「生産性の向上は現代文明にとって、もはやどうでもよい」ということは何度言っても言い足りない。
僕自身が、会議の生産性向上のためにeXtreme Meetingなどというものを提唱したり、PICSYで生産性が向上します、などという話をするが、本心がそこにあるわけじゃない。
生産性の向上へのあくなき追求は、資本主義社会の病理のようなもので、しらふで「生産性が向上します」などと喜々として説明している人は、いわば病人である。そう人には「ああ、自分は病人なんだなあ」とせめて自覚してほしい。
200年前であれば、生産性の向上はダイレクトに人々の幸福に結びついていたかもしれない。
現代において、生産性の向上は、人間社会の問題をつくる原因でさえありうる。
生産性の向上は、何かを変えるきっかけにはなりうる。
きっかけはあくまできっかけであり、どう利用するかがポイントだ。
同様に、最適化という言葉を使うひとにもげんなりする。
ぼくも時々使うのだけど、心ある人はげんなりしてるんだろうな。
違うと思う。
「最適化」「生産性の向上」という言葉を使う安易さにいらいらするのであって、「最適化」「生産性の向上」自体には意味はいまだに充分あり、慎重にだが、使うべき言葉だと思うよ。とくに「生産性の向上」は大事。どうでもいいということで言えば、「生産性の向上は現代の『太った』文明にとってはどうでもいい」だろうが、やせさらばえた人々にとっては未だに死活問題なのだと思う。
つけたし。
「生産性の向上」は「資本主義社会の病理」ではなく、(総人口)/(労働者数)の問題では?
「最適化」「生産性の向上」というのは、基本的に部分最適しか目指していない言葉です。聞き手の視野を狭くすることによって、なんか良いことがおきていると錯覚させるレトリックです。
ある集団だけ見ると生産性が向上していても、全体ではひずみが生まれていたり、人間の身体のすばらしい動きを阻害したりします。
ぼくがあえて「現代文明」という言葉をつかっているのは、現代文明の外の人たちへの心配りですが、それがまつばづえさんには読み取れないようですね。「生産性の向上」は人口問題とは無関係です。B2Bって生産性の向上しかないからつまらないんだよね。
Posted by: Ken Suzuki at 2006年02月17日 12:34健さんおひさしぶりです。
ひとつ質問させてください。
会社組織内の生産性向上を標榜するのは病的なのでしょうか。
具体的には、手作業で行っていた作業を自動化するとか、ノウハウを蓄積するとか。
どうもおひさしぶりです>さとうさん
>会社組織内の生産性向上を標榜するのは病的なのでしょうか。
>具体的には、手作業で行っていた作業を自動化するとか、ノウハウを蓄積するとか。
大病ですね。
もっと身体にとっていい運動を考えるとかそういう視点が必要かと思います。「生産性落ちるけど、まあいっか」みたいな。
う~む、やっぱり大病ですか。
ゆっくり休まないといけませんね。
っていうかメサメサ休みたいっす、、、。
しかし、私個人というコンテキストで語ると、確かにそうですが、会社の経営者の方々を説得するのはむずかしそう、、、(涙)
会社経営者の多くは病んでいる!?
>会社の経営者の方々を説得するのはむずかしそう、、、(涙)
>会社経営者の多くは病んでいる!?
そうだと思うよ。
会社経営者という存在は、かなり、社会の被害者だと思う。
はじめまして。
いつも興味深く拝見させて頂いております。
今回のブログ内容ですが、私自身、生産性の向上を目指している人間なので、いつも以上に興味をそそられました。
勢いあまって投稿してしまいます。笑
「生産性の向上」と「最適化」が大病とされる根拠はなんでしょうか?
それと、本心がそこにないとすると、代わりはどの点になるとお考えなのでしょうか?
せっかく出会えたBlogですし、もし今の考え方が病的だとするならば、それを自覚したいとも思いますので、ご意見伺えれば嬉しいです。
Posted by: Kimura at 2006年02月17日 23:18>Kimura さん
生産性の向上を目指して、どんないいことがありました?
横槍すいません。
>生産性の向上を目指して、どんないいことがありました?
メーカーに勤務してる人だったら、お金が儲かるってことですかね。
物が安く買えるのもよいことですし、
車のエネルギー変換効率が良くなって、
石油を節約できることもいいことですね。
もっと自動車は最適化して欲しいです。
身近なことだと、楽できるというのはどうでしょう?
こうやって、コメントできるのも
生産性向上の結果です。
生産性向上が進めば、
将来的には働かなくていい世界が来るかもしれません。
そしたらフットサル三昧ですか?
