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2006年9月

■ 06/09/29

 「うんこを我慢して尻に手を当てる」という仕草があるが、その行為に意味があるのかどうかがわからない。

 出口を手でふさぐように見えるわけだが、それがズボンの上からであることからしても、実質的な防護の意味があるとは思えない。そんな生やさしいことで、あふれそうな便意がどうにかなるはずはない。

 だとしたらあのポーズは何なのだろうか。やはりそこに意味はないのか。

 私もそのポーズを実際にやってみたことがあるが、不思議なことになんとなく便意が穏やかになる気がした。持続的な効果は望めないとしても、うんこを我慢する自分への応援歌のようなものと考えられるかもしれない。

 対外的にも「自分はうんこを我慢しています」というわかりやすいメッセージになると思う。そうとわかれば手を差し伸べる人も現れるかもしれない。

 これからもうんこを我慢するときは尻に手を当てていくことで、その意味について考えていきたいと思う。

■ 06/09/28

 うんこを我慢し過ぎると、一体どうなるのか考えてみた。

●「涙が止まらなくなる」
 我慢しすぎて急に涙もろくなるという説。あり得そうではあるが、我慢しきれなくなって、起きてはいけないことが起きてしまったあとのステージの話だとも思う。

●「何かが突き抜ける」
 感覚としてはわからなくはないが、あまりにも抽象的な説だと思う。

●「意外と人にやさしくなれる」
 「何かが突き抜ける」を具体化した説とも言える。いつも穏やかな微笑みをたたえた人というのがいる。そういう人を見るたびに、その人がそうなる過程には、そういうことがあったのかもしれないと思う。

 仕事帰りの電車の中で、今日はずっとそんなことを考えていました。

■ 06/09/27

 マタニティ感のある人、という人がいる。

 常に妊婦っぽい雰囲気を周りに漂わせているという人だ。ただ単に太っているというのとも違う、ファッションや本人のたたずまいを含めて、トータルで湧き出てくる感じのものだと思う。

 以前の職場にもそういう人が一人いた。なぜだか漂うほんわかムード。

 驚いたのは、本当にどんなときでもマタニティ感を失うことなかったことだ。上司に叱られているような緊張感のある場面でも、決してなくなることのないマタニティ感。

 もちろん服装にも左右されない。Tシャツにジーンズでもあくまでマタニティ。

 今でも思い出すと、あのマタニティ感はなんなんだと思う。私もあの独特の味わいを出せるものなら出してみたい。

■ 06/09/26

 目をつぶった状態のまま、指で無理やり目を開くと白目が出てくる。

 小学生のときに流行った技だ。そう書いて、別に「技」ということのほどでもないかと思い直すのだが、とにかくクラスで一時期かなり流行ったことであるのは間違いないし、僕らは当時「技」と呼んでいたのだ。

 この技の特徴は、自分自身で白目の状態が確かめられないということだ。浣腸やにぎりっ屁といった他の技とはその点において異なる。

 そのため僕らは「確認しあう」ということをした。目を指で開いて「ねえ、俺、白目になってる?」と問い、「なってるなってる、白目!」と答える。

 協力しあいながらも、競いたくなりがちだったあの頃。流行末期には、信じられないくらいでかい白目を繰り出す者も登場。

 そのでかさに危機感を感じたのか、担任の先生がある日「もう白目は禁止です」と発令。それでも僕らは自分たちの馬鹿げた行動に気づけなくて、「なんで白目だめなの?」と、放課後に白目。

 妻は今でも退屈すると、この技をときどき繰り出してくる。さっき久々に妻の白目を見て子供の頃を思い出し、今日のコラムを書きました。

■ 06/09/25

 私が放ったおならを聞いた妻が「生きてるみたいなおならだね」と言い出した。

 これまでも私のおならの音について数々の表現をしてきた妻だが、いよいよ抽象的になってきた。おなら自身が命をもっているかのような、いきいきとしたおならということだろうか。

 そのあたりについて聞いてみると、「そんな風に深く考えて言ってるわけじゃないわ」との返事。「考えるんじゃなくて、感じてるのよ」とも言う。

 確かにそうかもしれない。命が宿ってるとかどうとかいうより、音全体の高低やリズムに躍動感があったおならだったと思う。強いて文字で書くとすれば「プゥ~ププーウ」という感じだっただろうか。

