テキストサイト『九十九式』の歴史
九十九式とはどういうサイトであったか。これを知るためには過去ログを読めばよく、6年間も書けばそれ以外に何か付け足すこともありません。しかしこれだけ続けていれば欄外や行間でそれなりに思うところもあり、個人的にも色々と変化や収穫もあったように思います。そこでこの最終エントリではこれまでの当サイトの軌跡を振り返りつつ、2006年を締めくくってみます。
2000年
それまでやっていた「ヴィジュアル系バンドのカリスマが自動車教習所に通う」という内容のネタドキュメンタリ日記(20hit/day)と、鳴かず飛ばずの文芸かぶれサイト(6hot)、批評サイトを閉鎖。「自分ポータル」的なメインサイトを作って全力を集中しようと思い立つ(この辺りの経緯はテキスタイルポップ//インタビューでも語られた)。ちなみに「ヴィジュアル系~」には、なぜか掲示板に狂いキノコの人と赤線の人が冷やかしに来てくれ、ちょっと嬉しかった。あくまでネタ的に「こういうコテコテの人っているよね?」風にやったつもりが、リアルに作りこみすぎてマジ日記だと思われたのも敗因だった気がする。
11月29日、hoops(現在Infoseekに吸収)という無料サーバーで九十九式開始。記念すべき第一回目の日記は、
「全てのネットワークフレンドへ これからよろしく」というような単純な挨拶のみ。まだどんなことを書くかは考えていなかった。
12月、“大忘年会”と称して、日記サイト(テキストサイト)の人が集まる大規模オフ会が開催された。主催は当時の中心的サイトだったマフィアとコロスニッキ。ここに九十九式も参加し、まだ1ヶ月しか経っていない無名サイトだったが、昔の名前(カリスマの人)で受け入れられる。ちなみにこのとき、のちに「周辺」と呼ばれることになる面々と出会った。桃加護のハライチ君によって、初めて『ミニモニ』なる音楽ユニットの存在を知ったのもこのときである。彼らとは、休日にビデオを持ち寄って鑑賞したり、夜な夜なサイト論を戦わせたりした。大学サークルやバンド仲間のような空気で実に楽しかった。同時期にサイトを始めた同士としての連帯感があったように僕は思っている。
・2000年の主なテキスト
少年犯罪の元凶
2001年
始めた当初から、「続く限り毎日更新してみよう」と思っていた。それは、まだ何の個性もないこのサイトに、わずかばかりの特徴を持たせたいという思いと、特に面白くなくても、毎日更新されていれば惰性で読者になってもらえるかもしれない、という期待を持っていたのもあったが、「ムーノーローカルの作り方」の影響も大きかったと思う。
・勝手に更新を休まない。必ず毎日更新する。病気になっても仕事や勉学が忙しくても、絶対に更新し続ける。
・機械の故障などでも、友人などがインターネット接続環境を持っているなら、使わせてもらって更新するなどの努力を怠ってはならない。
・最低でも1年間は連続更新するつもりではじめる。どんなにヒットが伸びなくても、どんなに人生が辛くても続ける。できないのであれば、はじめからムーノーローカルを運営してはならない。軽はずみで始めることは悪くなく、むしろ好ましいが、軽はずみに辞めてしまうことはあってはならない。
大学のテスト
松本人志の代打日記
サイト批判に敏感になる人々
風刺日記
はじめてのはっぴーばーすでー
ささのはさらさら
隠しサイトのすすめ
宇宙時代のテキスト系
アクセス至上主義とは何だったのか
すべての祭(フエト)のために
このあたりで既に、「WEB言及」「凝りネタ」「時事」「創作(妄想)」という柱が形成されていることが見て取れる。ハロプロ(辻ちゃん)は、当時は創作の題材として使われているのみで、番組、曲、メンバーなどへの言及はない。WEB言及は、トラックバックもソーシャルブックマークもなかった時代の牧歌的な内容なので、今読んでもあまり意味は無いけど、当時をしのぶ資料として。“『G§フォース』事件”があり、その余波で「テキストサイト論」を書くことに張り切っていた時期でもある。
また、当時から「ブラウザからの更新(CGI)でWEBの話題や時事を扱う」スタイルで、今にして思うと今の九十九式よりもブログっぽかったと思う。
地中海に行った。不在の間は、ネットカフェで更新したり、複数の友人に頼んで大規模な代打日記を書いてもらったりした。
2002年
現実世界ではバーテンダーをやっていた。酒のことや店のことなど、現実と直結した職業経験日記を書きたいと常々思っていたが、「店がバレたらどうしよう」「店にバレたらどうしよう」という思いが強く、また読者に生粋のバーテンダーがいることなどを意識しすぎて自縄自縛に陥り、ほとんど書けなかったのは今でも残念。次の二点くらいか。
・日記文体とFKの精度
・ジェダイ・バーテンダー
