DiGRA JAPANは日本における(デジタル)ゲーム研究の発展と普及啓蒙を目的に設立された団体です。スウェーデンに本部を置く国際学会、DiGRAの日本支部という位置づけも併せ持っています。2006年に設立され、2011年に日本学術会議協力学術研究団体の指定を受け、公的学会として認可されました。2007年には東京大学で開催されたDigra2007大会のホスト役を引き受け、2010年からは毎年、国内で年次大会も開催しています。
とまあ、こんな風にどうしても学会の紹介となると、漢字ばっかりの内容になっちゃうんですよね。ただしDiGRA JAPANは研究対象がゲームなので、いわゆる「象牙の塔」ではありません。ゲームについて、おもしろい・つまらないだけじゃ、ものたりない、ちょっと俯瞰したり、ぐぐーっと近づいて見たりして、いろいろ気がついたことを自由に発表したい。そんな思いを共有する人たちが集まった、懐の深い学会なんです。
またDiGRA JAPANの目的の一つに、過去のゲーム史のドキュメント化があります。ほら、ゲームの開発秘話って、わりとオレ様クリエイターが自分主観で、しばしば現実をねじ曲げて語りがちじゃないですか。そうじゃなくて、ちゃんと学術研究で引用できるように、当事者から直接ヒアリングして、整理していこう。そんな業界アーカイブ的な役割も併せ持っているんですよ。
というわけで今年度の年次大会でも、基調講演で「デジタルゲームのこれまで、そしてこれから」と題して、福岡ゲーム産業の歴史があきらかにされました(社名は原則として当時の名称を用いています)。
登壇者は「レイトン教授」でおなじみのレベルファイブ・日野晃博氏。「NARUTO−ナルト−疾風伝 ナルティメットストーム」などの開発を手がけるサイバーコネクトツー・松山洋氏。「ONE PIECE」のゲーム開発を手がけ、ゲーム業界でも数少ない女性社長として活躍中の、ガンバリオン・山倉千賀子氏。「ゼビウス」「ドルアーガの塔」の生みの親で著名な遠藤雅伸氏(モバイル&ゲームスタジオ、宮城大学客員教授)の司会で、さまざまな秘話が飛び出しました。
ちなみに登壇者の三名はみな、1970年前後生まれの「ファミコン世代」です。日野氏に至ってはパソコン少年として、ゲームプログラミングに没頭していたほど。これに対して遠藤氏は1959年生まれで、「ゼビウス」をリリースしたのは1983年。すなわち年齢が一回りくらい違うんですよ。今年は奇しくもファミコン誕生30周年。そんなゲームクリエイターの世代論も感じさせる内容となりました。
さてさて、そんな基調講演の内容を、補足も加えつつ整理してみましょう。1978年に「スペースインベーダー」が日本列島を侵略し、翌年にはNECから8ビットコンピュータのPC-8001が登場。おりからのマイコンブームで全国にパソコン少年が生まれ、ソフトハウスが乱立。全国でゲームソフトの販売が始まりました(当時はカセットテープに保存されていました)。その中からヒット作が生まれ、産業化が急速に進んでいきます。
福岡でも1979年にシステムソフト、1982年にリバーヒルソフトが登場。長崎では1980年に佐世保マイコンセンターが登場し、1982年にテクノソフトとなりました。ちょっと遅れて、熊本でもアルファシステムが1988年に創業しています。「大戦略」のイメージが強いシステムソフトも、実は1983年にアクションパスルゲームの名作「ロードランナー」を、パソコンゲーム向けに移植発売しているんですよね。
一方で注目すべきは「アーケードゲームの開発会社がないこと」「家庭用ゲーム機への参入が遅れたこと」の二点です。まあ、アーケードゲーム開発を行うには、ベンチャー企業では荷が重い。一方で家庭用への参入については、同じくソフトハウスからスタートし、北海道に本社のあったハドソンとの比較が興味深いところです。
シャープのパソコン(MZシリーズ)向けにプログラミング(BASIC)言語を開発していたハドソンは、ファミリーベーシックの開発が縁となり、1984年にサードパーティ第一号としてファミコンに参入しました(そのうちの一作が「ロードランナー」)。パソコンゲームとは段違いの利益率に驚いた同社は、家庭用ゲーム機向けのソフト開発に舵を切り替えます。エニックス・スクウェアといった、パソコンゲーム開発から始まったソフトハウスも、次々参入していきました。
