プレゼンテーションが登場する前には、会話があった。プレゼンテーションと少し似たところもあるが、箇条書きは少なくて済んだし、だれかが照明を暗くする必要もなかった。ここにある女性がいる。仮にその名前を Sarah Wyndham とでもしておこう。国防関係のコンサルタントで Virginia 州 Alexandria に住んでいる。彼女は、自分の 2人の娘が、最近どうも言うことを聞かないような気がしていた。部屋を片付けなさいとか、家事を手伝いなさいとかいっても耳を貸さないようなのだ。そこで、ある朝、彼女はコンピュータの前に座り、Microsoft 社の PowerPoint を開いてこう入力した。
新しいページには、こう書き入れた。
家庭内の和を訴えるかわりに、Sarah Wyndham は売り込みをかけたのだ。あっという間に大きな書体の 18 ページができあがった。自転車に乗って幸せそうな一般的家庭のカラー写真、それに、最後のページにはカギの絵 -- 成功へのカギの絵までが入っている。ブリーフィングはただの一度だけ、去年の秋に行った。子供たちには、この体験がそうとうショックだったのだろう。「またあれを見せますよ」というだけで、Wyndham 家の娘のひとりは泣き出してしまうほどだ。
世界中の 2 億 5000 万台ものコンピュータで使われている PowerPoint は、他人に何かを強要するためのソフトウェアだ。一連のページにテキストやグラフィックを配置して、ラップトップ・コンピュータから 1 枚ずつスクリーンへ投影したり、(Sarah Wyndham がやったように)ブックレットとして印刷したりできる。日常的なソフトウェアを工具に喩えることがよくあるが、ここではそれが当てはまらない。PowerPoint を喩えるなら、むしろスーツとか、クルマとか、整形手術の方がふさわしい。いずれも外に持ち出すものであり、それ次第であなた自身が判断されてしまう。積極的にそう判断してもらいたいとさえ思っている。定義から言えばそれは社会的器具であり、中間管理職を一流の箇条書き技術者に仕立て上げるものだ。
だが、PowerPoint には、プライベートな内面への影響もある。これによって思考が編集されてしまうのだ。ほとんど気付かないうちに、それはビジネス・スーツであると同時にビジネス・マニュアルにもなっている。それは、私たちのものの考え方について、妙にペダンチックで慣例的な意見を持っていて、主張をつくるのに役立つだけでなく、それ自体が主張にもなっているのだ。情報の組み立て方、組み込む情報量、世界のとらえ方についての主張に。この特徴を表す機能のひとつがインスタント ウィザード(AutoContent Wizard)である。いろんなテンプレートが用意されている。「組織改編の管理」とか「悪いニュースの伝え方」とか。いってみれば、プレゼンテーションはほとんどできあがっていて、あとやることといったら自分の会社のロゴを入れるくらい。例えば、「チームのやる気を引き出す」というテンプレートには、「創造的な発想会議の仕切り方」と題するスライドが含まれている。
問い:どうしたら…?
最後の指令にはこうある。「やる気を引き起こすようなしめくくり」。こういった極端なテンプレートを避けて通るのは簡単だ。現に多くの人はそうしている。クリップアートやアニメーション、音響効果といったものも同様だ。だが、インスタント・ウィザード的スピリットを拭い去るのは容易でない。もっともゆるやかなテンプレートですら、見出しとそれに続く箇条書きというスタイルを強要している。ユーザは、細切れの、要点中心の発想に追い込まれてしまうのだ。この種の発想は、パロディのネタにもなっていて、例えば、インターネット上にはゲティズバーグの演説を PowerPoint 化したものが流れている。いわく「戦死者に戦場の一角を捧げる - 適切!」。
