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更新日令和3(2021)年2月26日
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第三回 かしわ・その時「昭和22年9月15日~カスリーン台風・水魔が襲来した日~」
第三回 かしわ・その時「昭和22年9月15日~カスリーン台風・水魔が襲来した日~」
今回の「かしわ・その時」は、今から64年前の昭和22年(1947)9月15日、首都圏を水没させ戦後最大級の被害をもたらした「カスリーン台風」が柏を襲った日です。関東地方での死傷者は1,600人を数え、千葉県でも4人の犠牲者を出しましたが、その4人は柏市(当時田中村)の住民でした。「第三回 かしわ・その時」は、猛威を振るった「カスリーン台風」をテーマに、利根川や手賀沼のほとりに暮らした人々と、水魔との苦闘の歴史を紹介します。(平成23年9月9日掲載)
濁流に飲み込まれる人命・花野井の悲劇
死者4人を出した柏の被害(昭和22年、提供:利根土地改良区)
行方不明者捜索中の消防団員(昭和22年、提供:利根土地改良区)
首都圏を直撃した台風は千葉県にも大雨をもたらし、河川の氾濫をまねきました。柏市の花野井地区でも利根川の堤防が決壊して遊水池に濁流が流れ込み、農作業中の一家3人と救助の消防団員1人が犠牲になるという悲劇を生んだのです。花野井に住む松丸政治さんによれば「9月15日、田んぼがある遊水池が水かさを増してきたため、稲上げをしていた。大水で刈り取った稲が浮き上がってしまうと後で始末が悪い。やっと作業を終えて帰ろうとしたその瞬間、堤防が決壊し、家族3人が濁流に呑み込まれた」。亡くなったのは松丸さんの兄と妹、それに叔父でした。さらに、9月17日には3人を捜索中の大室地区の消防団員も濁流の中、心臓マヒで亡くなったのです。堤は長さ30から50メートルにわたって土がえぐり取られ、洪水の威力を物語っていたそうです。
松丸政治さん
首都圏水没・カスリーン台風の猛威
昭和22年9月8日、マリアナ東方海上に弱い熱帯低気圧が発生、やがて台風となり「カスリーン※」と名づけられます。次第に発達しながら東海道沖に至り、15日22時ころ房総半島をかすめて三陸沖へ去っていきました。最盛期の中心気圧は960ミリバール(現在はヘクトパスカルで表示)、関東に最接近したときの中心気圧は990ミリバールと推定されています。
カスリーン台風は風害こそ少なかったのですが、停滞していた前線を刺激して記録的な豪雨をもたらし、利根川の本支流で堤防を決壊させます。とくに埼玉県東村(現加須市)では埼玉県東南部を次々の濁流に巻き込み、さらに東京都葛飾区・江戸川区にまで達するという最大規模の洪水を引き起こしました。その甚大な被害の検証から、戦後の利根川の治水計画が策定されたといわれています。
※戦後、日本に進駐していたGHQ(連合国最高司令官総司令部)は日本列島を襲う台風にカスリーン・アイオン・キティなど英語女性の名前をつけており、昭和27年(1952)GHQが活動を停止するまで続きました。
『利根川百年史』(建設省関東地方建設局)・『報道写真集カスリーン台風』(カスリーン台風写真集刊行委員会)
カスリーン台風進路図(『利根川百年史』・『報道写真集カスリーン台風』より転載)
東北本線栗橋鉄橋(埼玉県現久喜市)と栗橋駅付近(『報道写真集カスリーン台風』より転載)
埼玉県東村(現加須市)の利根川右岸堤防が決壊(『報道写真集カスリーン台風』より転載)
町の大半が水没(尾島町役場(現群馬県太田市)より利根川方面を望む)(『報道写真集カスリーン台風』より転載)
利根遊水池
水防工事の様子(昭和26年6月15日、提供:利根土地改良区)
排水路の建設(昭和23年頃、提供:利根土地改良区)
利根川右岸の柏市船戸から我孫子市青山にかけては芦萱の一大草原で、洪水の調整池にもなっていました。江戸時代、8代将軍徳川吉宗の享保の改革頃から、流作場として開発が試みられた場所です。堤も不十分でしたので大雨のたびに農地や作物が流され、失敗が繰り返されるまさに「流作場」でした。
戦後、食糧難に対処し、戦地からの引揚者による入植と、地元の人々の農地増反を目的に、国営事業として遊水池の開拓が進められたのです。
こうした中で発生したのが「カスリーン台風」の悲劇でした。この悲劇を教訓として、堤防や排水路の工事が進められ、昭和30年には船戸に揚水機場も完成したのです。
揚水機場完成(昭和30年4月28日、提供:利根土地改良区)
(『歴史アルバムかしわ』「利根遊水池の開拓」より)
水害の記録
利根川や手賀沼に接した柏市は、その豊かな水産資源を享受した一方、たびたび、洪水の被害に悩まされました。利根川は昭和10年、13年、16年そして戦後は22年、23年、24年、25年、33年、34年とあいついで洪水に見舞われ、田畑の冠水や家屋の浸水が繰り返されました。16年の洪水では、利根運河の水堰や堤防が大破して船の航行ができなくなり、運河の廃止につながりました。
