2013年06月23日 (日) | 編集 |
訪問日:2013年1月5日
富山城は富山県富山市にあるお城で現在は富山城址公園として整備されています。
続日本100名城に選定されています。
正月休みを利用して富山に行った時のネタなので,一面雪景色。
16世紀の半ばに戦国大名の神保長職によって築かれたとされていましたが,最近の発掘調査ではもっと古い時代の遺構も出てきているそうです。
神保氏が上杉謙信に追われた後は,上杉VS織田の抗争の場となりましたが,織田方の有名武将である佐々成政が治めます。本能寺の変の後,佐々成政は豊臣秀吉対立し,結果降伏し富山を離れることになります。
越中が前田家の支配下となった後,利家の長男である前田利長のお城となり,以後,富山は明治時代まで前田家の支配下にありました。
雪の中の富山城の内堀と模擬天守,美しい光景ですね。
富山城の遺構は内堀より内側の本丸と西之丸のみとなっており,
二之丸,三之丸や堀の大部分は建築物や道路となっており,面影をとどめておりません。
【左】本丸への虎口は枡形となっておりま,手前(南)から進入し左(西)に向かって折れれた場所に鉄御門(くろがねごもん)がありました。当時から石垣を使用していたのは虎口付近だけであったとか。
【右上】 石垣の中に見ることのできる,ひと際大きな石は鏡石と呼ばれ,権威や財力の象徴としてや,見た目に凄いだろ的な意味合いで配されるようです。富山城は結構鏡石が多いんですよね。
【右下】この位置,東側に向かって鉄御門がありました。
【左】鉄御門の両側は多門櫓などの櫓台となっているのですが,実際は幕府の許可が下りず建設されませんでした。
【右】本丸ですが,雪深くて何のことかわかりません。雪深い時期は見た目の美しさと逆に縄張り等が判別しにくくなるというデメリットもあるのです。
【左】本丸にある2代藩主の前田正甫(まえだまさとし)像。
江戸城内で腹を壊した大名を,この方が持ち歩いていた反魂丹(はんごんたん)という薬で治したという逸話があります。これにより富山の薬が評判となり,有名な富山の薬売りへとつながったとか。
【右】元々天守などなかった富山城に戦後の復興ブームの中で立てられた模擬天守です。
つまり史実とは全くリンクしていないわけですね。
ところが,これが建築されたのは1954年(昭和29年),既に60年近くが経過した近代建築物としての風格が出てきている上,富山市のシンボル的存在になっています。遂に偽物を極めたのか,何と2004年国の登録有形文化財に指定されたという。
富山市郷土博物館となっているので早速見てみましょう。
【左】展示物で一番のお勧めはこれか!前田利長のものと伝わる兜。
前田利長の勝手なイメージは確かにこの長い兜。色んなところで頭を打ちそうです。
【右上】天守よりの眺め。搦手側に櫓を模した佐藤記念美術館があります。
【右下】この門は東側にある千歳御門。総欅造りで城内唯一の現存建築物です。
長らく市内の民家に移築されてあったものを,2008年に富山城に再移築しました。
それに対して,南側の石垣は平成に入ってから作られた石垣で何とも対照的な構図であります。
【左】搦手門側の虎口です。最初は喰違い虎口であったものが,平虎口へ変わり,その後に外枡形の整備が為されたということで数度の変遷を得ているようです。
【右】本丸北側も公園化しており太鼓橋が良い雰囲気を醸し出しています。
元々,本丸の北側を神通川が流れており堀の役目を果たしていましたが,神通川が流れを変えた後はこの細い松川がその名残として残っています。
佐々成政等の有名武将が歴代の城主をつとめた富山城。
私は基本的に史実に忠実であってくれる方が有難いのですが,昭和の建築物がすっかり板についてしまった富山城。
雪の富山城は美しく,これはこれでありかと思ってしまうのでした。
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富山城は富山県富山市にあるお城で現在は富山城址公園として整備されています。
続日本100名城に選定されています。
正月休みを利用して富山に行った時のネタなので,一面雪景色。
16世紀の半ばに戦国大名の神保長職によって築かれたとされていましたが,最近の発掘調査ではもっと古い時代の遺構も出てきているそうです。
神保氏が上杉謙信に追われた後は,上杉VS織田の抗争の場となりましたが,織田方の有名武将である佐々成政が治めます。本能寺の変の後,佐々成政は豊臣秀吉対立し,結果降伏し富山を離れることになります。
越中が前田家の支配下となった後,利家の長男である前田利長のお城となり,以後,富山は明治時代まで前田家の支配下にありました。
雪の中の富山城の内堀と模擬天守,美しい光景ですね。
富山城の遺構は内堀より内側の本丸と西之丸のみとなっており,
二之丸,三之丸や堀の大部分は建築物や道路となっており,面影をとどめておりません。
【左】本丸への虎口は枡形となっておりま,手前(南)から進入し左(西)に向かって折れれた場所に鉄御門(くろがねごもん)がありました。当時から石垣を使用していたのは虎口付近だけであったとか。
【右上】 石垣の中に見ることのできる,ひと際大きな石は鏡石と呼ばれ,権威や財力の象徴としてや,見た目に凄いだろ的な意味合いで配されるようです。富山城は結構鏡石が多いんですよね。
【右下】この位置,東側に向かって鉄御門がありました。
【左】鉄御門の両側は多門櫓などの櫓台となっているのですが,実際は幕府の許可が下りず建設されませんでした。
【右】本丸ですが,雪深くて何のことかわかりません。雪深い時期は見た目の美しさと逆に縄張り等が判別しにくくなるというデメリットもあるのです。
【左】本丸にある2代藩主の前田正甫(まえだまさとし)像。
江戸城内で腹を壊した大名を,この方が持ち歩いていた反魂丹(はんごんたん)という薬で治したという逸話があります。これにより富山の薬が評判となり,有名な富山の薬売りへとつながったとか。
【右】元々天守などなかった富山城に戦後の復興ブームの中で立てられた模擬天守です。
つまり史実とは全くリンクしていないわけですね。
ところが,これが建築されたのは1954年(昭和29年),既に60年近くが経過した近代建築物としての風格が出てきている上,富山市のシンボル的存在になっています。遂に偽物を極めたのか,何と2004年国の登録有形文化財に指定されたという。
富山市郷土博物館となっているので早速見てみましょう。
【左】展示物で一番のお勧めはこれか!前田利長のものと伝わる兜。
前田利長の勝手なイメージは確かにこの長い兜。色んなところで頭を打ちそうです。
【右上】天守よりの眺め。搦手側に櫓を模した佐藤記念美術館があります。
【右下】この門は東側にある千歳御門。総欅造りで城内唯一の現存建築物です。
長らく市内の民家に移築されてあったものを,2008年に富山城に再移築しました。
それに対して,南側の石垣は平成に入ってから作られた石垣で何とも対照的な構図であります。
【左】搦手門側の虎口です。最初は喰違い虎口であったものが,平虎口へ変わり,その後に外枡形の整備が為されたということで数度の変遷を得ているようです。
【右】本丸北側も公園化しており太鼓橋が良い雰囲気を醸し出しています。
元々,本丸の北側を神通川が流れており堀の役目を果たしていましたが,神通川が流れを変えた後はこの細い松川がその名残として残っています。
佐々成政等の有名武将が歴代の城主をつとめた富山城。
私は基本的に史実に忠実であってくれる方が有難いのですが,昭和の建築物がすっかり板についてしまった富山城。
雪の富山城は美しく,これはこれでありかと思ってしまうのでした。
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