 おならは人を詩人にさせる。芸術の秋です。

■ 06/09/24

 実家に帰ったら、母が「これ、新しいアクセ買ったのよ」と言い出した。

 還暦から数年経った母が言う「アクセ」。えーと、それってアクセサリーの略語だよね。意味はわかるからいいのだが、母の語彙としては個人的にはかなり衝撃的なものだった。

 「ああ、アクセね…」というリアクションが精一杯。何も言えてない。

 会話を続けてワンピースのことを何と言ってるか確認してみたのだが、今のところ「ワンピ」ではなくワンピースと普通に言っているようで安心。

 あとはキャミか。キャミソールの略語ですよね。自分で書いても照れる。

 母が口にする「キャミ」。それはないだろう、それはやっぱりなしにしておいてくれ。想像しただけでなぜだか怖くて確認できない。

■ 06/09/23

 今日の無駄な努力です。

 060923

 「缶切不要」と書いてあるのに、缶切りを使って缶詰を開けてしまった。反対側はプルトップというのか、手で引っ張れば開くようになっているタイプの缶だったのだ。

 開けたあとに「缶切不要」の文字を見つけて虚しい気持ちになる。

 メーカー側の配慮としては、缶切りがなくとも開けられる便利な缶ですよ、ということなのだと思う。そんな工夫も私の間抜けさの前では無力だ。申し訳ない。

 自分自身も虚しい。僕が缶を切った努力はなんだったのか。

 「今、ちょっと手首鍛えててさ」

 誰に言うでもないそんな言い訳を考えないではやっていられない。

■ 06/09/22

 電車の中で見たショッピングモールの広告。

 060922

 どうやらセールの宣伝のようなのだが、筆記体のようなフォントで書いてあるので一目見ただけではわかりにくい。後半部分が「Week」というのは割とすぐにわかるのだが、前半部分は意識してスペルを読む必要がある。

 目を凝らして読んでみる。U…re……shii……。Ureshii、「うれしい」か!

 読めたことで一瞬「やった!」と思うのだが、そのあとすぐにやってきたのは虚脱感だった。「うれしいウィーク」というセールの名前らしい。

 物が安くなるわけだから、まあそうではあるんだけどさ。そんな風に意味を理解したところで、漠然としている感じは否めない。

 僕が筆記体を読み取ろうとした努力は一体なんだったのか。「うれしいウィーク」を読み解いて、むしろそんな風に思わされる。

■ 06/09/21

 プロポーズの言葉は風にかき消された。

 いきなり何を言ってるのかと思われるかもしれないが、本当なのだ。ドラマかなにかで海辺でのプロポーズや告白の際、女性は男性の言葉が聞こえているにも関わらず、わざともう一回言わせるために「何て言ったの?波の音で聞こえないよ」と言うありがちなシーンがあるだろう。

 私たちの場合もあれと似ている。似ているけど違うのは、風の音がうるさすぎて、私の声が本当に妻に聞こえていなかったのだ。

 強風吹きすさぶ公園で、「え?なに?なんだって?」と本気で聞き返す妻。

 「いや、だからさ……」と、もう一度くり返してぼそぼそとプロポーズみたいな言葉を言う私。はっきり言葉は聞き取れなかったようだが、なんとなく意味は伝わったようで、「あー、あーあー、あー」という反応を示す妻。

 だから妻はプロポーズの言葉は覚えていないというより、聞こえていない。私自身も何と言ったか忘れてしまっているので、2人ともそんなシーンの言葉がわかってない。

■ 06/09/20

 始めから茶色いパンツを履いてる人に湧く疑念。

 以前の職場の更衣室で、そんなパンツを履いている人と一緒になった。誤解のないように念のため詳しく書いておくが、始めから全体が濃い目の茶色という仕様のパンツ、という意味だ。

 ブリーフであることのインパクトも強い。見たとき一瞬ぎょっとした。どういう色をしてるパンツなんだ。

 それでいいのか。何かをあきらめてはいないか。

 いや、別にあきらめてはいないか。

 むしろアグレッシブな逆転の発想とも言える。発想を逆転させたところでどういうメリットがあるのかは今ひとつ見えてこないが、とにかく虚を突かれた感のあるパンツである。

■ 06/09/19

 「カフェ」のことを「キャフェ」と言う人がいるだろう。

 それが本格的な発音なんだということはもうわかった。それはわかったから、普通に人と話すときはカフェでいいじゃないか。そんな風に思ってしまう僕が間違っているのだろうか。

