ソレジャナイ。
ソウジャナイ。
ソウジャネーヨ。
…そんなネタばっかしでしたなー、今回は。
中でもやっぱし、アバンのアレが突出しすぎです。日常じゃナイどころか、ヘルベチカスタンダードですらネェだろ、これは。アメコミ風味爆発のタッチでひとしきり引っ張った後、何事もなく続く「いつものOP」が違和感炸裂でした。
いや、もちろんおかしーんですけどね、すんごく。カタコトっぽい「メガーネ、メッガーネ」がまたいい味出してたし。笑いながらそこに閃くは、制作スタッフはやんちゃだなー、もう…という当たり前の感覚と、果たしてこれはやんちゃなだけなんだろうか、という微妙な疼きと。
…ああ、因果だねぇ。こういうオムニバス形式の作品には、オイラの邪推スタンスレビューはあまりかみ合わないと言うのにさ。でも、今回頻出したように思える「ソレジャナイ」ってのに、何か軸が通せるなら、やっぱし通しておきたいんですよね。
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もうすっかりお馴染みになった感のある、大福フェアのかぶりもの。そもそも「お馴染み」になってるのが変なんですがね。「大福のかぶりもの」なんてシュールな絵図だったはずのものが、「あって当然」なところに、いつの間に落とし込まれたものやら…慣れというのは恐ろしいものです。
しかしそこで、大福の宣伝口上を張り上げている新人らしき男の頭には…えっ?豹のかぶりもの?違うよ。ソレじゃネーよ。中之条のおとっつあんでなくても、視聴者でもツッコむよな、これは。つーか。どこから持ってきたよ、それ。まさか自前なのか?
当然の如く、取り替えさせられるかぶりもの。そして、口上の方も、「しゃべらんでくれんかね」ということで、無言にさせられます。前もあったもんな、あの時は「大福がしゃべるなァ!」ってキッツいド突きだったけど。
ああ、これでやっといつもの大福になった…と思ってこちらは安心するんですが、中之条のとっつあんからはまだ要求が。「服を着ることはできんのか」ですと?
上半身裸の大福は、僕らは第1話から見て知っています。だから、もうこの第19話の時点では、全然違和感がありません。でも、そうか、大福フェアのこの場所では、服を着た大福しか登場してないもんね。とっつあんにとっては「ソレジャナイ、ソウジャナイ」んですな。
「日常の79」。のちの『魚雷跳び』である。いやいやいやいやwwwそうじゃねーだろwww
ここにもまた、「ソレジャナイ」が現れていましたね。背面跳びは、「ソウジャナイ」。何回教えても巧くできないみおの背面跳びは、どこまで行っても「魚雷」フォーム。確かに、できない人にとっては、そういうもんなんですけどね。私も運動音痴でしたから、「何遍教えられてもわかんないものはワカンナイし、できないもんはデキナイ」ってのは身に覚えがあります。それにしても極端ですけどね、あの魚雷フォームは。それでも、デフォルメ&強調された何かだと思えば、まあ理解の範疇ですよ。
ところが、中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」がバックにかかる辺りから、オカシサが割り増しになっていきます。回想シーンのみおの行動が悉く「ありえねー」ものであるのもそうですが、全体がプロジェクトXか何かのように「辛かった日々の走馬燈」っぽく構成されてるのがもうね…ソウいう話じゃネーだろうと、ツッコミながら迎えるのが、ゆっこへの魚雷直撃ですからね。ソウジャナイもここに極まれり、というところでしょうか。
「日常の80」における、東雲研究所のちょっとした「ソレジャナイ」の数々。雨が降り始めて、洗濯物を取り込まなきゃ、って時に、雨合羽を探しに行くのは「ソウジャナイ」。もうだいぶ濡れてしまって、それでも「とにかく入れろ」って時に、洗濯物をひっくり返してしまうのも「ソウジャナイ」。言い訳しながら阪本に責任転嫁するのも「ソウジャナイ」し(これはいつものことだけどナ)、いけにえにしたはずの阪本が救われてはかせだけご飯抜きにされそうで、ソウジャナイ悪いのは自分だから自分がいけにえになると自首する羽目になるのも、あれぇ?「ソウジャナイ」。
