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kissakurage

森山大道の話を聞いてきた

横浜国立大学で森山大道氏の講演を聞きました。講演、というより正確には、大学の教員二名との鼎談というかたちです。

全体的な感想として感じたのは、写真について語ることに何の意味があるのか、ということ。森山氏本人を前にして写真について語られる話は、なんだかまるで的外れに思えるというか、何を話しているのかわからないのです。写真について語りながら、当の写真ははるか遠いところにあるみたい。ジム・オルークが「なぜ音楽について語る必要などあるのか」と言ったように、写真について語ることにいったい意味はあるのか。

かつて中平拓馬はプロヴォークを結成し、写真で言葉を挑発しようとしました。言葉では語りえぬもの、写真ならば語りうるものも、確かにあるかもしれません。写真について語ることはいったいどういうことなのでしょう。たとえばこの写真にはオートバイが写っている、濡れた路面、ベビーカー、ネオン、マネキンの後姿、走り去る女……そんな風に表面をなぞることはできます。いや、表面をなぞることしかできない。しかしそれをあえて言葉にする必要はいったいどこに? すべては写真によって語りつくされているのです。ひとつ実際上に確かなのは、写真は往々にして言葉を誘惑するということ。すぐれた写真家がみな文章に長けているのは、偶然ではないはずです。

森山氏は過去、雑誌の連載の写真に文章をつけることを求められて、嫌々ながら書いたそうです。森山氏は編集者は白色恐怖症だと言いました。写真だけで、ページに余白ができてしまうのが怖い。おそらくそれは雑誌だけではなく、こういった場における対話についてもそうだと思います。つまり、これ以上語る必要はないのだが、何かは語らなければならない、なので語る、といった一連の強迫観念的な語りです。写真がすべてを語っているのに、さらに言葉を付け加えるというのは愚の骨頂と言っては言いすぎでしょうか。しかし、語りえぬものについては沈黙するならば、言葉など必要ないと認めてしまうことになるのです。

過去に牛腸茂雄の写真について評論家が語るのを聞いたことがあるのですが、そのときも何を話しているのだかよくわからない、という経験がありました。そんなの、写真を見ればわかる話じゃないか、と思ったのですが、だからといって沈黙してしまえば評論家の役割は消え去ってしまいます。責任のないぼくのようなアマチュアならば、「これ、かっこいい」くらいのシンプルな感想で済みますが、それじゃ飯は食えませんし。写真について語ることはとても難しくて、慎重さが必要です。

ところでよく知られているように森山氏はカメラは何でもいいと言います。もちろん壊れていないことは当然として、焦点距離の注文くらいはあるでしょうが、ある程度ちゃんと写るなら何でもいい。教員のひとりが「だけど僕なんかはついカメラやレンズに凝ってしまう」と自嘲するのを、「それは駄目だね」ときっぱり言い切ってしまうのは非常にかっこよかった。それで、機材は何でもいいとしても、ひょっとしたら森山氏は、撮るものまで何でもいいのではないかと思ったわけです。

たとえばパリの街角で、鏡に映った自分の姿を撮った有名な写真。「セルフポートレイトと言えばそうだけど、別にナルシストじゃない。歩いてて、鏡やガラスに映った自分の姿を見ることってあるでしょ。眼に入っちゃったら、それはまあ撮ります」と森山氏は言っていました。または、路上生活者の女と乳飲み子の写真。それを撮ることに抵抗はないのか、といった旨の質問に対し、「眼に入ったからにはスナップ写真家として撮らないわけにはいかない」と断言。これもかっこよかった。「すべての被写体は等価」、あるいは、「世界はいつだって決定的瞬間に満ちている」という森山氏の態度。つまり何が撮りたいとかこんな写真を撮ろうといったことが前もってあるわけではなく、ただ眼が感応したものを撮っているだけなのではないか。「肉眼レフ」というダジャレじみた言葉がありますが、まさにそれを思い出しました。

「肉眼レフ」と言えば「カメラになった男」である中平拓馬氏ですが、彼は「写真は植物図鑑のようでなくてはならない」と言っています。植物図鑑のように、事物をただそのままに、作為や意図を排除しながら写真に収めるために、手の痕跡を取り除くことができない白黒写真をやめ、日中、カラーポジでしか撮らなくなりました。

極論としては、眼が感応したものすべてを写真に収めようとする森山氏の態度は、まさに世界を採集する行為に似ています。そしてすべては等価であるとする写真群は、まるで植物図鑑のように平面的です。表面的にはずいぶんと違うふたりの写真ですが、案外やっていることは似ているのかもしれません。まあ森山氏のほうが親切というか、わかりやすい、かっこいい写真を撮ってくれるので親しみやすいんですが。