Clay Shirky / 青木靖 訳
2010年6月
話は2007年12月のケニアに始まります。疑惑のある大統領選挙が行われ、選挙の直後に部族間で暴力事件が起きました。ナイロビの弁護士であるオリ・オコーラが…TEDTalkでみなさんご存じと思いますが…自分のサイトKenyan Punditでそのことをブログに書き始めました。選挙と暴力事件があってほどなく、政府は突如強い報道管制を敷きました。そのため事件がどこで起きているのか知りたい人々にとって、メディアの中でのブログの位置づけは、単なる論評から中心的なものへと変わったのです。オコーラは読者にもっと情報を寄せてくれるようにと呼びかけました。そしてコメントがなだれ込み始めました。オコーラは情報を整理しブログに投稿しました。しかしすぐに愚痴をこぼすことになりました。「あまりにも多すぎる。一日中やっても追いつかない。ケニアで今何が起きているかという情報は、とても1人で処理できる量じゃない。何か自動化できる方法があれば良いのだが」
ブログを読んだ2人のプログラマがこれに応えました。「それだったらできるよ」。72時間後、彼らはUshahidiをローンチしました。Ushahidiというのはスワヒリ語で「目撃者」とか「証言」と言う意味です。Webや、さらには携帯やSMSで寄せられる現場からの報告を拾い上げて地図上に表示する、ごく単純なシステムでしたが、それはまさに求められていたものでした。これが可能にしたのは、この暗黙の情報に誰もが触れられるようにすることです。暴力がどこで起きているかは分かっていても、みんな知っていることが何かは誰にも分からなかったのです。その暗黙の情報をまとめ、地図上に表示し、公にしたのです。このようにして危機マップ作りの活動が2008年1月のケニアで始まりました。
多くの人がそれを見て価値を認めたため、Ushahidiを作ったプログラマはこれをオープンソース化し、プラットフォームに変えることにしました。それ以来、メキシコでは選挙違反の追跡に使われ、ワシントンD.C.では除雪状況をモニタし、最も有名なところではハイチで地震後の状況を知らせるために使われました。Ushahidiのフロントページにある地図を見ると、Ushahidiが世界中でどれほど使われているかが分かります。2008年始めに東アフリカで現れた1つのアイデアの1つの実装が、3年も経たずして世界中に広まったのです。
オコーラがしたことはデジタル技術がなければ不可能でした。オコーラがしたことは人に親切心がなければ不可能でした。現在は興味深い時代であり、社会的なデザインの課題がこの2つに依存する状況が増えています。それが私の注目しているリソースであり、「思考の余剰」と呼んでいます。これは世界の人々がボランティアとして大きな、時に世界規模のプロジェクトに貢献し協力する能力を表わしています。思考の余剰には2つ要素があります。1つ目は世界にある自由な時間と才能です。世界の人々には、共有プロジェクトに貢献できる自由な時間が年に1兆時間あるのです。自由な時間なら20世紀にもありましたが、Ushahidiが20世紀に現れることはありませんでした。
思考の余剰にはあと半分の要素があるのです。20世紀のメディアの状況は人々に消費を促すことに長けていました。結果として私達はよく消費するようになりました。しかし今やネットや携帯のようなメディアの道具によって消費以上のことができるようになりました。人々がテレビ漬けだったのは、好きこのんでそうしていたのではなかったのです。私達に与えられていた機会がそれしかなかったからに過ぎません。もちろん私達は今でも消費するのは好きです。しかし作ることも共有することも好きなことがはっきりしました。古くからある人間のモチベーションと現代のツールが一緒になって大規模な労作への参加欲求を実現可能なものにし、それが新しいデザインのためのリソースとなっているのです。そして思考の余剰を利用した本当に見事な実験を目にするようになりました。科学や、文学や、芸術や、政治活動、それにデザイン。そしてもちろん、たくさんのLOLcatsです。LOLcatsは猫の可愛らしい写真に可愛らしいキャプションを付けて、いっそう可愛らしくしたものです。これもまた豊かなメディアの光景の中に今日見られるようになったものです。これはUshahidiとともに現れてくるのを私達が今目にしている参加モデルの1つです。法律家のように規定するなら、LOLcatsはおよそ考えうる最も馬鹿げた創作です。他にもそのようなものはあるでしょうが、LOLcatsを代表的な例として見ることができるでしょう。しかし、たとえ考えうる最も馬鹿げた創作であろうと、創作に変りはないのです。誰かこのようなことをやる人は、月並みだろうが使い捨てのものだろうが、何かを試し、何かを公に表現しているのです。一度やったことがあるなら、もう一度やることだってできます。改善するために手を加えることもできます。
凡庸なものから優れたものまで、作品は連続しています。芸術家としてクリエーターとして働いたことがある人なら、それが頂上に向かって上り続ける連続した段階だとお分りになるでしょう。ギャップがあるのは、何かを作ることと何も作らないことの間です。そしてLOLcatsを作っている人たちは既にこのギャップを越えているのです。LOLcatsなしに直接Ushahidiへ、その場限りのものを飛ばして本質的なものだけを取りたいと思うかもしれません。しかし豊かなメディアというのは決してそのようには機能しないのです。実験する自由があるというのは、どんな実験をするのも自由だということです。神聖なる活版印刷においてさえ、科学論文誌が現れる150年前にポルノ小説が現れているのですから。
