いつだって僕らは、多かれ少なかれ、或いは大小を問わず、常に何らかの問題に悩まされ続けている。「問題がない」というのは、ウソか間違いだ。あえて目を逸らして「問題がない」かのように振る舞っているか、問題に気付けていないだけで、問題そのものが存在しないわけじゃない。
問題は、ある。いつも、ぴったりと自分に寄り添って。
でも、それを悲観することはない。問題があっても日々は動いていくものだし、僕らも少しずつ前に進んでいくものだからだ。問題がある。いいじゃないか。問題を解決しようとしてうまくいかなかったり、新たな問題が出てきたり、やっかいなことだらけだ。でもそれでも、僕らは、世界は、ちょっとずつ進んでいくのだから。
問題は、ある。それでも前に進み続ける、僕らとともに。
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さて。
前回の痛快かつ疾走感あふれるバトルから一転、仕切り直しのような印象を受ける今回ですが…。
正直、どうしたらよいものやら。orz
前回のレビューで私は「摩耶花の復活劇」と書いたのですが、ああ書きながらも「全てが順風満帆になったわけでもないんだよなぁ…」という漠然とした感覚もまた抱いていました。実際、その通りの展開になったわけですが、これは実に書きづらいんですよ。感覚を一度リセットしないといけないんでしょうが、なかなか上手くいかず。
頑張ってみましょうよ、てりぃさん
難しい、ですか?
ムリd…いやいや、決して無理というわけではないんですけどね。私にも色々とあれこれの問題が…。
…愚痴ってても言い訳しててもしょうがないんで、出来る範囲で、書き下してみますか。今回はちょっと薄味になるかもですが、ご容赦ください。
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この回は、古典部メンバーそれぞれの抱える「問題」の再配置・再認識の回なのだと思います。それがストーリー上だけでなく、この文化祭イベントの当初に立ち返るような演出でも示されていますよね。
それは、今回のラストシーン。古典部のメンバーがそれぞれに過ごす、文化祭二日目の夜の描写です。これ、第十二話アバンと同じスタイルですよね。でも、あそこで示されていた構図~問題ごとを抱えてそれに囚われている風の女性陣と、問題ごとに煩わされることなく思いのままに過ごしている男性陣~とは、かなり異なっているのが面白いです。端的に言って、このラストシーンから判断する限り、問題に囚われていないように見えるのは奉太郎一人です。残りの三人は三人とも、それぞれの問題を抱えているんですね。
えるの抱える問題は、「自分の果たすべき役割が果たせない」「自分にはこの役割は不向きなのではないか?」という辺りに集約されると思います。
入須から伝授してもらった方法を実際に試す辺りは、ある意味微笑ましく思いましたが…まあ、無理ですわね、あれは。言葉じりに囚われてしまっていて、本質がわかっていない感じです。そもそも、「打算」を効果的な形に組み上げてから外部にアウトプットできる人間、というのは、それほど多くありません。えるの「出来なさっぷり」は清々しいほどに突き抜けていますが、多かれ少なかれ、誰も入須のようにはできないでしょう。だから、えるはえるなりにやればいいと思うんです。思うんですが…。
彼女にとっては、自分のダメさがどうしても気になってしまうんでしょう。
お願いして回るのは、私がすべきことですけど…
何だか、疲れました…。
やらなくちゃいけないこと。だけど、上手くできないこと。それが彼女を疲れさせます。…ううん、他人事とは思えませんね(苦笑)。
摩耶花の抱える問題は、彼女の居場所ごとの在り方と自分らしさ、その狭間での苦しみというところでしょうか。
前回の復活劇を以て、いったんは笑顔と彼女らしさの戻った摩耶花ですが、漫研での微妙な空気はそのままなんですよね。だから、古典部にいる時間を必要以上に延ばしたり、ここにいちゃ悪いのかと奉太郎に当たったり。それで漫研に戻ってみれば、イヤな感じの同級生が聞えよがしに嫌味を言うわ、そのことを先輩にたしなめられたのを逆恨みしてくるわで、やっぱりいいことがありません。
その日の最後に古典部に戻った摩耶花の様子は、一目でそうとわかるくらいに疲れ切っています。せっかくワイルド・ファイアで取り戻せた「彼女らしさ」が、元の木阿弥です。
うわ…
私のは百枚落ちる…。
自分に対する自信のなさや揺らぎ。そういうものが、上記の一言には凝縮されてると思うんですよね。人から非難され続けている時って、得てしてこういうものなんだけど…。
里志の抱える問題は、「奉太郎は真価を発揮したのに、自分はこのままでいいのか」ということに尽きると思います。