最後になのが、ご飯抜きを忘れてオムライスを作ってしまうところまで「ソウジャナイ」。
思ったことと違う。ソレジャナイよ、ソウジャナイよ、その繰り返しです。
「日常の81」では、「ソレジャナイ」行動を取った三人を襲った散々な出来事が、実によく笑えました。「らしく行こう」という結論がまたイイです。身の丈でいい、できる範囲でいい…色々な受け取り方のバリエーションがあって、面白いと思います。ただ、神社には単なる災難でしたけどね。
「日常の82」は、僕らの知る常識的な囲碁ともサッカーとも似つかない、「ソレジャナイ」ような囲碁サッカーの息詰まる攻防!……なんですかね。そりゃ、部長じゃなくても、こんなん、誰もわからんわwww
「こんなん、日常的なモンじゃねーよwww」というのが、人がこの日常シリーズを見る時の印象だろうと思います。視聴者からの、作品世界に対する「ソレジャナイ」ですね。
一方で、今話では日常世界の住人自身が、その世界内部での出来事に対して「ソレジャナイ」を告げていきます。
で、どうですかね?
ソレジャナイ、でしょうか。
依然として、「日常」という作品の枠内に、それは収まっていたんじゃないでしょうか?
アバンこそものすごい逸脱っぷりでしたけれど、その他はどこもかしこも、僕らのよく知る日常ワールドにすっぽり収まっていて、特段の違和感を突きつけたりはしませんでした。緩く広くつながるこの世界…それは、十や二十の「ソレジャナイ」程度では、揺らぐものではないってことなのかもしれません。
その頑丈さが、「日常」というものの強度であり、僕らが暮らす世界の分厚さそのものだったりするのです。
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ああ、フェッちゃんぽいなぁ…。
「日常の78」。ドメスティックバイオレンス。なんのこっちゃねん、一体。ネタとしてはちょびっとの、大層な何かを含まないモノ。
でも。
「ソレジャナイ」ネタが多くを占めた今回のエピソードの中で、「日常の~」という名前を持つこのネタが投入されたことは、なかなか興味深いのですよ。
フェッちゃんは、自分っぽくないことをしようとするのですが、でもこけちゃったり、通りがかった車に水をはねられたり、その意図せぬ行動のいずれもが「フェッちゃんぽいなぁ…」と言われてしまうのです。
「ソレジャナイ」を目指しても。
いつも通りの日常に帰結してしまう。
そういう含意で、このエピソードが今話に挿入されたんだったりしてね。だったら、オレはちょっと嬉しいなぁ。
だって、日々は本来、変わって行かざるを得ないものでしょう?でもその日々には同時に、多少のソレジャナイを含めて全てを包んだ上で同一性を保つ、そういう側面もあるってことなんだと思うのですよ。
それが、自分には憧れなんです。どんな特異な出来事も、いつの間にか「日々」に括られるというのは、ある意味幸せなことだと思うのですよね。
誰も見ていないところでくじけることがあっても。
それでも、日々が変わらずに感じ取れるなら…。
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なのとゆっこたちとの「友情」をフィーチャーする流れは、ここのところすっかり身を潜めた感があります。
あの、ゆっこが東雲研究所を訪ねたところで終わっちゃったのかなぁ。
もう一歩二歩、その辺の描写があるんじゃないかと、秘かに期待しているんですがね。まあこればっかりは、制作陣の描こうとしているもの次第でしょうから、過度な期待は禁物でありますが。
せっかく後期OPがアレなんですから、もう少し語りたいところなんですよね。ま、ゆるゆると待っていましょう。泣いても笑ってもあと一月半あまりですから…。
この日常の終わりを寂しく感じつつも、僕らの日常の糧にならんことを願って。
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