LOLcatsとUshahidiの決定的な違いが何なのかについて話す前に、それが共有している源についてお話ししておきたいと思います。その源とは親切心のためのデザインです。現代という歴史上の時代における興味深い現象の1つは、思考の余剰すらデザイン可能なリソースになっているということです。社会科学はまた、私達にとって内的動機づけがいかに重要かを解明しつつあります。上司に言われたからとか、お金をもらったからするというのでなく、やりたいからやるということの重要性です。
これはユーリ・ニージーとアルド・ルスティチーニの論文にあるグラフで、2000年に抑止論と呼ばれるものを検証したデータです。抑止論というのは単純な人間行動の理論で、誰かに何かをさせないようにするには、したときに罰を与えれば良いというものです。シンプルで、直接的で、常識的であり、わざわざ確認もされていません。それで彼らはイスラエルのハイファにある保育園10カ所で実験をしました。最も緊張の高まる時間帯、すなわちお迎えの時間を調べたのです。一日中子供たちと過ごした先生は、所定の時間に親に子供の迎えに来てもらいたいでしょう。一方親の方は、仕事が忙しかったり、遅れたり、用事があったりで、子供の迎えが多少遅れても大目に見て欲しいはずです。
ニージーとルスティチーニが「この10の保育園でお迎えの遅刻はどれくらい起きているのだろう?」と考え、調べた結果がこのグラフで、週ごとの遅刻の回数を表しています。10の保育園で平均して、6回から10回の出迎えの遅刻がありました。それから保育園を2つのグループに分けました。白い方は対照群で、何も変更しません。一方黒で表わした方の保育園では、「今後契約を変更します。子供の出迎えが10分以上遅れたら10シケルの料金を請求します。言い訳は聞きません」ということにしたのです。そうしたところ、それらの保育園ですぐに変化が現れました。その後4週間に渡って、お迎えの遅刻は増え続け、罰金を設ける前の3倍にまで達し、それ以降、2倍と3倍の間を上下しました。何が起こったのかは一目瞭然です。罰金が保育園の文化を壊してしまったのです。罰金を設けたことで、先生に対する借りは10シケルの支払いでちゃらになるというメッセージを、親たちに伝えることになったのです。そのため親たちは罪悪感も社会的な気兼ねも感じる必要がなくなりました。親たちはこう思ったのです。「10シケル払えば遅れて構わないの? そりゃあいい!」(笑)
私達が20世紀以来引き継いできた人間の行動に対する説明によるなら、人間は「合理的で自己の利益を最大化する主体」です。この説明通りなら、保育園に契約がなければ何の制約もなしに行動したはずです。しかしこれは正しくありません。人は契約的な制約がなくとも、社会的な制約に基づいて行動するのです。そして重要なのは、社会的制約は契約的制約よりも親切な文化を作るということです。ニージーとルスティチーニはこの実験で罰金を12週間続けた後、言いました。「では終わりにしましょう。罰金はもう無しです」。そして実に興味深いことが起きました。何も変わらなかったのです。罰金が解除された後も、罰金によって壊された文化は壊れたままだったのです。経済的な動機づけと内的な動機づけは相容れないというだけでなく、その矛盾は長期間持続することになるのです。だからこのような状況を作るにあたって重要なのは、親たちが先生に支払うというような経済的取引に依存する部分はどこなのか、そして社会的取引や親切に頼るようデザインされるのはどこなのか、よく理解しておくということです。
LOLcatsとUshahidiに話を戻しましょう。私の考えでは重要なのは範囲の違いです。どちらにしても思考の余剰に依存しています。どちらも人は作るのが好きで共有したいと思うことを前提にデザインされています。これらの間の決定的な違いが何かというと、LOLcatsは共同的な価値であり、その価値は参加者間で作られるということです。ネット上の共同的な価値というのは至る所に見られます。大きな、集約ないしは共有され、公開されたデータはみんなそうです。Flickrの写真にしても、YouTubeのビデオにしても。これは良いものであり、私だってLOLcatsは皆さん以上に好きです。でもこれは概ね解決済みの問題でもあります。誰かが「ああ、可愛い猫の写真はいったいどこで見つけられるんだ?」と悩んでいる未来というのは、想像し難く感じます。
それに対してUshahidiは市民的な価値です。その価値は参加者によってもたらされますが、それを享受するのは社会全体です。Ushahidiの目標は、参加者の生活を改善するだけでなく、Ushahidiが運営されている社会のすべての人の生活を改善することです。そのような市民的価値は、単なる人の動機づけの発露の結果というわけではありません。私達が集合的にそういう努力をしたことの結果なのです。参加的価値に利用可能なリソースは年に1兆時間あります。それが毎年続きます。このようなプロジェクトに参加できる人の数は増えていくでしょう。そして親切の文化を核にしてデザインされた組織が、契約による余計なコストなしに、ものすごいことを成し遂げるのを目にするでしょう。これは20世紀に普通だった大規模な集団行動とは非常に異なったモデルです。この違いをもたらすものは、発明家であり起業家であるディーン・ケーメンの言葉ですが、「自由な文化はその称えるものを手に入れる」ということです。私達の前には選択があります。年に1兆時間という時間があります。私達はそれを無為に消費することもあるでしょう。何もしなければそうなります。しかし私達はまた、思考の余剰で市民的な価値を生み出そうとする人々を称え、報いることもできるのです。そして私達がそのようにする度合いに応じて、社会を変えていくことになるのです。
どうもありがとうございました。
[これはTED公式日本語訳です。翻訳をレビューしていただいたYuki Okada氏に感謝します。]
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オリジナル: Clay Shirky: How cognitive surplus will change the world |