貧困の問題も解決するかもしれませんね。
最近生産性が向上したことと言えば、googleですかね。
便利で助かってます。
生産性向上はそもそも難しくて、
目指してもそう簡単にできるものではないでしょう。
生産性向上の結果もたらされる問題は、
雇用の問題ですか?
他に何個くらいありそうですか?
>「最適化」「生産性の向上」というのは、基本的に部分最適しか目指していない言葉です。
これは普遍的な真理でしょうか?
>ある集団だけ見ると生産性が向上していても、
>全体ではひずみが生まれていたり、
>人間の身体のすばらしい動きを阻害したりします。
これは特定の事例にしか当てはまらない気がします。
あるいは、長所はあるけど、短所もあるという、
いちゃもんってやつではないでしょうか?
逆に全体最適化する方法なんて存在しないと思うので、
全体を最適化するためには、部分最適化を繰り返すのが
人間の最前手ではないでしょうか?
それとも全体最適化はするべきではない、ということですか?
短所だけ見て、病気と否定するのは、全体を見てない気がします。
Posted by: taka at 2006年02月19日 02:13記事からは「本心」を読み取ることができなかったので、
よろしかったらお聞かせいただけると助かります。
ここ200年の歴史が明らかにしたことがいくつかあります。
1.生産性が向上しても、エネルギー消費の総量は減らない
2.生産性が向上しても、労働時間は減らない
1については、石油を掘り出す生産性が向上しているため、いままでコスト的に割りがあわなかった鉱区が次々と掘り出されることによって、エネルギー消費を増やすことが可能になっています。昔、石油はあと20年で尽きると言われていたのに、次々と延長している理由はここにあるといわれています。石油という財のエネルギー効率が上がると、他の代替エネルギー源に対する石油の優位性が高まるので、石油の需要は高くなるでしょう。
2については、マルクスが議論したところではありますが、何も手当てがなければ、労働者が生存・生殖可能なぎりぎりまで労働時間が増え、労働単価が下がるわけです。日本社会では、労働基準法という法律によって最低賃金と標準労働時間が設定されているために回避されています(抜け方もありますが)。日本で週休二日制は国が音頭をとって実現されました。生産性の向上によって自然に実現されたわけではありません。驚くべきことに、休日が増えたことによって国際競争力が極端に落ちることはありませんでしたが。
予言しましょう。生産性が100倍になっても、労働時間は変わりません。生産性が100倍になっても、エネルギー消費量は減りません。
いずれも、経済学的に議論ができます。
すでに世界中の人が食べられる量の食料が生産されていますが、先進国では食べ物が捨てられており、途上国では食べ物が不足しています。生産性の向上によって解決できる貧困の問題と、生産性の向上によって解決できない貧困の問題があるのです。
生産性が向上すれば貧困が解決するんだったら、経済学は楽でいいですよね>まつばづえさん
Posted by: Ken Suzuki at 2006年02月19日 13:44>メーカーに勤務してる人だったら、お金が儲かるってことですかね。
お金を儲からねばならない理由はどこにあるのでしょうか。従業員への給料を払いきった後に20%の売上げ比率で利益が残ったとします。この数字を営業利益率といいます。
ちょっと話をとばしますが、株主資本利益率というパラメータがあります。詳しくはここ↓
http://www.tse.or.jp/glossary/gloss_k/roe.html
外部に株主がいる経営者は、このようなパラメータを最適化するプレッシャーを受けるわけです。それで効率化しようとするわけですが、とんとんで良いのと違って、際限なく効率化を目指すことができます。
じゃあ株主は誰かというと、100年前の資本家像と違って、普通のサラリーマンの年金基金だったりするんですよね。なんか、自分の首をめぐりめぐって自分でしめているような感じですね。
人間がもっとてきとうに楽しく生きられる社会はどうやったら実現するんだろうか。もっとも、日本が特殊なのかな。
Posted by: Ken Suzuki at 2006年02月19日 14:10生産性とテクノロジーがごちゃ混ぜになってませんか?
テクノロジーが極限まで発展した時、
貧困や労働という単語が意味を持たなくなります。
つまり、テクノロジーの発展は貧困や労働の問題を解決します。
寿命が延びたのもテクノロジーのおかげでしょう。
テクノロジーは社会の豊かさ(生産能力)の根本的なファクターです。
一方、人類が物を生産する場合、
テクノロジーを使って共同作業するわけですが、
この分担方法が重要になります。
おそらく、鈴木さんが言ってる生産性とは役割分担のことでは?
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資本主義は競争です。
競争で勝たないと、生きていけません。
だから、お金を稼ぐのです。その手段が生産です。
ハットトリックを決めたプレイヤーや、
スルーパスを量産するプレイヤーに
「おまえは病気、点をとるな」などと文句を言うのは、
筋違いではないでしょうか?
