(ざんげん)する者がいて、宮廷から追放され、身分を庶民に落とされた。そして、一休は生まれた。人々は、知らなかったが、一休には、自ずと貴人の相が具わっていた」(石井恭二『一休和尚大全』)。

 だから墓所の枝を折ってはならぬ。鳥がくわえてきた枝であっても一本も盗んではならぬ。花一輪、粗末にしてはならぬ。たとえ石ころひとつでさえも、寂滅した一休和尚からかりに何かを取り上げたならば、乞食坊主のような一休には何も残らないのである。何も残らないのはわれわれの定めである。

 薪能をここに呑気に見にやって来たわれわれにも、心せよ、とこの小さな寺は伝えているようだった。心せよ、ここにはなにもないぞ。親切な寺の関係者が、煙草を吸える、観光客には立入り禁止の裏手の場所をこっそり教えてくれたので、そこへ煙草を吸いに行った。一休伝来の一休寺納豆という乙な酒のつまみ(?!)があるが、この裏手でちょうどそれが天日干しされ、まさに生産されている光景を垣間見ることができた。この一休寺納豆はどこででも売られているものではないので、貴重なスナップショットに出くわすことができたのである。半分に断ち切られたような樽がいくつか並んでいた。樽の上には屋根があった。屋根の上には暮れなずむ空があった。乙な光景であった。味噌のような、醤油漬けの新月のような芳醇な香りがあたりに漂っていた。匂いは禅風なのか、それとも一休の遺産なのか、わかるはずもない。香りもまた受け継ぐことのできるものだ。煙草を吸い終わると、くわばら、早々にそこを立ち去った。

 六歳のとき出家した一休さんは確かに賢い子供だったのだろう。漢詩をつくるのが上手かった。間違いなくその幼少時の詩才は、傑出していたあまり常軌を逸してしまった感がある後(のち)の生涯を準備した。アルチュール・ランボーと大差はない。これが美しい生涯と言えるものだったことに変わりはない。水飴だったか蜂蜜だったか、和尚さんの大事にしていた壷を小坊主一休が中味をきれいさっぱり空っぽにしたのは、その水飴だか蜂蜜だかが毒であり、毒だと言われたものだったからである。貴人が食する前には毒味をしなければならない。貴人とは誰か。後から毒を食らう者である。だが皿を食ったのは孤独な子供だった一休だったのである。

 しかしながら、一休さんイコールまるこめ味噌風の可愛い小坊主という図式は、日本の文化が長きにわたって一休の真の姿を隠蔽し続けてきた結果であったのではないかと思われる。入水自殺未遂を経験し、一身をもって名利を否定し、酒を浴びるほど飲み、女色を愛し、男色を好み、同じ臨済宗、あるいは曹洞宗の指導者たち、禅宗の俗物僧侶、偽善者どもに対する激しい批判を繰り返す。偽善者には今も昔も事欠かない。嵯峨野あたりだろうか、死体の山のそばで平気で飯を食らい、薬草に詳しく、民衆に愛され、ヒッピーのようでもあり、またそうでもなく、しかし傑僧はなんと八十一歳のとき大徳寺の住持を請われ、応仁の乱によって伽藍を焼失した荒れ寺を再興する。おまけに大徳寺に住むのが嫌だったからなのか、この酬恩庵一休寺から大徳寺まで、山越え、谷越え、遠い道のりを通ったというのである。半端ではない大変な道中も、一休さんにかかると近所にぶらりと出かける散歩みたいなものだったのだろうか。





 名利を捨てるなどと言うが、誰にもできはしないではないか。そしてついでに言っておけば、ゲスの勘繰りみたいに、名を捨てることはできる、利は捨てることはできる、したがって名に遊び、利に遊ぶことはできないが、色には遊ぶことができる、云々、などと呑気にどんな屁理屈を言おうとも、どうにもならないことはわかりきっている。

 一休は日本文化のひとつの正解である。問いはどこにでも転がっていて、広大な空白を形づくっている。空白も色々であるし、問いも様々である。空白は砂漠であり、そこには井戸が掘られていることもある。それにしても、凡百の解答などではなく正解であるというのは、なんとも清々しいことではないか。