PowerPoint は、恐怖感の克服に劇的な効果を示す妙薬にもなりうる。公衆の面前で話す恐ろしさを、映画作りの楽しみに置き換えられるからだ。そのため、こうした影響力を排除しようとする動きは、休みなく動き回る Microsoft Word のペーパークリップに対する戦いほどには活発ではない。それどころか、反 PowerPoint の動きはむしろ沈静化しているようだ。Microsoft がルールにしなかったところを、企業側が自分たちでルールを作りだしたほどである。アメリカのある大手コンピュータメーカーでは、従業員に PowerPoint プレゼンテーションに関するガイドラインを配布した。それは、同社の提唱する「7のルール」を強調したものだ。いわく「1 ページあたり箇条書き 7 つか、または 7 行。1 行につき 7 語」。
Microsoft が目がくらむような成長を遂げた今日、株式会社アメリカ合衆国のオキテによれば、PowerPoint も持たずに会議に出席するような人間は歓迎されないし、ちょっとカッコをつけているように思われる。クツをはかないで出てくるみたいな感じだ。産業施設や広告代理店の明かりを消した一室で、売り込みやカンファレンスの現場で、これがコミュニケーションの流儀になっている。段落も代名詞もなし。全世界は、数枚の調子のいいスライドに集約される。1行に7語くらい、スライド1枚に7行くらい。これが今や、教会の説教、大学の講義、家庭内の議論にまで登場するようになっている。New Jersey に住むある PowerPoint ユーザは、最近オンライン会議室にこんな書き込みをした。「先週、ふと気付いたら、(頭の中で)スライドを作ってたんだ。妻をどうやって説得しようかってね。今年は休暇を取る余裕がないんだ」。ともあれ、15 年前に、業務上の簡単なニーズを満たすために設計されたひとつのソフトウェアが、今や幼稚園の教育活動にまで利用されるようになっている。「なんてこった」初期の開発者のひとりは私にこう語った。「僕たちは、なんてことをしてしまったんだろう?」。
40 年前、職場のミーティングとは、身近な同僚とのディスカッションであった。技術者は、他の技術者と会って技術のコトバで話をする。そこに管理者が姿を見せることもあったろう。一種の通訳として、社内のその他の人たちとの仲立ちになったのだ。だが、そこにはマーケティングや、製造、販売の部門からは誰も現われなかった。中にはわざわざガリ版を切った者もいたかもしれない。多分、その人の指は紫色になっていたことだろう。
だが、アメリカ産業界の構造は 1960 年代から 70 年代にかけて様変わりした。Stanford 大学コミュニケーション学部で教鞭をとる Clifford Nass はいう。「企業は研究所で発見した何かを消費者に買ってくれるよう説得していたんじゃないんです。彼らが発見したり、あるいは創造したりしていたのは消費者の需要だったんです。消費者に必要だと納得してもらえるものは何か、探していたのはそれなんです。それから研究所へ行って、『これを作れ!』というわけですね。みんなこういっていました。『需要は創造できる。たとえゼロからでも。こいつの売り方はわかっている』。SpaghettiOs はその典型的な例です。始めにジングルが流れてあのキャラクターが登場。『スプーンでも食べられる丸いスパゲッティ』。すると、キャラクターがひとこと『ねえ!スパゲッティをちいさな丸の形にしてみなよ!』」
Stanford 大学院で組織行動とその変化を研究する Jerry Porras 教授はこう語る。「技術が製品を生み出すのではなく、顧客が製品を引き出すようになると、どうしても顧客のニーズを知る必要が生まれてきます。このことは、すなわち、企業内でのやり取りが増えるということでもあります」。新たな会話の登場だ。こんなものはできるかな?つくったらどう売ろう?色を青にできないか?