これまでも何度か、奉太郎をうらやましく思う旨の発言・描写がなされてきた里志。思えば第五話アバンというごく初期でさえ、「光の下の奉太郎、影の中の里志」という演出がなされていて、一貫して里志は「奉太郎のように表舞台に出ない存在」というモチーフが匂わされているんです。…実際に彼が影なのかどうかはさておいても、少なくとも里志は本当に奉太郎の才能をうらやましく思っていますし、それが自分に無いことにコンプレックスを抱いています。それが、ここに来て遂に「自分も力を発揮したい」という願いに向けて動くんですね。
ただし、やや先走って怪盗十文字を捕まえようとして果たせず、そのことを奉太郎と話していて「気づいてたなら教えてくれよ…」とつい口に出してしまう里志は、自己による自己実現の道に、なかなか乗りきれていないようにも見えるのですが…。
奉太郎。
十文字は僕が捕まえてみせるよ。
自分も、真価を発揮して見せる。そう誓う里志は、それはそれでアリだと思うのですが…何か、「自分には見えづらいちょっとした陥穽」にハマっているような気がしてなりません。別なやり方でも彼の良さと言うのは表に出てくると思うのですよね。この道に執着していること自体が、彼が既に「囚われしまっている」証左であるように思うのです。
彼ら三人の抱える、それぞれの問題。
それらは、個々に異なる問題でありながら、その根の部分は一つに収斂します。
「彼らが自分らしくあるというのは、どういうことなのか」
青春という人生の過程では、この「自分らしい自分」は往々にして揺らぎを生じ、紆余曲折を経て「確かな自分」へと至るものです。三人は皆、この「確かな自分」に至る途中の、迷いの中にいるわけですね。
そしてそれは、「愚者のエンドロール」において、奉太郎が迷っていた道でもあるのです。
第十一話で一度そっぽを向いてしまった奉太郎は、第十一.五話で、える達に救ってもらっています。
迷い道は、自分ひとりで抜けなくてもいいんですね。むしろ、得難い伴侶やまたとない友人に支えられ、そうして超えていくことが多いのではないでしょうか。ただでさえ、自分の事はよくわからないのが人間なのですから。
亜也子と私、友達だから。
力強い、一言。その力強さと、その確かさが、摩耶花にはまだよくわかりません。でも、彼女を救ってくれるのもまた、友人たる古典部のメンバーになるのではないでしょうかね。単に居心地のいい、彼女に都合のいい逃げ場所ではないはずです。
彼らが「自分らしい自分」にまみえる日が、遠からず訪れることを願いつつ。
おお!通販もやっているのか。
ただ一人、呑気極まりない風に見える奉太郎ですが…本当に彼は問題を何も抱えていないのですかね?
そうですね、少なくとも今は、奉太郎が思い悩んでいる問題は無いのかも知れません。でも、「問題に悩んでいないこと」と「問題が無いこと」は別物です。
奉太郎は、何故えるのことを無視できないんですかね?
それは、自己実現とは別次元の問題ではありますが、大事なことでもあります。少なくともあの素振りからして、摩耶花には見え見えのようですよ?本当、自分の問題ってのは、自分にだけはよくわからないもんなんですよね…。
グレンダイザーU観てる (2024/08/03)
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くぅぅっ…さすがはてりぃさんです…。
読みながら何度も頷いてしまいました。
4人のそれぞれの「問題」、奉太郎だけノンキなイメージで今回終わりましたが、てりぃさんの仰るとおり彼は11話で一人だけ先にかなりデカイ問題にぶつかって砕けましたよね。
ザイル、そして本意の見逃し原因は「4人が一緒に解決にあたらなかったこと」だと思います。
里志の情報、摩耶花の指摘、えるの本意への解釈、「氷菓」の謎を解いた時みたいな結託があれば、今回の皆の問題も解決しそうですよね!
えるのお願い廻りも、里志の口添えの件どうなったんでしょうね(笑)
里志もまるで奉太郎への対抗心を燃やしてるようにも見えましたが、てりぃさんの言う通り、別のやり方での里志の良さ=奉太郎よりも優れている部分・活躍できる箇所が絶対あるのに!
…隣の芝生ってなんでいつも青いんでしょうね…。
私は作品全体を込みつつ1話を的確にレビューを紡げるてりぃさんがうらやましいです。
長々とすみません、来週もまた楽しみにしてますっ(^^)
ありがとうございます。
隣の芝生が青いのは、万国共通、老若男女問わずじゃないですかね?根拠は何もないですけれど、私はそういうものなんだと思っています。畜生、うらやましくなんかないぞ!(意訳:すんげぇうらやましい!)ってこれまでに何度叫んだことか…。
せっかくお褒めいただいたんで、これからも相応に頑張ります。今後ともよろしゅうに。
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