これに対してシステムソフトをはじめとした九州のソフトハウスは、パソコン向けに、より高品質なゲーム開発を続けていきます。同社の代名詞ともいえる「大戦略」がリリースされたのは1985年。以後もパソコンゲームを主戦場にシリーズを続けていきます。レベルファイブ・日野社長は「当時は日本ファルコム、システムソフトがパソコンゲームを作り続けていて、ファミコンでは表現できない作品を排出していた」と語りました。
背景にあったのは、システムソフトはSLGの「大戦略」シリーズ、日本ファルコムはRPG「イース」「ザナドゥ」といった看板タイトルがあり、自社のユーザーを大切にしていたこと。またどちらも大容量のゲームで、ファミコンに移植しづらかったこと。このあたりが原因でしょうか。もっとも、もしシステムソフトが早期に、それこそ「ロードランナー」でファミコンに参入していたら、ゲームの歴史が大きく変わったかもしれません。
さて、これらパソコンゲームを主戦場としていた企業群が第一世代なら、第二世代にあたるのがレベルファイブ、サイバーコネクトツー、ガンバリオンの三社。
一方で三社がゲームを本格的にリリースしはじめた2000年代は、国内で「ゲーム離れ」が進み、市場が縮小していた時期でした。この逆風を受けて、全国でゲーム開発会社の徹底が続きましたが、ここで三社は合同でゲームイベント「FUKUSHIMA GAME FACTORY」を2003年に実施し、大成功を収めます。
さらに2004年には九州のゲーム会社を巻き込んで、任意団体のGFFを設立。続く2005年には福岡市と九州大学をも巻き込んで、日本発のゲームにおける産官学連携組織・福岡ゲーム産業振興機構を設立するに至りました。今や福岡はゲーム産業を積極的に支援する自治体として、大きな注目を集めています。
こんな風に三社が動いたのも、もともとゲーム作りの最重要ポイントといえる「人材」確保に課題を抱えていたため。福岡には九州大学をはじめ、優秀な学生が多数存在しますが、当時は彼らの多くが東京・大阪のゲーム会社で就職していました。なんといっても、福岡にゲーム会社があること自体、当時はほとんど知られていなかったんですよ。
そこで地元でイベントを打ち上げ、三社の存在をアピールしよう。
こうした福岡ゲーム産業の動きに、東京の企業も注目。2011年には「グランツーリスモ」シリーズで知られるポリフォニー・デジタルが福岡に進出し、「福岡アトリエ」を立ち上げました。ソーシャルゲーム開発大手のgumiも、2011年に福岡オフィスを設置。2012年には開発力強化のため、子会社のgumi Westを拡大させています。こんな風に、着々と企業集積も進んでいるんですよ。
それにしても、なぜ福岡だけこんなに元気なのか。サイバーコネクトツーの松山洋社長は「我々三人がいたから」と胸を張ります。ちゃんと最初にビジョンを立てて、戦略を練り、周囲を巻き込んで、少しずつ大きくしていった結果なんだとか。いやー、あらためてビックリです。ガンバリオンの山倉氏も「ゲーム会社の側で任意団体を作って、きちんとまとまっていたことで、行政の側も声がけしやすかったと、後になって伺いました」と語りました。
一方で将来像について、日野社長は「九州大学をはじめ、産学連携を進めることで、新しいジャンルのゲームにチャレンジしていきたい」と抱負が語られました。マンガ、アニメとのクロスメディアが得意な同社ですが、今後は産学連携で新次元のクロスメディアにも挑戦していく、というわけです。ゲームは技術進化を取り込みながら進化する娯楽ですから、大学との結び付きでどんなゲームが遊べるようになるか、ちょっと楽しみです。
というわけでまとめると、1970年代末のマイコンブームで種が蒔かれ、1980年代のパソコンゲームで成長した福岡ゲーム産業は1990年代後半、PSの市場拡大と共にコンソールへとステージを移行させました。そして折からのゲーム離れという逆風も産学官連携で乗り越え、今また新しいプレイヤーを迎えて成長中・・・とまとめられそうです。今後も、どんどんおもしろいゲームが福岡から登場してくることを、期待してやみません。
(小野憲史)