アメリカでは次第に会議が多くなっていった。PowerPoint の歴史が始まる 1980 年代初期までに、企業で働く人は他部門の同僚と話をするやり方を探さざるを得なくなっていた。SpaghettiOs に引き寄せられて集まってきた、まったく違った言語を話す同僚と。技術によってさらに情報量が増大するという単純な事実がこれを後押しした。知るべきことがたくさんあったし、終身雇用という考え方が廃れていくにつれ、知るべき理由もさらに多くなった。
こうした環境の下、視覚的補助手段は栄えるべくして栄えた。1975 年、全米で 5 万台のオーバーヘッド・プロジェクタが売れた。1985 年までに、この数字は 12 万台にまで増加した。40 年代中期に警察で利用するために開発された OHP は、やがてボウリング場や学校などでも広く利用されるようになったが、ビジネスの現場に完全に取り入れられるのは 70 年中期まで待たねばならなかった。その頃、複写機の熱に耐える透明フィルムが出回りだしたのである。紙の上に載るものなら、何でも OHP スライドに移せるようになった。35 mm スライド(こちらはグラフィックの専門家が必要)にも人気があったが、OHP の方が安価で、使いやすかった。だが、こちらでは、タイプライターのフォント、いや秘書のタイプライターのフォントを使うしかなく、さもなくばインスタント・レタリングとフェルトペンの技が問われることとなった。ビジネスマンが、自分のオフィスで見た目のいいプロっぽいフォントを作ることはできなかった。
だが、1980 年、パーソナル・コンピュータ、レーザー・プリンタ、印刷しようとするものをそのまま画面に映せるモニタの普及が、いよいよ目前に迫った。California 州 Mountain View、Bell-Northern 研究所(B.N.R)の実験室には、コンピュータ・リサーチの科学者たちが巨大なメインフレーム・コンピュータ、グラフィック・ワークステーション、写植機、それに最初期の Canon レーザー・プリンタを設置していた。このプリンタは、バスタブほどの大きさがあり、大の男が 6 人がかりでようやく建物に運び込むことができた。これらが何とか一体となって、後にコーヒーテーブルの上にのっかる数千ドルの機械とほぼ同じ機能を実現していた。いくたびもの試行錯誤と、度重なる部屋の移動の後、この機械群は一種のワード・プロセッサとして使えるようになった。
Whitfield Diffie は、この装置にアクセスできた。元反戦運動家の数学者で、政府による暗号システムの独占管理に異を唱えていた Diffie は、1976年 にコンピュータ界の伝説としての地位を確実なものにしていた。この年、彼は同僚の Martin Hellman とともに、電子的に秘密を守る新しいやり方、公開鍵暗号化手法を発見したと発表した。Bell-Northern で、Diffie は電話システムのセキュリティを研究していた。1981 年、35mm スライドでプレゼンテーションを準備していた彼は、ちょっとしたプログラムを書いた。同じ研究所の同僚が書いたあるグラフィック・ソフトウェアに、少し手を加えたものだ。元は、一枚の紙に黒い枠線を引くためのものだったが、Diffie はこれを拡張して、ひとつのページにいくつもの枠を作って、その中にテキストを入れられるようにした。周囲にはコメントを入れるスペースも取れるようになっていた。言い換えると、彼がつくったのはストーリーボード、つまり紙でやるスライドショーであり、これをスライド制作するデザイナーに送れるようになっていた。また、同じものが講義の台本としても使えるようになっていた。(この段階では、彼は自分で作った紙を複写機にかけて OHP シートを作ったりはしていなかった。だが、他の部門の科学者たちはそうしていた)。数日間の労力で、Diffie は PowerPoint への道を示したのだ。
Diffie は白髪混じりの長髪で、英国風スーツがお気に入りだ。今、彼は Sun Microsystems で暗号関係の社内コンサルタントとして働いている。先日私は Palo Alto で彼とランチを共にしたが、PowerPoint 生誕の場に居合わせたことを彼は初めて公式に認めた。なんだか妙な話だった。ホッチキスの発明者はレーニンだ、と聞かされたような感じだ。そう、彼はこういった。PowerPoint は、B.N.R での彼の業績を「元にして」いる、と。これは Diffie にとって、あまり重要なことではない。彼は自らの専門分野で非常に高く評価されていて、エロチックで刺激的な内容のファンメールが届くという数少ないコンピュータ科学者のひとりだ。PowerPoint つながりでは一銭ももらっていないので「ちょっとムッとしている」そうだが、旧友と一戦を交える気はさらさらない。「Bob には、これが世界にとっていかに重要なものかが見えていたんだ」と彼はいう。「でも、僕にはそれがわからなかった」。