 ひどい人になると、「カフェオレ」といった具合にカタカナで書いてあるのにも関わらず「キャフェオレ」と言い出したりするだろう。そのこだわりはなんなんだ。

 そしてときには、自分が「キャフェ」のトラップにかかってしまうことがある。「カフェ」と言ったつもりなのに、うまく口がまわらず、つい「キャフェ」と発音してしまうことがあるのだ。

 あっ、今本格的になっちゃった。まずい。

 だからと言ってもう一回「カフェ」と言い直すのは、自分が「キャフェ」と言ってしまったことを認めるようでもあって、なんとなく言いづらい。

 こんな風に考えることも、「カフェ」に対する緊張感を余計に高めてしまうことになり、「キャフェ」と言ってしまう確率があがるような気がする。

■ 06/09/18

 ステーキやハンバーグを専門店に食べに行くと、紙のエプロンをつけさせられるだろう。

 服に油が跳ねるのを防ぐためだと思う。意味はわかるしそれでいいのだが、あのエプロンを着けるのはどうも照れる。何人かで食べに行くと、誰かが先に着けるまで着けるのを待ったりする。

 自分が始めに着けるのは照れくさい。なぜなんだろう。

 周囲の人もそれを察してか、誰もなかなか自分から着けようとしないこともある。漂うのはじりじりとした空気。

 結局なにかのタイミングで着けることになるのだが、次なる問題は外すタイミングだ。これまで何度か、紙エプロンを着けたままレジに行ってしまったことがあるのだ。

 再び訪れる照れくささ。いつまで食いしん坊気分なんだ。

 根本的な解決策は未だ見つけられないというか、自分がしっかりすればいいんだと思う。

■ 06/09/17

 江戸幕府の初代征夷大将軍、徳川家康。

 偉大な歴史上の人物だが、家康にまつわる逸話として馬上でうんこをもらしたというのがあるらしい。戦に負けて逃げる最中、殺される恐怖におののいてもらしてしまったというのだ。

 そのとき家康は、「これは焼き味噌じゃ」と言い訳したのこと。えー。

 焼き味噌とは当時の戦に持参する食料だったようで、そういう意味ではなんとか取り繕ったようにも見える。ただ、私が家臣だったら、やはり素直にその言葉を受け取るのは躊躇したと思う。

 だってそれ、どう見ても焼いてないじゃん。

 そんな風に言ってしまったら、やっぱり首をはねられたりしたのだろうか。うん、そうだよね、それって焼き味噌だよね。自分に嘘をついて、そんな風にやり過ごすことが得策か。

 家康の齢、三十の時のこの話。同じ三十歳代として、今後うんこをもらすことがあったら、あくまで焼き味噌だと主張していきたい。

■ 06/09/16

 必要があって、ブーブークッションを買いに行った。(こちらの記事で使おうと思ってのこと)

 売り場で見つからないので、店員に聞いてみたのだが、どうもその人はブーブークッションを知らないらしい。面倒なことになったと思いつつ、「空気を入れて、いたずらグッズというかなんというか、まあその上に座ると、ブーとおならのような音がして…」と説明。

 店員も面倒なことになったと思ったのか、私の説明が終わるのを待たずして店長を呼んだ。またも話がこじれそう。

 その店員は店長に「空気を入れて座るとおならみたいな音がするクッションだそうで…」などと話している。若い店長もやはり知らない様子。

 とても感じのいい店ではあったので、「すみません、ブーブークッションの方、当店では扱っておりませんで…」と頭を下げる2人。こちらこそ申し訳ない、ブーブークッションのことでそんな風に申し訳ない思いをさせてしまって…。

 ブーブークッションを軸に申し訳ながる3人。そこにブーブークッションがなくても、妙な絆はあったと思う。

■ 06/09/15

 朝起きるのがどうも苦手な自分。毎朝ちょっとした苦行だ。

 不思議なことに前の日に何時に寝たかに関わらず、いつも起きるのが苦手だ。目覚ましを鳴らしても、止めてすぐにまた寝てしまう。そして、なかなか起きてこない私を見かねた妻が声をかけてくる。

