d41004a 20041004 911 「コピーさせないこと」に課金するのが合理的な理由: 「コピーに課金」でなく no

情報や作品の流通に対して課金するのではなく「流通させないこと」に対して課金するとどうなるか。

ファイルをダウンロードすること自体には課金されないが、もしそのファイルを再公開しないと課金される。 再公開するなら課金されない。実装においては、ファイルのダウンロードのときに一時金を払うが、 再共有認証を受けると全額返還される。再共有登録の更新を怠ると、その時点で再び課金される。

以下では、このモデルが決して「コピー天国」や無秩序を発生させないこと、 従来のシステムの自然な延長であること、 さまざま見地から合理的であることを説明する。 このメモは概念のラフスケッチであり、実装上の諸問題は考慮されない。

追記: このモデルの実装例はパブリックトレントである。 パブリックトレントでは、もし自分の上り帯域を提供し、他の利用者に協力しながらダウンロードするなら無料だが、 他の利用者に協力せず、専用の下り帯域を使って早くダウンロードだけしたければ、有料になる。 自分経由でのコピーを許可すれば無料、しなければ有料、というトポロジーを観察せよ。

現在の中古ショップとの比較

このシステムは、単なる非現実な思考実験ではない。例えば、巨大な古本マンガ店を「共有」だと考えてみよう。 マンガをそこから100円で買うとする。読み終わったマンガを再びその店に50円で売れるとしよう。 するとマンガを再共有させる(つまり再び売る)行為は安上がりだが、 再共有をしないで自分のところで止める行為には、より多く課金される。 つまり「流通をストップさせること」に課金する制度は、既に現実に存在している。

レンタルしたビデオを返却しないと違約金を課せられるのとも似ているし、 飲み物のびんを返却すると10円戻ってくるのにも似ている。

飲み物の場合は、びんだけ返しても、なかみは復活せず、なかみが商品なので、びんの流通をストップさせても、再共有させても、 あまり差は発生しない。

音楽CDのような場合は、入れ物ごと返すことでなかみはそのままなので、再流通には大きな価値があり、 したがって、再流通させた場合のインセンティブが大きい。

しかし、中古ショップの運営のコストがあるので、再流通させても、初めに払った額は100%は戻らず、 したがって、再流通させても多少は課金される(再流通させない場合より課金は少なくて済むが)。

インターネットの場合、中古ショップにあたる部分の運営コストは消費者自身の自前なので、再流通させた場合は完全に無課金にして、 巨視的には、つじつまが合う。ただし、ユーザは、 電気代やハード代などで「中古ショップの運営コスト」に相当する部分を(無店舗に合理化した形で)広く薄く課金されている。 自分がダウンロードしたものを長期に渡って共有し続けるには相当なコストがかかる。 しかし共有を停止すれば、その時点で課金される。どちらを選ぶにしても、何でもかんでもはダウンロードできなくなり、 良いものを選ぶようになる。最終的には現行のシステムと似てくる。 一次公開者は、公開直後の収入が減るかわり、何十年にもわたって、公開した作品に対してコストの回収ができる。 人気がなくなって、だんだん共有から消えれば消えるほど、それが収入になる。 このシステムは、もし理論的に完全に機能するなら、大部分の作品に対しては良い働きをする。 その代わり、何年たっても大人気の、超メガヒット大作は、この制度では存在できなくなる。

店舗のコストと手続きのコスト

例外もあるが、一般論としては、音楽CDやマンガなどを物理的に所有したいという気持ちは少ない —— 特に人口密度が高く部屋が狭い地域では、そういう人が多いだろう。そういう人のすべてが、実際に媒体を中古ショップに再び売るわけではない。 なぜか。売れば空間リソースが節約できるうえ、金銭的にもメリットがあるのに売らないとしたら、 ひとつには売る手続きそのものが面倒だからだろう。

「流通をストップさせることに対して課金する」ということは、裏を返せば、課金されたくなければ、 何らかの手続きを踏んで「共有継続登録」を更新し続けなければならないことを意味する。 それが面倒と思えば金を払うことになる。 金を払いたくなければ正式に手続をとって、現在の流通コストにあたるものを自分の電気代やマシンリソースによって負担する。