Bob とは Bob Gaskins のことである。世界中の高層階オフィスでブラインドが降ろされ、その中でコンピュータ画面上に箇条書きのポイントが飛び交うようになった最終責任は、この男にある。PowerPoint 誕生に果たした役割の大きさでいうと、彼は Diffie にかなわない。だが、彼は、以前の同僚が「ヒントになった」ことを快く認めている。1970 年後半から 80 年代初期にかけて、Gaskins は B.N.R でコンピュータ・サイエンス研究の責任者を務めていた。元 Barkley 校の院生であった彼には、家族が産業写真用品を扱っていたという背景があり、OHP やインクやジェルに囲まれて育った。1982 年、半年間の海外出張から戻った彼は、Apple Macintosh と Microsoft Windows(いずれも開発中であったが)が未来におよぼす影響を敏感に感じ取り、その商業的可能性を 50 件リストアップした。アラビア語の写真製版、メニュー、サインなどなど。それから自分の研究室を見回して、自分がいない間に何がおこったかを理解した。扱いにくい機械(見たものと出るものが大違い What you saw was not at all what you got)だったが、Diffie の後に続けとばかり、彼の同僚たちは資金獲得のために OHP を使って自身のプロジェクトを売り込もうとしていた。「そのメインフレームは負荷ではちきれそうになっていた」と Gaskins はいう。
彼はついにアイデアを手中にした。Windows と Macintosh で動作するグラフィック・プログラム。一連のペラ紙、もしくは「スライド」を制作、編集できるもの。1984 年、B.N.R を辞めた彼は、かなりの割合の株式と引き換えに、不況にあえぐシリコンバレーのソフトウェア企業 Forethought 社に参加した。彼は Dennis Austin というソフトウェア開発者を雇って、Presenter という名前のプログラムの開発に取りかかった。商標上の問題と、Gaskins がシャワー中に受けた天啓を経て、Presenter は PowerPoint と名を変えた。
Gaskins は几帳面な本好きの男で、San Francisco の Fillmore 地区にある 19 世紀の屋敷を丁寧に補修し改築して、妻とともに住んでいる。彼が最近興味を持っているのは、古いコンサーティーナ《注:鍵盤がなく半音階的に配列したボタンのある六角形のアコーディオン》である。私が訪問した際には、リクエストに応えて 1 曲披露してくれた上、発表予定の共著論文「A Wheatstone Twelve-Sided 'Edeophone' Concertina with Pre-MacCann Chromatic Duet Fingering」を一部くれた。Gaskins は、インスタント ウィザードやスライド間のアニメーション付きフェードインといった PowerPoint の現在の姿には懐疑的だ。だが、かつてのよりシンプルであった頃の製品は熱愛している。彼は PowerPoint 関係の記念品をきれいに保存していて、それを私に見せてくれた。中には 1997 年に開かれた PowerPoint 同窓会のおみやげ用パンフレットもあって、これにはフォントサイズやプログラム言語についての内輪受けするクイズがいっぱい載っている。また、1984 年当時の古いビジネスプランも見つけてくれた。ある一節、それもイタリックになっている唯一のくだりにはこう記されている。「コンテンツの原作者自身がプレゼンテーションをコントロールできるようにすること」。Gaskins にとっては、これが常に重要だった。グラフィック・デザイナーという中間業者を廃して、しかも結果の心配はしなくても済むこと。同僚から、プログラム上でデザインの選択肢を制限しよう(デザイン上の大失敗を防止するために)という動きがあるたびに、Gaskinsはこれを制してきた。Thoreau のこんな言葉を引用して。「私がこの世界にやってきたのは、そこを住みやすくするためではなく、そこに住むためなのだ。いいか悪いかは問題ではない」。
PowerPoint 1.0 が発売されたのは 1987 年 4 月。Macintosh 専用で、白黒しかなかった。テキスト+グラフィックのページが作れて、複写機にかければ OHP シートができた。(当時はラップトップやポータブル・プロジェクタはなかった。生で電子プレゼンテーションが可能になったのはこれらの登場以降の話である。Gaskins によれば、この新しい手法を初めて使ったのは彼かもしれないとのこと。それは Paris のホテルで 1992 年のことだった。ちょうど初めてマイクを叩いてこう言った人のようななものだ。「後ろの人、聞こえますか?」)。Macintosh の市場は小さく、専門化していた。だが、この市場で PowerPoint(この種の初の製品である)はヒットを収めた。