  「豆っていうのは、煮ると食物繊維が増えるんだよ」

 えっ!そうなの!なんでなんで。パチッと目が覚め、詳しく話を聞くために起きだす私。

 これは今朝の話だが、妻は起きてこない私にこうして豆知識を投げかけてくる。これが目覚めにかなり効果的。食物繊維への理解も深まって一石二鳥だ。

 「あなたを起こすための豆知識の準備、大変なのよ」と言う妻。素直に感謝しています。

■ 06/09/14

 紙類などをラミネート加工することを、つい「パウチっ子する」と言ってしまう。

 これは一定以上の年代の方でないと通じない話かもしれない。今ではラミネート加工という一般的な呼び方があるが、20年ほど前に「パウチっ子」という商品名のラミネーターのコマーシャルがあったのだ。

 当時はすごい技術に見えたラミネート加工。そのすごさはパウチっ子というネーミングのとぼけた味わいを超えて心に刻まれた。

 とても印象的なコマーシャルだったのだと思う。今でもある年齢以上の人は、パウチっ子という言い方を使うことも多いのではないか。実際、以前の職場で上司から「おい、この紙パウチっ子しとけって言っただろ!」と怒鳴られたことがある。

 超怒ってるのに、言ってることはパウチっ子。

 当時は私もその語感に気づけず、「急いでパウチっ子してこなきゃ」と本気で思っていた。「パウチっ子、パウチっ子」と心の中で繰り返しながら走る廊下。

 今でも仕事でラミネート加工をすることがあると、パウチっ子のことを思い出してほろ苦い気持ちになる。

■ 06/09/13

 バスの「次止まります」ボタンを押すタイミングがわからない。

 もちろん降りたいバス停がアナウンスされたら押せばいいのだが、アナウンスされたからと言ってすぐに押すのは、「待ってました」という感じでどうもかっこ悪い。ボタンを押したくてうずうずしていたみたいではないか。

 そう思って、アナウンスが終わって、ちょっと待ってから押そうと思う。そこに落とし穴がある。

 待っていることに集中していればいいのだが、なんとなく他のことを考え始めて、ぼーっとしてしまうことがあるのだ。気がつくと、降りるはずだったバス停が車窓から流れていく。

 そこであわててボタンを押す。でももう遅い。

 バスの中に漂うのは、「この人変なタイミングでボタン押すなあ」という雰囲気。それは私が勝手に感じているだけか。いや、やっぱりあの人、こっち見てるぞ。

 自分の降りたいバス停でちゃんと降りられる大人になりたい。バスに乗っても、降りるときのことを思うとドキドキせずにはいられない。

■ 06/09/12

 気づいたらホットペッパーを2時間も読みふけっていた。

 いろんな店の割引券がいっぱい載っているフリーペーパーだ。表紙にもクーポン2239枚と書いてあるようにかなり分厚い。無駄に丁寧に読み込んでしまって、気づいたら2時間経っていたのだ。

 これでいいのだろうか。そんな疑問が湧いてくる。

 こんな店もあるのか、こんなお徳なクーポンまであるのかと、それなりに興味深く読んだとは思う。それなのに、湧いてくるのはどちらかというと虚しい気持ち。

 いろんなクーポンに感心したのはいいが、特に行くあてがないこともそうさせているのだと思う。

 10時前から読み始めて、時計を見たら日付が変わっているではないか。お得な情報がいっぱいであるはずのホットペッパーなのに、僕はそれを通して大事なものを失っているような気がする。