つまり「流通させないことに対する課金」の本質は「物理的店舗」と「販売者登録」の仮想化によるコストダウンにすぎない。

利用者自身が流通経路を提供し、流通コストを利用者に広く薄く再分配するという点で、 超流通の一種とも考えられる。

今でも、小売店というものは、仕入れ値よりわずかに高い値段で販売することで、運営コストをまかなっている。 小売店が特定商品の販売をやめれば「デッドストック」になって、損失が発生する。 卸元に対して返品ができるなら(それは再流通なので)基本的には損失は発生しない。 「流通を止めることでコストが発生する」システムは少しも奇異でなく、現実のモデルだ。 販売するものが「純粋にデータ」である場合、小売店は販売者でありながら「勝手に」そのデータを利用できる役得がある代わり、 再流通を成功させなければ自分がコストを負担することになるリスクを負う。

長所と短所

このシステムがネット上で実現された場合、現在と比べて超大作が存在しにくくなるかわり、 マイナー作品が存在しやすくなり、絶版・品切れなどが起こりにくくなる(品切れの原因になる行為に対して課金されるので)。 一般には、消費者からみても、アーティストからみてもメリットが大きい。 ただし、現在の物理的中間流通業者と、超巨大エンターテインメント産業には不利な展開となる。 また抽象レベルでは店舗と同じだから「自分は大量に共有続けらるぜ」と思って無選別に何でもかんでもダウンロードしまくると、 何らかの理由で共有ができなくなった瞬間に巨額の負債が発生することにも注意しなければならない。 決してダウンローダに一方的に有利なシステムではない。作品に対する愛や選別眼も要求される。 広めたいと思えないようなつまらないものをダウンロードするとカネをとられ、 自分がおもしろいと思いファンになった作品は無料になるからだ(つまらないものを取得する行為には結果的にペナルティが課せられる。ネット上ではマッシブな宣伝工作ができない以上、売った方ではなく買った方が悪いのだ。“購入”といっても本質は店舗としての“仕入れ”なのだから、だまされれば負けだ)

繊細な情報網そのものであるネット上のことなので、 大量宣伝でつまらないものを良いと思わせることもできない。 このシステムはいろいろな意味で巨大作品には適合しないので、 巨大作品は従来の物理的媒体による販売が行われるかもしれない。 その流通があれば、既存の物理的中間流通業者も依然、必要とされるが、規模は縮小されるだろう。 他方、この新システムで流通されるすべての作品はデジタルデータとして仮想化されており、 (本の紙、CDの円盤のような)物理的に所有できる部分はない。ジャケット写真、表紙、扉絵、解説ノートなども、すべて仮想化される。 物理的媒体と縁を切るからこそ流通コストが限りなく低くなり、このシステムのような「超流通」系が可能になる。 アーティストは、当面の経済的要求を満たすため、あるいは物理層に執着する一部ファンの要望に応えるため、 別に物理的メディアの販売を行っても良い。その場合にも、 既存の物理的中間流通業者のビジネスチャンスとなる。

 —— 基本的には、ファンは「自分が愛するのは作品であって、作品の物理的容器ではない」ことを理解すべきだ。単なる蒐集家ではなく、芸術作品に対する愛好家である限りにおいて。 まんがを印刷した「紙」はまんがのストーリーの本質ではないし、 アニメを収録した「円盤」はアニメではない。 そのような共通認識がなければ、新システムは根本的に機能しない。 つまり、このシステムは移行期において多少の「意識の変化」を必要とするという欠点を持っているが、 「新しい考え方に自然になじむ人が増えている」という追い風もある。アナログレコードからCDになったとき、 音楽CDのリッピングが普及したとき、そして音楽がDL販売に移行しつつあるとき、わたしたちは、一歩一歩、物理的メディアを仮想化してきた。

言い換えると、手すきの和紙や木工細工のような、物理的基盤そのものに依存した作品も、新しいシステムでは流通できない。 良くも悪くも、物理層と縁を切れるものに限定された世界になる —— 作品もそれとシステム的に共存する人間も。 この限定も、一部の作品にとっては致命的な(システムがまったく利用できない)欠点であり、 一部の人間(物理的コレクター)にとってもそうだ。