「どんなにすごかったか、とても言葉ではいい表せない」と Gaskins はいう。「トレードショーでデモをやると、人が殺到したんだ」。立ち上げからほどなくして、Forethought 社は Microsoft からの申し入れを受け、1400 万ドルでの買収を受諾した。Microsoft はこれを現金で支払い、Microsoft の本拠地 Washington 州 Redmond から遠く離れたシリコンバレーで、Bob Gaskins と彼の同僚が、なかば自治的に存続することを認めた。この取引条件を、Microsoft はすぐに悔やむことになる。PowerPoint の従業員は、問題を起こしがちな独立精神(それに時折行われる自らへのご褒美、美しく飾ったパーティ、キャビア、弦楽四重奏、ルネッサンス期のすてきなドレス)で知られるようになった。
PowerPoint は、部分的には、部門間コミュニケーションを必要とする新たな企業世界への回答として作り出されたものだ。このプログラムに関わった人たち自らが、この現象を実体験している。1990 年、PowerPoint 初の Windows 版が、Windows 3.0 と機を同じくして登場した。PowerPoint は、あっという間に Gaskins いうところの「大きな機械の歯車」になっってしまった。PowerPoint のプログラマたちは、意に染まぬ変更を余儀なくされた。1990 年、Word、Excel、それに PowerPoint を Microsoft Office として統合する動きが始まったことが、その一因だ。この戦略のおかげで、最終的に PowerPoint は不動の地位を確立したわけだ。また、マーケットリサーチの影響もあった。90 年代中盤にインスタント ウィザード機能が追加された。プレゼンテーション志望者の中には、真っ白の PowerPoint ページを見ると手も足も出ない人がいることが Microsoft にわかったからだ。とっかかりが難しかった。「僕たちはこういってました。『必要なのは中身のインスタント化じゃないか!』」元 Microsoft の開発者は、こう回想して笑った。「『ボタン一発、プレゼンテーション一丁あがり』って具合にね」。その考えを、彼は「馬鹿げている」と思ったそうだ。もちろん、この呼び方もジョークに過ぎなかった。だが、Microsoft はこのアイデアを採用し、名前までそのまま使った。これほどターゲット顧客層をコケにした名前をもつ製品も珍しい。
Gaskins が PowerPoint を離れたのは 1992 年。同僚の多くが、すぐに彼の後を追った。Microsoft 株ですっかり裕福になった今、みんなは人生の次なるステップ、コンサーティーナ収集の段階に突入したようだ。彼らは、自分たちのなじみの製品がアメリカのビジネス文化の檜舞台へ駆け上っていく姿を見守った。1993 年までに、PowerPoint はプレゼンテーション市場で圧倒的なシェアを確保した。1995 年、平均的なユーザが 1 ヶ月に作成するプレゼンテーションは 4.5 本だった。3 年後、月平均は 9 本になった。PowerPoint は 4 コママンガや日常会話に登場するようになった。数年前、Bob Gaskins は英国で開催されたプレゼンテーション中心のカンファレンスに参加した。司会者は突然進行を止めて、こういった。「今聞いたんですが、客席の中に PowerPoint の発明者がいらっしゃるそうです。どうか名乗り出ていただけませんか?科学の進歩に貢献されたことに感謝したいのです」。Gaskins は立ち上がった。観客は笑って拍手喝采。
Cathleen Belleville は元グラフィックデザイナー。1989 年から 1995 年にかけて PowerPoint で製品プランナーとして働いていたのだが、自分の作ったクリップアート・シリーズが、現代のビジネスシンボルになってしまったことに驚いている。一連の画像は、男女どちらともとれる線画(彼女いうところの Screen Beans)で、昔の大学時代のルームメイトをモデルにしていた。かかとを鳴らしている小さな人型とか、頭の上にインスピレーションの電球がピカッとか。PowerPoint の守護神ともいえる Screen Bean は、クエスチョン・マークの下に立って頭をかきながら悩む人の姿だ。その人気の高さは、New York の法律事務所で働くある弁護士をして、今までに見た数多くの PowerPoint プレゼンテーションのうち、どれひとつとしてこの頭をかく人の絵が入っていないものはなかったといわせるほどだ。当の Belleville 本人も、世界中で自作の Bean を目にしている。野球帽にプリントされていたり、Hamburg のある銀行では地上 15 フィートに高く掲げられていた。「ママにこういったの『ねえ、ヘタすると、わたしの作品は「モナリザ」より有名になるかもしれないわよ』って」。New York 3 番街のコインランドリーでカウンターの上に掲げられたサインには、ドアマンのいるビルへの配達には責任を持てない旨が書かれている。そして、この言葉の横には、かの有名な悩み多き人の姿がある。何が困っているのか、さっぱりわからない。ドアマン?それとも配達人?だが、たぶんこれはポスターが咳払いをして注目を集める今風のやり方なのだろう。Belleville が作ったのは、「サイン」を表すサインだったのだ。
