戦争責任追及の不徹底がもたらしたもの
わが国の政治には美しさがない、というよりはっきりいって醜い。それは、一つには、政治家、特に保守的政治リーダーたちの無節操、無責任、廉潔性の欠如に原因があるようだ。
わが国の保守的政治リーダーたちの無節操、無責任、廉潔性の欠如は一体どこから来ているのであろうか。これは保守的政治家の遺伝子ともいうべきものに由来するもので、彼ら子々孫々に連綿と受け継がれてゆくべきものなのであろうか。
私は、これは、アジア・太平洋戦争にかかわる戦争責任の処理に起因する特殊要因が大きく影響しているように思う。昭和天皇は勿論、戦後の保守的政治リーダーたちのひな型を形成した人たちの多くは日本国民の手によって、戦争責任を厳しく追及されるべき人たちであった。
戦争責任は、ほんのひとにぎりの軍人、政府当局者、軍国主義者もしくは超国家主義者に対する勝者の、勝者による、勝者のための裁きというかたちで処理されてしまった。そこにおいては国際法の理念である正義、公正は無視され、プラグマティックな考え方がまかりとおり、超大国の政治的打算が優先された。そして実に残念なことではあるが、日本国民の手による戦争責任の追及は不発に終わってしまった。
極東軍事裁判及び日本の旧占領地において行われた裁判によって裁かれた人たちは、ただ運が悪かったのだ、これは単なる敗戦国の戦勝国に対する通過儀礼としてやむを得なかったのだ、と、裁きを免れた夥しい数の戦犯容疑者や戦犯候補者たちは、そう叫んだ。そしてわが国民も、「一億総懺悔」論なる国民への責任転嫁のめくらましに幻惑されて、彼らのそうした叫びをなんとなく受け入れてしまい、彼らを戦後の保守的政治リーダーとして認知してしまったのである。
戦争責任については、既にあまたの歴史家、政治学者、思想家が論じている。私は、最もこれを誠実に、精緻かつラジカルに論じているのは、家永三郎『戦争責任』(岩波現代文庫)であると思う。家永先生は、まずは昭和天皇の戦争責任を解明し、ついで日本国家と戦争開始・継続時の諸決定に関与した当局者とこれを推進した文武の諸官、学者、政治家、思想家たちの被占領諸国、交戦諸国及びこれら諸国の人民、並びに日本国民に対する戦争責任を明確にする。さらに同時代の一般の日本国民と現代の日本国民の戦争責任とその責任のとり方についても論及している。家永先生の鉾先は、連合国諸国にも及び、それら諸国の戦争責任も決してうやむやにはしない。是非一読をされたい。
ことを極東軍事裁判に限って、不条理の数々を見ておこう。
第一に、天皇の戦争責任は、いちはやく追及圏外に置かれてしまった。米国の戦時における心理作戦(戦争戦術の一環としての情報・諜報作戦)の最重点は天皇の利用であったが、それが占領下においてGHQ・マッカーサーの手で発動されたのである。
第二に、GHQが逮捕した戦犯容疑者は、起訴された28名のほかに少なくとも50名が巣鴨プリズンに収用もしくは一部自宅拘禁され、第二次起訴を待つ身であった。ところが1947年8月~10月にかけて、国際検察局は、早々と真崎甚三郎、鮎川義介、正力松太郎ら31名の起訴を諦め、彼らを釈放してしまった。残り19名の中に、「革新官僚」で戦時の閣僚に就任した岸信介、安倍源基、後藤文夫らや豊田副武、児玉誉士夫、笹川良一らの名前が確認できる。極東軍事裁判は、1948年12月12日、28名の被告中、途中死亡した松岡洋右と永野修身、精神障害により免訴となった大川周明を除く25名に対し、死刑7名(東条英機、広田弘毅ら)、終身禁固16名という重刑を科する判決で終わり、同月23日、7名に対する絞首刑が執行された。くだんの19名の容疑者らは、なんとその翌日全員釈放された。なんというクリスマス・プレゼントであろうか。
極東軍事裁判の不条理はこれだけのことではなかった。第三に、免責の特典を得た昭和天皇は、1951年4月、マッカーサーとの最後の会見で、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付き、この機会に謝意を表したいと思います。」と述べた。あっと驚くなんとかである。昭和天皇は、一体、どういうことに謝意を表したのであろうか。
第四に、これまたあっと驚くなんとかであるが、岸信介が総理大臣に就任してまっさきにやったことは、終身禁固刑を受けて仮出所中のA級戦犯10名の赦免要求であった。
サンフランシスコ講和条約11条は以下のように定めている。
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を科した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。」
この赦免規定を活用して、岸は、かつての巣鴨プリズンの仲間たちの救済を図ったのである。この頃になると米国も、日本はアジア太平洋戦略の有力なパートナーである。多少の無理もきいてやらねばならない。岸が駐日米国大使に要求をしたのが1957年5月1日、米国は、早速かつての連合国の了解を取り付け、翌1958年4月7日付で、わが外務省に対し、終身禁固刑は「服役した期間まで刑を減刑する」との赦免決定を送付してきたのである。なんとお手軽な終身禁固刑であろうか。赦免を受けた人たちの中には、後に、自民党代議士となり、池田内閣で法務大臣をつとめた賀屋興宣がいた。