しかし、このシステムが人間にとって何より良いのは、そうしたジャンルの制限とは関係ない精神的な面にある。

「良いものを広めることは良いことである」という自然な力動の実現になっていることだ。

現在のシステムは「勝手に広めるのは悪いことだ」「広めたいならカネを払え」というものだが、 新しいシステムは「勝手に作品を消すのは悪いことだ」「消すならカネを払え」となる。 作品中心の立場からは、ずっと自然だろう。

実際問題、現在のシステムでは大量に「無断コピー」されても、そこに課金することが技術的に不可能である。 すべての通信をモニタするのでない限り課金できないが、 すべての通信をモニタすることは望ましくない(倫理的にはもちろんコスト的にも)。 ステガノグラフィや将来の量子暗号通信を使えば、理論的に不可能かもしれない。 「流通しないことに対して課金」するシステムに移行すれば、消費者はダウンロード時に払った一時金を返してほしければ、 自分から否認不可能な登録をしなければならず、わざわざ疑心暗鬼で監視しなくても、消費者の側から積極的に報告が発生する。 無駄な「監視コスト」(広義での)が省ける。 再共有すれば全額返還されることが分かっているので、購入の動機づけになる。 「このシリーズは好きだから、手続はちょっと面倒でも、ダウンロードして広めるぜ」という自然な力動は、 「ほしければ登録してカネを払え、ただしダウンロードしてもDRM保護されてそこで行き止まりだぞ」「感動しても友達には見せるなよ」という陰湿で不自然なシステムよりずっと良い。

普遍的な善し悪しはともかく、現実問題として、 音楽やマンガは「これいいから聞いてみて」「貸してあげるから読んでみて」といった個人を“酵素”ないし触媒とする連鎖反応で広まることが多かったという事実、 現在のアーティストたちもそうした連鎖のなかで刺激を受けながら育ってきたという事実は無視できない。 こうした「私的な連鎖反応」を禁止すると、長期的にあらゆる創造の低迷をもたらすおそれもある。 そうした過剰な禁止が少なくとも「不自然」であることは、直感的にも明らかなはずだ(特にそうした分野に現に関連している者には)。 プログラムのコードも、マンガも、アニメも、ピアノの演奏も、絵画も、こうしなさいという大手出版社の教科書などではなく、 先輩からの伝授、「資料」と称するまね、先生のお手本の模倣、模写といった現場的な「コピー」に(すべてではないにせよ)相当の基盤を置きながら、 そこからやがて真の独創性が芽生えるのでないか。「私的複製」だから良くて「職場の複製」だから悪い、といったあいまいな線を引くより、 もっと透明に「コピー」は良くて「非コピー」は悪いと線を引いてはどうか。

「コピー(ここでは送信可能化を言う)に課金する」方法では「無断コピー」は防げない。しかし「非コピー(送信不可能化)に課金する」方法では「無断非コピー」は防げる。 「非コピー」を行えば最初に払った一時金が返却されない、返却してほしければ「共有をやめたときに引き落としを行うクレジットカード等」の登録が必要、 というシステムにより、 「非コピー」は無断では行えず、行うときは必ず課金される。どちらにしてもアーティストの収入はトータルではたいして変わらないか、 あるいは中間の無駄が省けるぶん増えるであろう。

作品の自律的な成長

アーティストは、いつでも、発表済みの作品の改訂を行える。 オンラインで確保され登録されている流通経路により、作品のバージョンアップが準リアルタイムでネット上の全リソースに反映されるような実装すら可能だ。 特に学術的な論文などの場合、エラータを別途配布するのでなく、誤りが見つかった場合には随時アップデートできることは、実用上メリットが考えられる。 しかしながら、このことは引用の場合の「同一性保持権」のようなものを自己解体させるなど、 さらなる新しい人間精神の変革を要求するかもしれない。それは「作品は生きていて、いつ成長するか分からない」 「あなたが買った瞬間のまま静止しているものではなく、あなたの意思と独立して、自律的に変化する生き物だ」という認識だ。 あなたは作品を所有できない。作品はもはやあなたの奴隷ではない。あなたの日記ページからリンクしたウェブページのようなもので、 何らかの意味であなたの日記の「一部」にかかわっているという意味で「あなたのもの」なのだが、あなただけのものではなく、 あなたの意思と無関係にいつの間にか変化している可能性が常にある。