 一休寺のなかに小さな墓地があった。一緒に行ったHは墓場に行くのを嫌がったので、ひとりでぼんやりしばらく墓を見回していた。そこには一休禅師の遺徳を慕ってこの寺に詣でたであろう能楽師や茶人の古い墓があるらしい。阿弥元重や元章や清興、寸松庵ら、名士と呼ばれる人たちの墓だそうだが、墓はどれも苔むし朽ちかけていて、誰のものがどれなのか墓泥棒にもわからない。
 そもそも墓には名士も糞もないのである。それが苔むしていれば、なおさら名士も糞もないように思えるのがまたおかしい。珍しいことではないが、この墓地からも何かしら死した者たちの主張めいたものがいまだに感ぜられ、不気味で、夕闇が迫れば鬼火でも出そうな風情であった。古びた墓はまだそれぞれが息をしているようだった。
 それに比べて、一休の墓所にはこの不気味さは微塵もない。ほんとうになかったのだ。一休の墓所は宮内庁によって立入り禁止になっているので、近くからは見ることができないが、離れてはいても、ここには余計なものが存在しないということくらいはわかった。だから枝一本取ってはならないのである。ならぬことなら信ぜよう。存在は本質に先行する。人は死してなお激しい違いを見せつける。あっぱれである。
 一休は死んだ。いつの日か私も死ぬ。君もまたいつかは逝ってしまう。たぶん一休の亡骸はただの土くれ、ただの塵に還ったのであろう。だから良しとしなければならぬ。俺はしばしそのことを強く思った。

    定中、借問す、死耶(や)生や、
    娑婆に来往し、何似生(かじせい)
    我に截流(せつる)の手段没(しゅとんな)し、
    精魂、此の地に三生を弄す。
    
                 (石井恭二氏による現代語訳を付しておく。以下同様)
    禅定のなかの国師に伺います、
     死んだのでしょうか生きているのでしょうか
    釈迦のように娑婆世界を何度も往来なさっているのでしょうね、
     いかがですか。
    私には煩悩を断ち切る工夫はございません。
    この娑婆で、前世、現世、後世を生きているのです。
    
 あるいはまた、

    大死底(だいしち)の人、心は塊土、
    元来、是れ灯籠(とうろう)露柱(ろしゅ)
    変易(へんにやく)、分段は、只任他(さもあらばあれ)
    新月、黄昏、五更の雨。
    
    大往生した人でも、心は土塊にすぎず、
    もともと、灯籠や露柱と同じだ。
    変易生死とか分段生死とか、聖者の生死と凡夫の生死を
     別にするけれど、そんなことはほうっておこう、
    夕方に三日月が見えたと思えば、夜明け前には雨が降り出した。

 一休の引用はすべて『狂雲集』からである。

 一休、七十七歳の頃、恐らく当時、三十歳くらいであったと思われる遊芸人、森女(モリガールではない)と出会う。盲目の美女の舞いは美しく、歌は艶やかであった。森女は一休を慕い、一休を頼って身を寄せる。一休宗純の恋である。

      婬水
    夢に迷ふ、上苑美人の森(しん)
    枕上の梅花、花の信(たより)の心。
    口に満つる清き香、清浅の水、
    黄昏の月色、新吟を奈(いかん)せん。
    
      美人の陰(いん)、水仙花の香(かをり)有り
    楚台、応(まさ)に望むべし、
     更に応に攀づべし
    夜半、玉床、愁夢の間。
    
      婬水
    夢の中でも、高貴な美人のお森に迷う、
    枕元の梅の花は、花の便りの心を送ってくれる。
    口に浅く清らかな香りの婬水を含み、
    黄昏の月に照らされ、新しい詩をどう詠ったものか。
    
      美人の陰は、水仙花の香りがする
    楚々とした腰に口づけしよう、
     もっと抱きしめて愛おしもう、
    夜半の褥に、夢のような愁いの顔がある。

 森女もまた一休を敬愛した。その証拠に、一休没後の十三回忌、三十三回忌の法要に、身分の違ったであろう彼女自ら大徳寺に参詣し、銭五百文と百文の布施をなしたことが「真珠庵文書」に記されているからである。一休が死んで三十三年後のことである。このことはどうでもいいことではないではないか。一休は森女を愛した。かつて出会った頃の一休の歳に近づいた盲目の森女もまた一休を変わらず崇敬し、慕った。森女はずっと一休を映す鏡であった。私はこの禅宗の歴史の一コマにいたく感動する。
                                   


 夜遅く京都に戻った。帰る道すがら、Hと喧嘩になった。「闕滅の娑婆、事々乖(そむ)く」。出来損ないのこの世では、なにもかもがうまくゆかない。一休さんもそう言っている。

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