■ 06/09/11

 今年の甲子園で活躍し、プロ入りするかどうかが注目されていた早稲田実業の斎藤投手。すでに報道されている通り、プロには行かず大学へ進学することになったようだ。

 ニュースサイトでその記事を読んだ。不思議だなと気がついたのは、斎藤投手の考えは私にも当てはまるということだ。

斎藤投手「今はプロに入っても通用しないことは分かっている」

 私自身も私についてまさにそう思う。今私がプロ入りしても、絶対に通用することはない。野球は高校の頃にファミコンで夢中になってやっただけだからだ。

斎藤投手「まだまだ野球選手としても人間としても未熟だと思う」

 私が私について思っていることと全く同じだ。斎藤投手は18歳だそうだが、33歳の私も人間として未熟だと思うし、野球選手としては未熟というか、選手ですらない。

斎藤投手「プロ志望届は出しません」

 僕も出しません。

 人間としてまだまだ未熟な私ではあるが、人気者と符合するところがこんなにたくさんあることを誇りに思う。

■ 06/09/10

 通りがかりで見かけた床屋。

 060910

 価格でアピールしているのかと思いきや、「調髪 \?000!!」ではさっぱりわからない。色づかいこそポップでいいのだが、アピールになっているのかどうかは微妙だ。

 いくらなのかわからず、心なしか構える気もする。逆効果ではないか。

 にも関わらず、ちょっと入ってみたくなるような気にもなるから不思議だ。一体いくらなのか、別に突き止めなくてもいいのに突き止めたくなる衝動に駆られる。

 そのあたりが作戦なのだろうか。そこまで見る者の心を読んでいるのだとしたらすごいと思う。

■ 06/09/09

 汚物の中でも、痰の疎外感はすごい。

(のっけからかなりわからない感じだと思うが、今日はそういう話なので、お読みになっている方はご自身の嗜好と読んでいるタイミングを考慮して読み進めるかどうかを決めていただければと思います)

 いわゆる汚物の中でも、うんちや鼻くそはもうある程度認められている部分があると思う。まだ言っていることがわかりにくいだろうが、それは例えば「くん」付けで呼んでみるとよくわかる。

 「うんちくん」や「鼻くそくん」は、ふざけた呼び方やキャラクターとして、まあありと言っていいだろう。それに対して、「痰くん」はちょっとあり得ない。

 それはないだろうという「痰くん」。痰の疎外感とはそういうことだ。

■ 06/09/08

 子供の頃、私が親から怒られていると、弟が泣いていた。

 言っていることの意味がわからないかもしれない。私が悪さをして父や母から叱られていると、当人は普通に怒られているだけなのにも関わらず、それを横で見ている弟が泣き出していたのだ。

 感受性が豊か、と言えばそうなのかもしれない。弟が泣くと、なんとなく説教も終わった。

 私たち兄弟はあまり気が進まないまま剣道を習わされていた。先週休んだこともあって、「今日は雨が降っても槍が降っても行く」と宣言した弟。マンガのようなこともあるものだと思うのだが、程なくものすごい勢いで雨が降ってきたのだ。

 そして、弟は泣いた。

 おでんに辛子を付けすぎたり、トンネルに入ったりしても泣いていたので、感受性以外の部分でも弟はよく泣いていたと思う。

■ 06/09/07

 カシミアのマフラーやコートの袖のところについている、「CASHMERE」と刺繍してあるタグをどうしたらいいのかわからない。

 これはカシミアでできてるんだよ、と言いたいのはわかる。それはいいのだが、そのタグをどう処理するべきなのかがわからない。四辺をしっかり縫い付けられているわけではないのも判断を迷わせる。

 これは取っていいものなのだろうか。考えても答えが出てこない。

 付けたままだと、これはカシミアなんだということをわざわざ主張しているようでもあって、「いや、そんなつもりは…」という気持ちになる。

 だからと言って取ってしまうのも不安。何が不安なのかわからないままに不安。

 こうして書き始めてしまうと、今の別にそんな判断を迫られているわけでもないのに、カシミアのタグはどうすればいいのかと考え始めてしまい、一体自分は何を悩んでるんだと思う。

■ 06/09/06

 スーパーでバーベキュー味のスナック菓子を買ってきて食べた。

 まあまあの好物のひとつでもあるので、それなりに満足して食べる。それはいいのだが、パッケージに「肉のうまみがギュッと詰まったおいしさ!」などと書いてあるの読んで、思わずハッとする。

 そうか、うまみだけか…。そうだよな……。

 さっきまでそれなりに満足していたにも関わらず、なんとなく虚しい気持ちになる。そうだ、俺が本当に食べたいのは、肉のうまみではなく、肉そのものなのだ。

 そんな自分の気持ちを再認識。エキスだけで満たされている場合じゃない。

 バーベキュー味で満足しているような器の小さい男であってはならない。スナック菓子を食べながら、そんな風に自分に言い聞かせる。

■ 06/09/05

 妻は前に勤めていた職場で同僚の中年女性から「あら、素敵なシャポーね」と言われたことがあるそうだ。

 シャ、シャポー?一瞬何のことをほめられているのかわからなかったが、確か帽子のことをそう呼ぶ言い方があったような気がする。そう思った妻は「あ、この、帽子ですか?ありがとうございます」との返答をしたらしい。

 それでも相手は「ほんと、素敵なシャポー」と、あくまでシャポーをゆずらない。

 調べてみると、フランス語で帽子全般のことをシャポーと言うらしい。妻もその女性も同じものを指して話しているわけだから、意味的に会話は成り立っているはずだが、意味以外の部分で噛み合っていない。