このことはさらなる議論と関連する —— 「作者といえども、みだりに作品を改訂できない」「一度公開した作品は、作者の気分が変わったからといって勝手に消せない」といった主張の是非だ。作品が消費者の奴隷でなくなり、作者の従属物でさえもなくなる。 作者は建設的な改訂を行うことができるべきであろうが、 作者であるというだけで、いつでも無制限に作品を改訂したり削除できるようにすると新システムは正常に機能しなくなることにも、注意しなければならない。 さらに敷衍すると、作者以外の者も同様の資格を持つべきでないか、というあの議論に発展する。 一次作者がAというすばらしいアイデアの作品を公開したとしよう。 ところが一次作者にはこのAをさらにすばらしいBに発展させるちからがない。 もしAが一次作者に従属すると、Bを作れる人がいるのに、Bが生まれない。 また、一次作者には翻訳できなくても、 Aに感激し、ボランティアで翻訳して広めたいファンがいるかもしれない。 こうしたことが、新しい支配関係と支配の制限について、さまざまな新局面を生むであろうことは容易に予想できる。 ただ、こうした問題は、このメモでラフスケッチしている概念の枠組みより、もう少し下位のレベルであって、 必ずしもここでの議論全体とは関係しない。

作品の自動アップデートを無効にして、ある瞬間のスナップショットだけを所有(私物化)したいなら、その代償として、カネを払わなければならない (ただし動的共有は続けながら、共有物の私的複製を非共有で保存することは可能だ)。 あなたは作品の自律的拡散・自律的発展を支持するのをやめたことによって一種のペナルティを課せられるが、 その代わり、その作品を完全に「従来方式で所有」できるようになる。 結局、「流通させないことに対する課金」は従来の意味での販売そのものである。一部のパラメータは変わるが、本質的なトポロジーは変わっていない。

流通のトポロジー

これは例えば、本屋の店員が新刊書を「勝手に」読むことは現在でも実際に可能だ、 汚れや摩滅が少しも発生しなければ基本的に無害である、 というトポロジーを思い切り「引き伸ばした」像だ。 新システムで書店にあたるのは共有されているあなたの記録メディアであり、 書店での本の平均滞留時間にあたるパラメータが、10倍から100倍のオーダーで伸びるだろうが、トポロジーは変わっていない。 そこから「本が消えた」瞬間に金銭の支払いが発生する。

現在でも、流通が止まった場所のエンドユーザが、最終的にコストを負担するのだから、 「非コピー課金」は逆説的に見えて、実は当たり前の現実の自然な拡張・抽象化に過ぎない。 帯域の限界に達すると、新しいものをダウンロードするには古いものを消して支払いをする必要があるという意味で、 時間差の大きいクレジット決済とも言える。 当然、巨視的にはつじつまが合う(物価の上昇・下降は別問題だが、それは単に公定の物価変動係数をシステムに含めれば解決する)。 例えば50年間(今でいう著作権保護期間)共有しきったときは権利を取得する、としてもいい。 長期間共有し続けたコストを計算すれば、最初のダウンロード販売の定価とほぼ等しく、 つまり現在発売元が負担している商品の流通コストを実際に肩代わりしたことになるだろう。

別の角度から言うと、損もないがまったく儲からない店を運営しているようなものだ。 運営コストは非常に小さい。 儲けはゼロな代わり、自分の好む作品を自由に試聴し、利用できる。

結論

このシステムは人間にとってメリットがあるばかりか、情報自身の生存権の確保という意味でも、重要な転機となる。 情報を殺す方向の行動をとる人間は、ペナルティを課せられるからだ。と同時に、帯域が有限である以上、定められた品質で共有を続けられる量には限度があり、 情報が一方的に増殖することもない。 人間と情報の新しい共存の形を示している。

リンク