デュッセルドルフは日本企業の駐在員事務所が集まる「ライン川の小東京」と呼ばれる街である。日本企業の駐在員とその家族を中心に、8000人以上の日本人が暮らしている。惠光寺を含む文化施設「惠光」日本文化センターは、在留邦人の多くが居を構える市内西部、ニーダーカッセル地区に立っている。
ドイツはキリスト教が色濃い国だ。ライシテ(宗教的中立性)の思想により政教分離が徹底されている隣国フランスと異なり、ドイツは教会税など社会システムに宗教が見え隠れする。そのキリスト教色が強いドイツにおいて「惠光」日本文化センターは、どのような存在なのだろうか?
全ての仏教徒に開かれたドイツ惠光寺
惠光寺は本尊に阿弥陀如来をいただく、浄土真宗本願寺派形式の寺である。だが実際、同寺は浄土真宗に限らず「宗派を超えた寺」と位置付けられている。なぜなら同所は、公益財団法人仏教伝道協会により運営されているからだ。
仏教伝道協会とは、1965年に株式会社ミツトヨの創業者、故・沼田惠範氏により設立された団体である。沼田氏は本願寺派寺院の子弟であったが、特定の宗派にとらわれず、仏教聖典の刊行と全世界への普及を事業の柱とする仏教伝道協会を立ち上げた。仏教の英知を一人でも多くの人々に伝えることを目的に、同協会が管轄する惠光寺は、すべての仏教徒に開かれた寺ということになった。
例えば、念仏の教えを中心に置く浄土真宗において、坐禅は行われない。
ドイツ人は仏教を受け入れるのか
実際ドイツにおいて仏教はどう捉えられているのか? 自身も本願寺派の僧侶である同センター所長・青山隆夫さんは「関心が高いのは確か」だという。現在キリスト教に対して飽き足りなさを感じ、教会税を払いたくないためにキリスト教徒をやめる人が増えているのだ(ドイツでは税務申告の際に「キリスト教徒」と申請すると「教会税」という教会の経費を賄うための税金を納めねばならない)。もちろんキリスト教を棄教した人が、すべて仏教に帰依するわけではない。だがドイツ人の仏教に対する興味の増大は、肌で感じているという。
ところが仏教に興味を持ったドイツ人が、浄土真宗の教えに関心を持つことは、まれである。彼らはまず瞑想の実践を中心としたテーラワーダ仏教や坐禅を行う曹洞宗や臨済宗などの禅宗系の宗派に興味を持つ。そして瞑想や坐禅を行っていく過程で、それらに違和感を覚えた人たちが、阿弥陀如来の本願力により極楽往生できるという、浄土真宗の教えに関心を寄せる。
浄土真宗は、何度も念仏の教えを聞き、その教えを自分の中で受け止め、いただく宗派である。その念仏の教えをドイツ語に訳すと当然ながら意味の歪みが生じる。
ドイツで宗教活動を完結できない難しさ
惠光寺は寺だ。だが日本のような檀家は持たない。寺へ参拝するドイツ人はいるが、それ以上の結びつきはないため、信徒からの寄付行為のみでの寺院運営が成り立っていない。そのため惠光寺の運営は仏教伝道協会からの資金に頼る。僧侶という職業が成立しにくいという点では、惠光寺もパリにある曹洞宗と同じ悩みを抱えている。
時に惠光寺は、本願寺派と仏教伝道協会という二者間において、難しい立場に立たされることもある。惠光寺はその成り立ちから浄土真宗本願寺派と関係が深い。ところが運営は仏教伝道協会により、宗派を超えた寺として行われているため、本願寺派としての活動が制限される。以前、本願寺派の連絡所を欧州に置こうという話が出た時も、その機能を恵光寺ではなく、アントワープにあるベルギー人住職の慈光寺(仏教伝道協会ではなく、同住職が個人的に営む本願寺派としての寺)に担わせることになったという経緯もある。
「本願寺派僧侶としての立場もあるが、惠光の目的は、まず仏教伝道協会を立ち上げた沼田惠範氏の初志を受けて、仏教を含めドイツにおける日本文化の窓口となることです」と所長の青山さんは語る。
独特な形態をもったドイツ惠光寺
日本の伝統仏教の中で、本願寺派はもっとも海外進出に積極的な宗派と言っていい。ハワイ、米国本土、ブラジルなど海外に建つ本願寺派の寺は多い。しかし、それらは明治時代以降に日本人移民と共に渡っていったもので、日本とまったく縁のない土地に布教し、根付いたわけではない。惠光寺は信仰の下地がまったくないドイツという場所で、ゼロから地元と交流を深めてきた。惠光寺に勤める本願寺派の僧侶にとっても、海外におけるこのような状況は、歴史上初めてのパターンなのだ。
このような中、2015年「惠光」文化センターは30年を迎えた。式典には、デュッセルドルフ市長と、同市があるノルトライン・ヴェストファーレン州首相が挨拶を寄せ、同センターが地域と共に歩んできたことを印象付けた。
現地の宗教・文化を否定するのではなく、相手を尊重し細かな理解を積み重ねていくこと。ドイツで認められた惠光寺は、海外における宗教的文化活動の目指すべき一択を示した。その試みは浄土真宗および日本仏教にとって、新たな歴史を紡いでいるといっても過言ではない。
(加藤亨延)