 自分がかぶっている物をシャポーと呼ばれることに対する抵抗感。

 ほめられているのに、湧いてくるのは釈然としない気持ち。シャポーという言葉にはそういう力があると思う。

■ 06/09/04

 妻から「そこのバッグから携帯出して」と言われ、妻のバッグをのぞく。

 …なんかアメがいっぱい入っている。いろいろな色のきらきらした包装紙に包まれたアメを散りばめたようになっている中から携帯を探し出し、妻に渡す。「ずい分アメが入ってるね」と話すと、「よくない傾向だわ…」とつぶやく妻。

 これはあれだろうか、いわゆるおばちゃん化の表れなのだろうか。

 おばちゃん、特に大阪のおばちゃんのバッグにはなぜかいつもアメが入っているという話を聞いたことがある。実際にそれを街で確かめているテレビの番組も見たことがある。

 妻もそれを知っているのだろう。アメがいっぱいのバッグを自分でもよからず思っているらしいが、だからと言って私がそれについてこれ以上何か言うとろくなことにならないのはわかっている。ここはじっと口をつぐむべきだ。

 私が黙っていると、「33歳でこのアメの量は多すぎると思う」と言う妻。

 曖昧な返事で切り抜ける私。確かの今の段階であれだけアメが入っていて今後もこのペースで増え続けていくとなると、10年後くらいにはバッグにアメしか入っていないことになると思う。

■ 06/09/03

 ボタンを掛け違いを防ぐために、前開きをチャックでしめる服を着る。昨日ポロシャツのボタンを掛け違えた私が考案した解決策だ。

 その話を読んだ方から、ボタンの掛け違いを防ぐためには、かぶりものの服を着ればよいのではないかという指摘をいただいた。そうか、それなら今すでにたくさん持っているぞ。

 見えてきた解決の光。そうだ、なぜ気づかなかったんだ。

 一瞬そう興奮してから気がついた。かぶりものの服には別の問題が発生する可能性があるのだ。そう、前後を逆に着るという間違いだ。私がこの間違いをいかに多くするかということについては、これまで何度も書いてきた。

 かすかに見えた光。それははかなく、すぐ消えた。

 もう服を着ること自体をあきらめた方がいいのだろうか。広い地球には、そういうことが受け入れられるコミュニティもあると思う。

■ 06/09/02

 シャツのボタンを掛け違える確率が普通の人より高いと思う。

 まあ、もうそれは仕方ないと思っている。Yシャツのボタンを掛け違えても、その場で気づいてやり直せば済むからだ。しかし今日、外出から帰ってきて鏡に映った自分の姿には驚いた。ポロシャツのボタンを掛け違えていたのだ。

 間違えた自分と気づけなかった自分に衝撃。ボタンが3つしかないのに…。

 さすがにこれはどうかと思う。根本的な対策はないものだろうか。……そうだ、もうこれから、前開きのところがチャックになっている服しか着ないことにすればいいのではないか。

 ボタンがあるから掛け違えるんだ。そこに今まで気づけなかった。

 チャックの場合、仮に閉め忘れることがあっても、見た人は「ああ、そういう着方なんだな」と思うだけだろう。ボタンの掛け違いを防ぐためだとは誰も気づけないのだ。ソリューションとしてパーフェクトだ。

 何かをあきらめることでしか得られないこともある。そういう話なのだと思う。

■ 06/09/01

 妻が友人からもらったというハンカチを見せてきた。

 落ち着いた感じの柄で、なかなかいいと思う。普通のよりも大判だろうか。気の利いたことを言おうとして、「それ、ハンカチ以外にもおしゃれに使えそうだね」などと思いつきで言ったのがまずかった。

 「ん?どんな風に?」と聞いてくる妻。

 そこまで考えて言ってない。つい適当なことを言ってしまったのだが、なんとなくここで引けない雰囲気。何か具体的なことを言わないと。

 「いや…こう、ポッケに入れたりとか…」

 言ってしまってから感じた自分の限界。しらけた表情の妻。何がポッケか、という顔をしている。

 「あ、あと、どこかしらに巻いたりとか…」

 思わず言葉を継ぐ私。どうしてこんな風に自らを窮地に追い込むようなことを言ってしまうのか、自分でもわからない。

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