Microsoftの推定によれば、毎日少なくとも 3000 万本の PowerPoint プレゼンテーションが作られている。このプログラムはプレゼンテーション用ソフト市場の約 95% を占めている。だから、このソフトが、ビジネスを離れて私たちの生活の他の領域にまで広がっていくのも時間の問題だった。最近、シンガポールに住むマレーシア人のリサーチエンジニア Sew Meng Chung と話をした。彼は 1999 年に結婚している。彼の話では、Goodwood Palk Hotel のウェディングパーティで、招待客が席につくまでの間、PowerPoint プレゼンテーションでもてなしたという。130 枚の写真が、音楽にあわせて 4 〜 5 秒ごとに次々とフェードして入れ替わっていく。「赤ちゃんの写真、つきあっていたころの写真、友達や家族と撮った写真などです」と彼はいう。
Terry Taylor にも話を聞いた。彼は eBibleTeacher.com というウェブサイトを運営していて、電子的な視覚補助を利用する教会に向けて各種素材を提供している。「イエスは語り部でした。グラフィックなイメージを伝えていたんです」。Taylor はいう。「彼は『野のユリのことを、それがどう育つかを考えてみなさい』といいました。これが示すものは明らかでしょう。彼がこの話をしたときに、その野原にはユリがあったのだろうということです。彼は目に見えるようなたとえ話を使ったんです」。Taylor の推測によれば、アメリカの教会の 15% は、今やビデオ・プロジェクターを装備していて、その多くは、普段からお知らせや歌詞や、説教のおともに PowerPoint を利用している。(Taylor によると、彼が見た説教の中で、頭をかく人の絵を使ったものがひとたびならずあったという)。Taylor のサイトに来た人は、聖地の名所写真や、できあいの PowerPoint 説教をダウンロードできる。その一例が「円満な結婚生活」である。
PowerPoint が、賛美歌の歌詞を映したり、新規顧客に手短に売り込みをかけたり、コインランドリーで目に付くポスターを作ったりするのに利用されている今、New York を基盤とするインターネット企業でセールス&マーケティング担当の副社長を努める Tony Kurz がこう熱弁を振るうのも納得できるだろう。「ボクは PowerPoint が大好きなんだ。最高のアプリケーションだよ。まさに自分のペースで人を誘導できるんだ」。50 語から 100 語のテキストや情報を伝達するために、視覚的手段をメインに利用したとしても、単調だったり、横道にそれたりして、もっと手際の悪いことにもなりかねない。少なくとも、PowerPoint を使えば基本的な準備はやらざるを得ない。定義からいえば、PowerPoint プレゼンターは、まったくの白紙から自分のネタを考えるわけではない。『The Language Instinct』の著者で MIT の心理学教授 Steven Pinker によれば、 PowerPoint によって議論に視覚的な形を与えることができるのだ。「言語とはリニア(線状)のメディアです。一度に一語ずつのね」と彼は言う。「でもアイデアは多次元です。…うまく使えば、PowerPoint で議論の論理構造がより明確になります。ひとつでやるよりは、2 つのチャンネルから同じ情報を送ったほうがいいでしょう」。
とはいえ、当の開発者でさえ時に利用を禁じたくなるような製品に完全になじむのは難しい。Jolene Rocchio は Microsoft Office の製品プランナー(しかも PowerPoint 全般についてはとても楽天的)。その彼女がこんな話をしてくれた。最近出席した San Francisco の非営利組織のミーティングで、彼女は、これから先、ある発表者が PowerPoint を利用するのには反対だという論陣を張った。「私はこういったの、『ただ立ってしゃべればいいだけじゃないの』」。Rocchio によれば、その前の回で、その発表者がPowerPointを使おうとしたところ、プロジェクタが動かなかったのだという。「しかも、みんなが、そうね、応援してるみたいなのよ。みんなはこの女性の話を聞きたかっただけなの。それも心からの声をね。PowerPoint のせいで、ほとんど聴衆を逃がしてしまうところだったわ」。