あるいは、その戦術ずるいよね、って言ってように感じますが。
文句を言う相手は、社会制度そのものですよね。
経済学なんていう部分問題ではなく、
もっと広い視野を持って解決に臨むのがいいと思います。
生産性が100倍になったら、
世の中のいろんなものが変わってしまいますからね。
宇宙にスペースコロニーを作って住む時代に、
不動産屋がどうなるかわかりますか?
地球は居住禁止区域ですよ、きっと:-p
ということで、私の意見をまとめますと
1. テクノロジーの発展を放棄する理由はなんもない。むしろ発展が必要。
2. 資本主義競争下で他のプレイヤーにケチをつけるのはイエローカード。
3. 資本主義はそろそろ見直すべきと思ってる人はいっぱいいる。
4. みんなが幸せになれるようなアイディアを生産する効率をあげよう。
5. あるいはみんなで狩猟生活でもしますか?
生産性とは、財から財を生み出す変換効率です。A財(投入)からB財(産出)が生まれるときに、B財の量(産出量)/A財の量(投入量)が生産性になります(定義によってはこの逆数になります)。財は労働である場合もあるし、材料であったり、貨幣であったりすることもあります。
詳しくはこちら↓をごらんください
http://www.e-js.jp/productivity01/main.html
記号消費社会で生産性というのはよくわからないところもありますよね。
テクノロジーと生産性は別概念です。生産性をまったく上げないテクノロジーはたくさんありますね。逆に生産性を上げるのにはテクノロジーが必要ない場合もあります。労働意欲の向上は生産性をあげますが、テクノロジーではありませんね。
Posted by: Ken Suzuki at 2006年02月19日 19:31その定義だと、生産性が価格になってしまって、
真の生産性みたいなものが隠れてしまうのが残念ですね。
この定義だと、
全体の生産性があがった場合、
少ない生産量で物が手に入ることを意味すると思います。
やはり、ここは物理に立ち返って、
エネルギーを使うのがいいのかと思います。
労働時間と勤務時間も違うわけです。
生産性の話をするときは、
テクノロジーによる生産性なのか、
分担(意欲とか)による生産性なのか
は区別した方が良さそうですね。
話の流れ上もう関係ありませんが、
>生産性をまったく上げないテクノロジーはたくさんありますね。
どんなのがありますか?
一個も思いつきません。
結局言いたいことは、
「分担法を改善しても、それは局所的にしか改善してないことが多いため、
高い確率で自分たちだけがおいしい思いをする分担法になってるので、ダメ」
という理解であってますか?
で、恒例のまとめですが
1. テクノロジーは発展させよう(ここはきっと否定に入ってない)
2. 局所的に儲かる役割分担は全体から見るとダメなケースが多い(これを病気と呼んでいる)
3. 資本主義は改めるべし(どうやって?)
こんな感じですか?
Posted by: Taka at 2006年02月19日 23:50問題が難しいのは、全体最適なんてうそっぱちで、どんな「全体最適」も部分最適に他ならないからです。
Posted by: Ken Suzuki at 2006年02月20日 00:44僕はKenさんと同様、「現代文明にとって生産性の向上はもはやどうでもいい」と誰もが自覚しつつ、しかしそれでもあえて生産性の向上に意義があるかのように装っているに過ぎないのだと、それが大人なのだと信じていたので、今回の論争を見ていてショックを受けました。
健全な人から見れば、おそらく現代の社会はものすごく不健康だと思います。30億人が一日2ドル以下で生活していて、自然は破壊され続け、生産性がいくら向上しても昔と同じくらいの労働を強いられているわけです。
つまり、現代の社会はものすごく血流の悪い不健康な身体であって、その状態でいくら身体の一部の生産性をあげていったところで、それは身体全体にとっては害でしかないのです。
骨盤がゆがんでいる人は、走れば走るほど身体を痛めるのです。
走るのをやめて、一度しっかり姿勢を治してやるしかないのです。
だからと言って、現在のシステムに変わるシステムを考えるのは容易でないのはもちろんですし、社会全体を引き受けて生きるのはしんどいはずです。
それがしんどいということを自覚して、身体全体の健康を犠牲にしながらも、自分は一番血流がいいところで、腐っていく身体のことは忘れて生きてくしかない。
そういうあきらめに近い感情を「生産性の向上!」ということばから僕は感じるのです。
もしそうではなしに、本気で生産性の向上が身体全体の健康をもたらすと信じている人たちが多いのだとするならば、それはまだ社会にも出ていない学生が偉そうなことはいえませんが、かなりショッキングです。
いまの文脈で語られている「生産性」というのは明らかに、部分最適にすぎないと思うのです。