手賀沼は排水に難があり、大雨で利根川が増水すると、堤防や圦樋(いりひ・逆流を防ぐ水門)が破壊され、大量の水が逆流することもありました。沼の水位は大幅に上昇し、呼塚(よばつか)付近では水戸街道が水没することもあったのです。
当時の写真から人々の苦労と、水害の猛威をたどってみたいと思います。
柏市中央一丁目付近の浸水(昭和10年、提供:中村真一)
利根運河水堰橋付近より利根川方面の惨状(昭和10年9月25日、提供:山中金三)
濁流の中で必死の水防作業(利根運河水堰橋付近、昭和10年9月25日、提供:山中金三)
旧水戸街道呼塚(よばつか)付近の冠水(昭和10年頃、提供:中村真一)
柏市中央一丁目の浸水(昭和13年、提供:大塚光一)
浸水した柏駅構内(昭和13年7月2日、提供:大塚光一)
柏市中央一丁目付近の浸水(昭和13年頃、提供:大塚光一)
利根運河水堰橋から見た利根川方面の増水(昭和13年9月2日、提供:山中金三)
呼塚付近の大水(昭和13年頃、提供:鈴木健吾)
呼塚付近の大水(昭和13年頃、提供:細田杲)
呼塚付近の大水(昭和13年頃)
手賀沼の洪水・大井付近(昭和13年)
手賀沼の洪水・戸張付近の水田(昭和25年8月16日)
台風22号で被害を受けた高柳付近の水田(昭和33年)
船戸地区から見た利根堤外耕地の冠水(昭和57年8月3日)
水没した新大利根橋の中央付近(昭和57年8月3日)
水没した新大利根橋の中央付近(昭和57年)
昭和57年8月11日発行広報かしわ記事
台風18号の影響・利根遊水池の越流堤を越える水(昭和57年9月12日)
歴史発見「かしわ・その時」シリーズ
歴史発見「かしわ・その時」は、毎回、その時々に起きた柏市にとって歴史的な出来事を通して市民の皆様方に地域の歴史を紹介していくコーナーです。
タイトル | 概要 |
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柏競馬場は当時、東洋一の威容を誇り、「柏を関東の宝塚に」というまちおこし計画の中核をなす施設で、昭和8年7月20日の競馬場駅の開設はこれを象徴する出来事でした。 | |
日本側に返還された米軍の柏通信所を通して、十余二地区の成り立ちと「柏の葉」開発の歴史を紹介します。 |
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猛威を振るったカスリーン台風をテーマに、利根川や手賀沼のほとりに暮らした人々と、水魔との苦闘の歴史を紹介します。 | |
第一回国勢調査をテーマに、このときの調査データや市内の資料を紹介しながら、近代化の中で農村から商都へと劇的に変貌をとげた柏の姿を追います。 | |
町村合併から市制施行をテーマに、当時の懐かしい写真や資料とともに、中核市へと劇的に変貌をとげた柏の原点を紹介します。 | |
第六回 文明10年12月10日 酒井根原の合戦~太田道灌、襲来~ |
江戸築城で知られる太田道灌と、下総の千葉孝胤が戦った酒井根原の合戦をテーマとして、数少ない当時の古文書史料を手がかりに、謎に包まれた柏の中世を考えます。 |
第七回 昭和24年1月25日 軍部が恐れた穏健派~牧野伸顕、十余二に永眠~ |
今から63年前、激動の大正・昭和期に活躍した政治家牧野伸顕が十余二で死去しました。牧野伸顕邸を中心に、鈴木貫太郎・吉田茂らと繰り広げた知られざる終戦への歴史に迫ります。 |
さらに詳しく知りたい方は・・・
さらに詳しくお知りになりたい方は、柏市史などをご利用ください。今回のテーマに関する市史の書籍は次のとおりです。
書籍名 | 該当ページ | 販売 | 内容 | 備考 |
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柏市史(近代編) |
441 |
4,980円 |
利根川の水害 |
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続かしわの昔 |
54 |
販売終了 |
水害 |
図書館等で閲覧可能 |
歴史アルバムかしわ |
74~76、82、125~156、264~267 |
販売終了 |
水害 |
図書館等で閲覧可能 |
柏市史(沼南町史 近代史料) |
687 |
3000円 |
手賀沼の洪水 |
(注意)柏市史は、柏市立図書館、柏市行政資料室(柏市役所1階)などでご覧いただけます。また、販売中の書籍については、行政資料室(柏市役所1階)、文化課(沼南庁舎)でご購入いただけます。郵送での購入も可能です。
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(2011年9月9日掲載)
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