(ちなみにこの年は日韓W杯があり、開催期間は毎日怒り心頭日記を書いている。南北朝鮮に対する不信感が決定的となった年。)
そのせいで書くことがなくなり、「vsくまプー(森下)編」など、形而上的なテキストサイト論(WEB言及)を振りかざす傾向が強くなっており、やや一般性を欠いていた時期と言える。
一時期、ネットラジオがサイト管理人の間で流行る。僕もうらやましくなって挑戦してみたが、この時期は仕事後の時間はほぼ泥酔しているアル中期だったので、毎回何を喋ったのか覚えていない体たらくで、相当非道い放送内容だった。いずれ喋りを練習し、完璧な台本を用意してリベンジしようと密かにタイミングを伺っていた。ちなみに練習はたまにねとらじでゲリラ放送という形で敢行している。
・2002年の主なテキスト
ミニチョコレートパイ
テキストサイト論とは
テキストサイト依存度チェック
またこの年、テキストサイト大全という本が出版される。編著はかまくらの雪男氏とコスモクルーズのくぼうち氏。「新時代の町人文化!」「今や10万ヒットも夢ではない!」というう煽り文句が趣き深い。
そちらに寄稿したのが以下の文。前述したような精神状態が如実に反映されたサンプル。
九十九式 -log-: 2002年4月某日 ぼくとわたしのリンク論
九十九式 -log-: 2002年4月某日 たのしいリンク論
この年の開設記念日に、更新休暇宣言をして更新を1日休んでいる。
2003年
更新をBloggerに完全以降した年。バーテンダーを辞め、編集の仕事を始める。20代前半の頃と違って、毎日 日記のネタだけ考えて生きているわけにも行かないことに気付き、遅まきながら人生について考え始めた。
この年のヒットテキスト「個人差糸4年寿命説」はそんな気分が反映されているかもしれない。
また、この年には辻加護のモーニング娘卒業と機を一にして、看板創作シリーズであった「妹日記」が最終回を迎える。3年越しの長期連載に終止符が打たれた。
4月から、突然「体を鍛えて本物の忍者になろう」と思い立ち、各種武術道場やスタントスクールに通いだした。バク転や古流武術などを次々とマスターし、スクリーンデビューのタイミングを計る。
個人サイト4年寿命説
せんこう花火
日本式クリスマス全肯定論
ハロプロ楽曲大賞2003・原稿
フランスに行った。この年は大熱波で死にそうになった。
2004年
この年、日本にも本格的にSNSの波が上陸。mixiがサービスをスタートさせる。今までサイトで書いていた人がこぞってmixiに流れたり、手動更新サイトを閉鎖してブログサービスに移行したりするのを寂しく感じた。ブログへの移行はともかく、mixiは登録者じゃないと見られない。素晴らしい日記たちがWEBに開かれていないのは、日記界の損失である。この思いは今も変わらない。
スペインに行った。「スペイン滞在記」を書こうと思い、色々とメモや素材を集めてきたが、今に至るも未着手のままである。
そのほか、「W(ダブルユー)が松浦亜弥のカバーアルバムを出す」という嘘ニュースを作成したら、2ちゃんにスレが立ちまくり、純粋ファンサイト釣られまくり、の大惨事を引き起こした。
『Yeah! めっちゃダブルユー!』
そのほか嘘ニュースネタでは「犬モニに矢口激怒!」など。ちなみにこの年、こうしたアクセス集中ネタや動画ファイルネタが多く、ニンジャサーバーをデリートされ、サイトの連続性は一時的に寸断されている。同アカウントの再申請は何度か謝罪メールとともに出したが、もちろん全て黙殺された。
広告
10月に多摩川で野外音楽イベント“RAVE窮”が開催される。ここでバーカウンターとDJを担当し、エアギターを使ったパフォーマンスに目覚める。これを見ていたNumeriのpato氏から、自身のファン感謝イベントへの出演オファーをもらい、HR/HM&HP(ハードロック、ヘヴィメタル&ハロプロ)のエアギターステージを行なう。さらにそれを見ていたロフトプラスワンの偉い人から「エアギター大会に出てみないか?」と誘われ、エアギタリストとしての道を歩み始めることになるのだった。
前年くらいから、毎年末にその年のベストテキストを振り返っている。
2004年九十九式ベストアルバム
10月から毎日更新を開始している。
2005年
2004年から続く毎日更新も継続し、サイトも生活も、全てにおいてやたらとアクティブだった年。
エアギター大会(1) ~@新宿ロフト~を皮切りとしてエアギターも本格的に活動を開始した。
また、2002年から続けていたスタント修行の集大成として、遊園地のヒーローショーを体験したりもした。(マジでグリーンの人になった)
上記作品を始めとして、精神、肉体ともに活動的になったせいか日記の冴えもあり、書かれた記事にもいい出来のものが多い。
第3回九十九式テキスト大賞2005 結果発表