これは PowerPoint への文句としてもっともよく聞く話だ。人間的コンタクトのかわりに人間が投影されるのだ。「私たちは、人間として、お互い同士の本当の対話というものに縁遠くなってしまったと思うの。お相いにやり取りして、新しい解答にたどり着くというスタイルのね。私たちがやっているのは議論ではなくて、互いにプレゼンテーションしてるだけなのよ」というのは Cathy Belleville だ。「Presentation」誌の編集者 Tad Simons(2年生になる彼の息子もクイズに PowerPoint を使っている)にとって、3 重伝達の罪はおなじみだ。まったく同じテキストが画面に映され、口頭で語られ、目の前の配布物(一部では「廃棄物」といわれている)にも印刷されている。「誰かが『B』ボタンを押して画面が真っ暗になると、ボクはウキウキしてくる。その人と本当に話ができるからだ」とSimonsは語った。
1997 年、Sun Microsystems の社長兼 CEO、Scott McNealy は PowerPoint を「禁止」した(この禁止令を破る従業員は珍しくなかったが)。この動きを後押ししたのは、Microsoft のライバルとしての PR 面のニーズもあっただろう。だが、McNealy によれば、生産性での実質的な問題もあったようだ。「どうして禁止したかって?こういえばいいかな。私が 4 万人の従業員に突撃指令を出したくなったとしよう。「攻撃(attack)」という単語は ASCII なら 48 ビットで済む。これが Microsoft Word 文書になると90,112ビット。同じものを PowerPoint スライドにすると、458,048 ビットになる。ヘビの口にブタを押し込むみたいなもので、ネットでやりとりするにはきつい」。McNealy の心配の種は、米陸軍にも共通するものだ。手の込んだ PowerPoint ファイル(プレゼンテーション強迫症の、人呼んで PowerPoint 部隊の人たちが作ったもの)が大量にやりとりされるおかげで、軍の回線がふさがっているそうだ。昨年、統合参謀本部長 Henry H. Shelton 将軍は、世界中の米軍基地に対して、プレゼンテーションをもっとシンプルにするよう指令を出したが、これは部下の多くに喜びを持って迎えられた。
PowerPoint が開発されたのは、人前で話をする人が、デザインを自分で決められるようにとの願いからだった。だが、この人たちには、他に決断すべきもっと重要なことがあったのかもしれない。「昔のシステムは非効率的だったと思います。重役は自分の仕事をぜんぶ秘書に任せていたんです」と Cathy Belleville はいう。「でも、今はどうでしょう。高給取りの人たちが、何時間も座りこんでスライドの体裁を整えているんですよ。なぜって、その方が、話の内容を考えるよりも楽しいから。こんな仕事は 10 倍も速く片付けられる人に任せた方が効率的ですよね。安く雇えるんだし。世界中の何 100 万人もの重役たちが座りこんで『Arial にするか?Times Roman にすべきか?24 ポイントか?18 ポイントか?』なんてことを考えているのよ」。
PowerPoint ショーが広まるに従って、この世界は凝縮され、簡潔になり、角がとれていった。ピカピカして超現実的ではあるけれど、PlayStation の自動車レースの背景に流れる市街地のようだ。PowerPoint だと、根拠薄弱な提案や、内容のないビジネス・プランが不思議なくらいうまくごまかせる。普通、聞き手は礼儀正しくおとなしくしているし(他人のスライドショーの進行に口をはさむのはベンチャー・キャピタリストくらいのものだ)、円グラフが踊ったりなんかして目をそらすことができるので、話し手は、論旨に笑ってしまうような大穴があっても、さっさと次へ移ってしまえる。気付く者がいたとしても手遅れだ。話はとっくに先へ進んでいる。
心理学教授で『Influence: Science and Practice』という著書を持つ Robert Cialdini を始めとした Arizona 州立大学の 3 人の研究者が、昨年、ある実験を行った。3 グループのボランティアに対して、大学フットボールの奨学生候補となっている架空の高校生 Andrew についての情報を提示した。あるグループには、Andrew のフットボール成績を紙 1 枚にタイプしたものが手渡された。2 番目のグループには、棒グラフを示した。3 番目のグループに属する人には、PowerPoint プレゼンテーションが行われ、彼らの目の前で棒グラフがぐんぐん伸びた。