こうした戦争犯罪の処理が、国民各層にモラル・ハザードをもたらしたのである。とりわけわが国の保守的政治リーダーにおいて、それは顕著であった。 (了)
わが国の保守的政治リーダーたちの無節操、無責任、廉潔性の欠如は一体どこから来ているのであろうか。これは保守的政治家の遺伝子ともいうべきものに由来するもので、彼ら子々孫々に連綿と受け継がれてゆくべきものなのであろうか。
私は、これは、アジア・太平洋戦争にかかわる戦争責任の処理に起因する特殊要因が大きく影響しているように思う。昭和天皇は勿論、戦後の保守的政治リーダーたちのひな型を形成した人たちの多くは日本国民の手によって、戦争責任を厳しく追及されるべき人たちであった。
戦争責任は、ほんのひとにぎりの軍人、政府当局者、軍国主義者もしくは超国家主義者に対する勝者の、勝者による、勝者のための裁きというかたちで処理されてしまった。そこにおいては国際法の理念である正義、公正は無視され、プラグマティックな考え方がまかりとおり、超大国の政治的打算が優先された。そして実に残念なことではあるが、日本国民の手による戦争責任の追及は不発に終わってしまった。
極東軍事裁判及び日本の旧占領地において行われた裁判によって裁かれた人たちは、ただ運が悪かったのだ、これは単なる敗戦国の戦勝国に対する通過儀礼としてやむを得なかったのだ、と、裁きを免れた夥しい数の戦犯容疑者や戦犯候補者たちは、そう叫んだ。そしてわが国民も、「一億総懺悔」論なる国民への責任転嫁のめくらましに幻惑されて、彼らのそうした叫びをなんとなく受け入れてしまい、彼らを戦後の保守的政治リーダーとして認知してしまったのである。
戦争責任については、既にあまたの歴史家、政治学者、思想家が論じている。私は、最もこれを誠実に、精緻かつラジカルに論じているのは、家永三郎『戦争責任』(岩波現代文庫)であると思う。家永先生は、まずは昭和天皇の戦争責任を解明し、ついで日本国家と戦争開始・継続時の諸決定に関与した当局者とこれを推進した文武の諸官、学者、政治家、思想家たちの被占領諸国、交戦諸国及びこれら諸国の人民、並びに日本国民に対する戦争責任を明確にする。さらに同時代の一般の日本国民と現代の日本国民の戦争責任とその責任のとり方についても論及している。家永先生の鉾先は、連合国諸国にも及び、それら諸国の戦争責任も決してうやむやにはしない。是非一読をされたい。
ことを極東軍事裁判に限って、不条理の数々を見ておこう。
第一に、天皇の戦争責任は、いちはやく追及圏外に置かれてしまった。米国の戦時における心理作戦(戦争戦術の一環としての情報・諜報作戦)の最重点は天皇の利用であったが、それが占領下においてGHQ・マッカーサーの手で発動されたのである。
第二に、GHQが逮捕した戦犯容疑者は、起訴された28名のほかに少なくとも50名が巣鴨プリズンに収用もしくは一部自宅拘禁され、第二次起訴を待つ身であった。ところが1947年8月~10月にかけて、国際検察局は、早々と真崎甚三郎、鮎川義介、正力松太郎ら31名の起訴を諦め、彼らを釈放してしまった。残り19名の中に、「革新官僚」で戦時の閣僚に就任した岸信介、安倍源基、後藤文夫らや豊田副武、児玉誉士夫、笹川良一らの名前が確認できる。極東軍事裁判は、1948年12月12日、28名の被告中、途中死亡した松岡洋右と永野修身、精神障害により免訴となった大川周明を除く25名に対し、死刑7名(東条英機、広田弘毅ら)、終身禁固16名という重刑を科する判決で終わり、同月23日、7名に対する絞首刑が執行された。くだんの19名の容疑者らは、なんとその翌日全員釈放された。なんというクリスマス・プレゼントであろうか。
極東軍事裁判の不条理はこれだけのことではなかった。第三に、免責の特典を得た昭和天皇は、1951年4月、マッカーサーとの最後の会見で、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付き、この機会に謝意を表したいと思います。」と述べた。あっと驚くなんとかである。昭和天皇は、一体、どういうことに謝意を表したのであろうか。
第四に、これまたあっと驚くなんとかであるが、岸信介が総理大臣に就任してまっさきにやったことは、終身禁固刑を受けて仮出所中のA級戦犯10名の赦免要求であった。
サンフランシスコ講和条約11条は以下のように定めている。
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を科した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。」
この赦免規定を活用して、岸は、かつての巣鴨プリズンの仲間たちの救済を図ったのである。この頃になると米国も、日本はアジア太平洋戦略の有力なパートナーである。多少の無理もきいてやらねばならない。岸が駐日米国大使に要求をしたのが1957年5月1日、米国は、早速かつての連合国の了解を取り付け、翌1958年4月7日付で、わが外務省に対し、終身禁固刑は「服役した期間まで刑を減刑する」との赦免決定を送付してきたのである。なんとお手軽な終身禁固刑であろうか。赦免を受けた人たちの中には、後に、自民党代議士となり、池田内閣で法務大臣をつとめた賀屋興宣がいた。
こうした戦争犯罪の処理が、国民各層にモラル・ハザードをもたらしたのである。とりわけわが国の保守的政治リーダーにおいて、それは顕著であった。 (了)