私生活ではニート・フリーターを脱し、正社員雇用を勝ち取った。海外出張、チームリーダーなど、初めての経験と環境の激変が多く目まぐるしい、節目の年だった。小学生の頃から飼っていた犬が死んだり恋人ができたりと、出会いと別れも多かった。
2006年
段々と「忙しくて更新できない」という人の気持ちが本当に分かるようになってきた。確かに、時間がなくても、脳のリソースがなくても、なければないなりに記事を書くことはできる。しかし、それは今まで全脳リソースと労力を投入して書いてきた文章とは明らかに違うものなのだ。しかもそこに、思うように書くことを難しくする、不可避の現実的障害が重なった。僕は絶望した。これ以降は当たり障りのない場当たり的更新しかできないだろう。
「それでもいい」と言ってくれる読者もいるだろう。しかしそれでは満足しない人もいるだろうし、何より自分がそれを許せない。また、ある種の窮屈さのようなものも感じるようになった。それでも続けていたのは何故か。
そしてもう一つ。九十九式は我が人生…。そんな風に思っていた時期が僕にもあったので、続けることに疑問を感じたことはなかった。しかし、その継続動機に「もったいないから」というものがあることに気付いてしまったのだ。
ブルーハーツ解散時のヒロトのインタビューに、こんな言葉がある。
「『あ、こんなにいいバンドなのにもったいないね』と自分の中で思ったり人から言われる時に『やっぱ解散すんのやめようかな』って思うかもしれないけれども。それって全部、後ろ向きな理由でしょう。」
「自分の人生とか自分の行動パターンを決定する時の理由が〝もったいない〟なんていうのはもう許せない!(笑)。そんなの全然ロックンロールじゃねえもん」
(ザ・ハイロウズ、活動休止を発表。 Narinari.com)
僕はロックスターではないが、ニッキスターになりたくてサイトを始めた。(ニッキスターになりたいだって?お前はもうニッキスターだぜ。テキストを一本書いただけでもうお前は立派なニッキスターなんだよ。)
そしてまさに、ヒロトが言うように僕にも書くこと、やりたいことは沢山あるのだ。しかしそれは今の九十九式には書けない。
九十九式が事故に巻き込まれて真っ白になっていた空白期間に、「夏の自由研究」と称して、別の場所でブログをやってみた。これは徳保さんの言う「リハビリ」にヒントを受けてはじめたことだけど、この体験はちょうど徳保さんとは正反対の結果を僕にもたらした。
徳保さんの言う「リハビリ」とは、自分のメインサイトの肥大化してしまったアクセスで自己を見失わないように、小規模アクセスのサイトをしばらく運営して、身の程を知ったり、アクセス数のありがたみを痛感したりする、というものだった。(人気ブログ病のリハビリ:気楽に更新できる精神環境作り)
しかし僕は、始めたら始めたで、そのブログに本気で取り組み、夏休み期間だけで1000hit/dayくらいにまで育てた。これは、逆に僕に自信を植え付ける結果となった。まぐれではなく、僕はいつでも自分の努力に応じた結果を、希望通りのサイト(数値だけでなく)を手に入れることができるということに気付いたのだ。
僕は生き続ける限り、ニッキを書き続けるだろう。そうしているうちに、また皆さんの目に触れる機会もあると思う。10年後、いや20年後、九十九式というサイトに再び火をともす日だってあるかもしれない。
WEBサイトの成功とは何か。明確な答えはまだ出ない。しかし、九十九式というサイトは、僕にとって紛れもない成功だったと言える。
皆さん、6年間どうもありがとうございます。そして九十九式、どうもありがとう。
・2006年の主なエントリ
仮面ライダー響鬼 最終話
僕が更新しない理由
自分の過去ログは、神から与えられた福音だ
「それ、知ってます」は禁句
2007年1月2日 at 19:36
6年間お疲れ様でした。テキストサイト全盛期に一方的にリンクを貼らせて頂いていた頃がとても懐かしいです。
お疲れさまでした。そしてありがとう。
2007年1月3日 at 23:56
九十九式を知って4年間読ませてもらってました。4年て、よく考えたら凄い時間です。もはや他人という気がしません。文章が上手くて本当に羨ましく思ってました。これからもニッキ頑張って下さい。ありがとうございました。
2007年1月4日 at 00:18
改めて、bye bye…
お元気で!
2007年1月4日 at 06:17
arigatou!
2007年1月4日 at 14:45
今までずっと読んでいました。
とても楽しかったです。
ありがとうございます。
2007年1月5日 at 21:43
九十九式も終わりかあ・・・寂しい。そしてテキストサイトとモーニング娘。がすべてだったあの頃が懐かしい。お疲れ様でした。
2007年1月7日 at 15:41
6年間の軌跡。「それ、知ってますは禁句」から読ませていただいていました。