そして、腕だけ鍛えていればいつの日か身体全体も鍛えられる。はずはないのです。
久々に楽しい議論だった。
ぼくも「生産性の向上」とか「最適化」という言葉を不用意に使う人に出会うと正直ゲンナリするけど、ルールを決めてサンドボックスでサッカーごっこをやったり、それを観戦してやいのやいの言って一日を過ごすのも気楽でいいじゃん、とも思う。
朝一番、頭が冴えてるときには「生産性の向上ごっこ」「最適化ごっこ」に見えるけど、夕方にチケット握りしめて混雑かき分けて応援に行ったゲームでは、そこにいるプレイヤーが真剣に汗をかいている姿はかっこよかったりするんだよね。(あ、こないだの日米代表戦@サンフランシスコ、観に行ったよ)
それで、「どんな「全体最適」も部分最適に他ならない」んだけど、それは「究極(普遍)の全体」というか「一つなるもの」を希求する姿勢・価値とコインの裏表で、「実は人生に意味なんてない」「人類がいなくなっても地球は困らない」っていうニヒリズムに対する答えではない(そしてそこまで無限後退して接続されてしまう)と思うんだよね。
まぁようするにスズケンは物理屋なのだという結論で終わり。(笑)
スポーツはスポーツだということを理解してスポーツしましょう、ということです。
Posted by: Ken Suzuki at 2006年02月23日 12:39>本気で生産性の向上が身体全体の健康をもたらすと信じている人たちが多>いのだとするならば
もはや生産性の定義は失われましたが
(局所的にしか使えない定義は出ましたが)、
昔と今の平均寿命を比較してみてはいかがでしょう?
知的財産権と発展途上国の薬剤の問題なんかも関連しそうですが。
>どんな「全体最適」も部分最適に他ならないからです。
コスト関数が定義できないことによる多義性を指しているのか、
「全体最適化と呼んでるもの」の集合=「全体最適化」なのか・・・
kennさんは後者だと思っているようですが、
経済ではパレート最適という最適性の決め方がありますよね?
一意に定まらないことを問題視しているとすれば、
それはまた全然違う問題のような気がします。
特定の部分最適化がパレート最適解を導くのは
経済の人ならわかりますよね?
歴史は繰り返すってやつでしょうか?
ラッダイト運動でもするんでしょうか?
>まぁようするにスズケンは物理屋なのだという結論で終わり。(笑)
これは本人が照れちゃうと思いますよ(笑)
最後に不平不満ですが
曖昧にしてごまかすのではなく、
はっきり書いた方が生産性は高いと思います。
言い訳のテンプレートは2chにあると思います。
あと、生産性の定義は、
外的要因によらず一意に定まる方が、生産性が高いと思います。
パラメータ化されていると比較ができません。
あと、そのせいで間違った比較をしてる人もいるようですね。
閉じた系にまとめることはなかなか難しいとは思いますけど。
目的関数もしっかり記述した方がいいですね。
議論はなぁなぁ論理でやっても生産性が低いです。
単なる主観と、その多数決を駆使することがweb2.0かもしれませんが。
老朽化した脳によるガリレオ冤罪事件が繰り返されます。
マイノリティには優しく接してやってください。
ブログで科学するなよ、と言われたらぐうの音も出ませんが。
生産性の高い議論禁止なんて言われたら、泣くしかありません。
ルールはみんなで決めたいですね。
ルールに従ってサッカーするのは初心者だけなんで。
途中からついていけなくなりましたが、今読んでキャッチアップしました。ぼく的に言うと、またミスリードかもしれませんが、部分最適化であることなんぞ、みんなしっているんじゃないかということです。議論がナイーブ過ぎるというか。たぶん、世の中のほとんどはそういう割りきりですよ。割り切りを割り切りであることを忘れると問題なんですが、割り切りを割り切りとわかってやってるぶんにはさして問題は無いのではないかと。だいたい経済学っちゅうか、あんなもの中途半端な割り切り学問でしかないから。ちうことで、部分最適と割り切って、やってる分にはええんでないのということでした。全体最適の追求は追及としてベツンところでやってもらうとして、というかんじで。どうかな。
Posted by: まつばずえ at 2006年02月24日 07:01おもろい議論でしたね。
感想
わたしは、燃料にせよ労働にせよ、効率化・最適化を進めることが、人類種絶滅に近づく気がしてなりません。しかし鈴木さんがサッカーに喩えるように、人生はしょせんはゲームで、なにかのルールを信じたほうが、精神的に健康には生きられますね。「マトリックス」でも、プラグにつながっているほうが幸せなんだなぁ。
「ピラミッド公共事業」説もこれに類するもんだ。
でも、IT化が進むことで、人間たちが蟻のように協調して幸せに生きられる世界がくるかも、とも思うな。
「フューチャー・オブ・ワーク」を読んで大いに期待したところです。