Andrew の記録からみて、見込みはどうだろう?Cialdini によれば、Andrew を PowerPoint した場合、観客は、彼がフットボール・チームに入る可能性をより大きいと判断するようだ。最初のグループは、1 〜 7 段階で Andrew を 4.5 と評価していた。2 番目のグループは 5。PowerPoint グループは、彼を 6 と評価した。PowerPoint が彼にパワーを与えたのである。この実験は、スポーツ成績の読み取りにたけたスポーツファン 3 グループに対しても繰り返された。今度は、始めの 2 グループが Andrew に同じ評価を下した。だが、PowerPoint を見せられたグループは抵抗できなかった。再び、Andrew は 6 を取ったのである。組織にとって、PowerPoint は、高給取りの意思決定専門家を素人同然にする手段のようだ。「恐ろしいことです」と Cialdini はいう。彼もかつては、ビジネス・グループに話をする時にはスライドを使うのが好みだったが、あるハイテク企業のおかげで、結果として彼の権威にキズがついていることを悟った。「彼らがいうには『わかってるかい、Bob?PowerPoint に頼らなきゃ、耳も貸してもらえないんだよ』。そこで私は宗旨変えすることにしたんです」。
Clifford Nass は、Stanford のスタジアムの芝生を見下ろす場所にオフィスを構えている。同大学では PowerPoint がとてもよく利用されていて、それを使わないというと、ネクタイに卵をくっつけているみたいに、年寄りかエライさんの証拠と思われたりするくらいだ。Nass はかつて Intel で働いていて、後に社会学で博士号を取得した。現在、彼は人々がコンピュータをどうとらえているかについて執筆や講演を行っている。だが、それ以前に Nass 教授はプロのマジシャン Cliff Conjure でもあった。だから、人前でパフォーマーとして振舞う能力にはいくらか自信があった。
Nass は、今、PowerPoint で講義を行っているが、それは学生からそういう要望が上がってくるからなのだそうだ。その彼によると、PowerPoint には、講演を「底上げ」する力があるという。話者がこのプログラムを使っていれば、その講義が貧弱になる恐れが減少する。「PowerPoint なら、実際、非常に効率的に内容を伝達できる」Nass はいう。「学生にとっても、より多くの情報が得られるわけです。事実だけじゃなく、ルールや、考え方や、実例までね」。
同時に PowerPoint は「天井を下げる」ことにもつながっていると Nass はいう。「プロセスが見えなくなってしまいました。私の記憶に一番残っている授業、一番よく覚えている教授というのは、そこで彼らがどう考えているかが目に見えるようなものでした。何を言ったか、細かいところは覚えていなくてもね。それは『問題に対する取り組み方には、こんな見事なやり方もあったのか!』というような感覚です。PowerPoint で、こういったものがすっかりなくなってしまいました。PowerPoint で結果は教えられます。でも、プロセスはすっかりなくなってしまいました」。
「なくなってみて気がつくんですが、PowerPoint 抜きで講義をやっていた頃は、時々すごいアイデアを思い付いたものです」と彼は続ける。「本当にぱっとひらめいた時のことを覚えています。講義の途中で、突如としてこう叫んだんです。『そうか、「オズの魔法使い」だよ!「オズの魔法使い」のエンディング・シーンだ!』ってね」。この話をする Nass は、ほとんど叫ばんばかりの勢いだった。(後で彼に聞いた説明によると、この講義は、「人間」の定義をコンピュータに応用するという内容だったそうである)。「ひたすら波に乗って突っ走りました、25 分間もね。そのクラスにいた学生は、今になっても、そのことを覚えてくれています。こんなことは今はもう起こりません。『スライドはどこ?』」。
PowerPoint には、そこにある情報がすべてと信じ込ませてしまいかねないところがある。Nass によれば、PowerPoint は、単純な内容を伝えようとするものに力を与える(そもそも Bob Gaskins が目指したタスクはまさにこれだったのだが)ものの、プロセスを伝えようとするものからは力を殺ぐ恐れがある。つまり、雄弁家、語り部、詩人といった人たち、インスタント ウィザードのスライドに収まらないような思想を持つ人たちである。「認めるのはいやなんですが」Nass はいう。「去年、実際に摘要から削った本があるんです。どうやったらPowerPoint 化できるかわからなかったから。Steven Johnson が書いた『Interface Culture』というおもしろい本なんですが、内容は非常に散漫。ところが、この本の魅力はちょっとしたさりげない一言にあるですね。この本を読むと、アイデアで頭がいっぱいになるんです。このアイデアを正確に書き出すべきなんでしょうが、でも、それほどたいしたものでもなかったりして」。彼はこの本を箇条書きにまとめられなかった。何かを書き出すたびに、どこかしっくりこないところがあった。彼はついにこの試みを投げ出し、講義に使う代わりに推薦図書にした。いい本だからぜひ読みなさい。そう勧めた後、彼は粛々と次の箇条書きに進んだのだった。
New Yorker - 2001年5月28日号より